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# 石炭がわかる本

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世界遺産｢明治日本の産業革命遺産｣ガイドブック石炭編石炭がわかる本発行◉｢明治日本の産業革命遺産｣人材育成事業実行委員会監修◉加藤康子一般財団法人産業遺産国民会議専務理事著者◉一般財団法人石炭エネルギーセンター

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発刊にあたって世界遺産「明治日本の産業革命遺産」ガイドブック石炭編石炭がわかる本CONTENTS02発刊にあたって一般財団法人産業遺産国民会議専務理事加藤康子04石炭の起源宇宙からの贈り物石炭は太陽エネルギーの缶詰06石炭と文明蒸気機関を動かす産業革命を支えたエネルギー源08国際情勢の的確な判断迫る海防の危機侍の科学への挑戦が始まる石炭資源が豊富だった日本グローバリゼーションへの適応コラム石炭技術の導入推移13STEP1西洋技術の導入採炭技術を一新して機械化1文明開化の火をともす近代炭鉱の誕生2資源権益を守る炭鉱開発と産業資本の発展3蒸気から電力へ海底深く掘り進む4水との闘い三池炭鉱の民営化と再開発コラム石炭を運ぶ鉄道網の発達23STEP2産業基盤の確立大規模物流システムを構築5世界への窓口積出港のインフラ整備6百年の礎を考える珠玉の名港を築く7黒いダイヤ産業発展と外貨獲得の糧30価値の再評価33石炭の基礎知識一般財団法人産業遺産国民会議専務理事加藤康子日本は幕末から明治にかけて非西洋諸国で、先駆けて産業の近代化に取り組み、半世紀余りという極めて短い期間で産業国家としての地位を確立しました。このことは世界史上において特筆すべき出来事であり、人類共通の遺産としてふさわしい普遍的な価値を持っています。産業化の歩みは幕末、西洋科学の情報が乏しいなか海防の危機感から国を守るため、鉄製大砲の鋳造や大海原を渡る大型船への挑戦から始まりました。石炭資源の豊富な日本では、石炭は蒸気船や蒸気機関車の燃料炭として、また製鉄・製鋼のためのコークス用原料として、明治日本の急速な産業化を支えました。明治日本は自らの力で人を育て、西洋の産業革命をけん引した最新の技術を導入することに成功し、半世紀で産業のシステムやインフラを構築しました。近代化の歩みの中で、石炭は産業の糧（パン）と呼ばれ、産業化の原動力でした。「明治日本の産業革命遺産製鉄・製鋼、造船、石炭産業」における石炭産業分野の構成資産群には、現代日本の繁栄の原動力となった先人たちの石炭産業のへの情熱や知恵が息づいています。この素晴らしい遺産の保全と次世代への継承に向け、本書が一助となることを祈念しています。そして石炭が、これからも私たちの豊かな暮らしと社会を支え、日本の未来を切り拓いていってほしいと願っています。表紙2013（平成25）年の端島炭坑撮影：内山英明／一般財団法人産業遺産国民会議所蔵

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世界遺産｢明治日本の産業革命遺産｣ガイドブック石炭編石炭がわかる本長崎歴史文化博物館所蔵1910年代（明治43～大正8年）当時の端島炭坑

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石炭の起源宇宙からの贈り物石炭は太陽エネルギーの缶詰石炭とは一体どのように生まれたのでしょうか。その生い立ちから話を始めましょう。04空に輝く恒星たち。その一つ一つに神話があります。「あ夜そこが石炭袋だよ。空の孔だよ」。これは宮澤賢治の童話作品『銀河鉄道の夜』の一節です。銀河鉄道の旅は銀河に沿って北十字星から始まり、南十字星（サザンクロス）を旅立って石炭袋（コールサック）という星が生まれる暗黒星雲を車窓越しに見ながら終わりを迎えます。南十字星の左下にある石炭袋は、地上から最もはっきり観測できる暗黒星雲です。暗黒星雲に含まれる塵（ちり）やガスによって背景の星や銀河などの光が吸収され、あたかもぽっくり孔の空いたような黒い雲のように見えます。実はそこが新しく星の生まれる場所「HII（エイチツー）領域」なのです。最も単純な元素である水素からさまざまな元素が合成され、数千個の新しい恒星を生み出していきます。139億年前の宇宙誕生から素粒子、原子核を経て、水素から炭素や酸素、鉄といった元素が合成されていきました。そのなかで水素は現在でも宇宙全体の92％以上を占めています。これら元素が恒星系を形づくり、その周りを回る惑星ができていき、太陽系が形成されました。太陽系の惑星である地球は、宇宙の中で生命が誕生するのにちょうど適した温度域とする「ハビタブルゾーン」にありました。水素と酸素から水が出来上がり、海の中で生命体が生まれました。水素結合によってDNA（生物の遺伝情報）が複製されると、太陽内での水素の核融合で生成する光エネルギー（太

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宇宙は水素にあふれている石炭などの化石燃料は、元をたどると太陽内での水素の核融合による光エネルギー（太陽光）によって生まれました。石炭は植物と同じように、主に炭素と酸素、そして水素の3つの原子が結合してできています。石炭の起源05陽光）を利用して光合成を行う植物が生まれました。進化した植物はさんさんと降り注ぐ太陽の光を受け、大気中の二酸化炭素を吸収して、大量の酸素を放出するようになりました。金星や火星の大気の主成分は現在も二酸化炭素です。かつて地球の大気の主成分も二酸化炭素でしたが、空気中に酸素が増えると酸素呼吸が可能となり、豊かな生物種が地球上に広がっていき、人類の誕生に至りました。石炭は植物体内に蓄積された炭素と水素が、長い年月の間に変化したものです。特に石炭紀、ジュラ紀、古第三紀には、温暖な気候が続き植物が繁茂したため、世界各地で石炭が形成されました。なかでも石炭紀の大気中には二酸化炭素が35％もあり、植物が繁茂し光合成を盛んにしました。これら植物が体内に炭素や水素として蓄積し、その植物遺骸が長い年月の間に地熱や地圧などの影響で成分の濃縮を進め、泥炭、褐炭、瀝青炭、無煙炭のように変化していきました。それが石炭なのです。私たち地球上の生命体のエネルギー源は、水素と炭素に依存しています。生命起源の石炭もまた水素と炭素で構成され、数千万年から数億年前の太陽の恵みを植物が取り込んだ、宇宙からの贈り物であり、まさに太陽エネルギーの缶詰なのです。地球の歴史は、その水素・炭素の大循環が主役となり、現代の私たちの営みもこの大循環の中にあるのです。

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石炭と文明蒸気機関を動かす産業革命を支えたエネルギー源人類の歴史はエネルギー利用技術の発達とともに文明を進化させてきました。なかでも石炭をエネルギー源とする蒸気機関と鉄を効率的に生産するコークス高炉法がイギリスで発明・改良されるや、文明は飛躍的な発展を遂げました。06炭利用が始まったのは古代ギリシャで、紀元前315年に石鍛冶屋の燃料として使われたと記録が残されています。また同年代である中国の戦国時代の遺跡から石炭を使用した痕跡が見つかっています。宋代から盛んに燃料として用いられるようになりました。しかし人類は約50万年前に火を使い始めて以来、ずっと薪を使用してきました。つまり人類が築いた文明は、森の資源に強く依存していました。例えば、古代地中海文明の経済的基盤を支えた貿易には船が必需品で、その材料は木でした。輸出する青銅品や陶器をつくるための燃料には大量の薪が必要でした。神殿の梁や床、壁にも良質の材木がふんだんに使われました。盛んに木を切ったため、ギリシャの美しく荘厳な白い大理石の神殿の背後は、はげ山ばかりとなってしまいました。人類とエネルギーの関係を大きく変えたのは産業革命でした。欧州では中世以降に興隆した製鉄・金属産業や窯業、製塩、暖房・炊事用の燃料として、18世紀までに森林を大量破壊していました。欧州の薪炭消費量は年間2億tに達し、特にイギリスでは森林がほぼ消失していまい、木炭を使えなくなった製造業や窯業が存亡の危機に瀕しました。そこで石炭と鉄鉱石の資源を豊富に持っていたイギリスで、本格的な石炭利用が始まりました。石炭を製鉄に利用するためには不純物が多く、極めて困難でしたが、石炭を蒸し焼きにして不純物を取り除き、コークスにして利用することでこの点が解決されました。製鉄技術の革新によって、石炭関連産業は急速に成長しました。大量の石炭を運ぶため運河や鉄道がつくられました。運河や鉄道を整備するためには大量の鉄鋼材料が必要となり、さらなる石炭の増産が求められました。地表の石炭を採掘し尽くすと、立穴を掘り地下に坑道を巡らす採掘に移行しました。しかし坑内に止めどなく地下水が湧いてきます。人力や畜力での排水には限界がありました。この難題を解消したのが蒸気機関でした。

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イギリスで産業革命が始まった背景①労働力革命工業の進展に伴い、各地の工場などでは、労働力不足に見舞われ、生産性向上が望まれていました。そのとき都市近郊の土地囲い込みにより、追われた労働者が都市に流入し、工場での労働力確保が可能となりました。②動力源の革新それまで工場は水力を利用するため、川沿いに建設するほかありませんでした。しかしワットが改良した蒸気機関によって、都市近郊に建設することが可能となり、生産システムは家内制手工業から工場制手工業（マニュファクチュア）に代わりました。③資本の蓄積と環境貢献これまで太陽エネルギーそのものの自然に頼っていた産業が、森林資源の枯渇によって、存亡の危機に瀕しました。そこで地球に埋蔵された過去の太陽エネルギーである石炭を、動力に使うことで飛躍的な生産力を生み出すことになりました。その結果、生産者は莫大な富を築く一方、1910年代には石炭による年間エネルギー生産は、国土の約3倍の森林に匹敵するまでになり、環境保全に貢献しました。スコットランドグラスゴーエディンバラニューキャッスルリヴァプールマンチェスターブリストルカーディフランカシャーバーミンガムヨークシャーヨークリーズハルシェフィールドリンカンノッティンガム世界初の旅客鉄道（1830年）炭鉱（1800年ごろ）鉄の産地運河（1800年ごろ）囲い込まれた土地の比率20～50％50％以上ロンドンケンブリッジ北海石炭と文明0100km産業革命時代のイギリス出典「詳説世界史」山川出版社京都鉄道博物館所蔵ジェームズ・ワットの蒸気機関（模型）石炭でつくった水蒸気の熱エネルギーをピストンの上下運動から回転運動に変えることに成功し、紡績や織機、交通機関に利用されました。イギリスには資源を使いこなす技術革新の素地がありました。ロンドン科学博物館所蔵ロンドン科学博物館のスチーブンソンのロケット号復元品1830年イギリス中部の工業都市マンチェスターと港町リバプールの間に、世界で最初の実用的な蒸気機関車を用いた鉄道が開通しました。このときの機関車がスチーブンソンのロケット号です。蒸気機関はトーマス・ニューコメンによって1712年に発明され、ジェームズ・ワットが1765年に改良することで能力は著しく増大し、真に動力源として革命的なものとなりました。炭鉱や鉱山の排水だけでなく、さまざまな機械に応用され、蒸気船や蒸気機関車が生まれました。それらの燃料はもちろん石炭です。人類は機械による回転運動という革命的な技術を手に入れると、19世紀には電気を生み出す発電装置を発明しました。これらの発明・技術の恩恵は現代生活に不可欠なものになり、イギリスをはじめとする産業革命達成諸国の人口の増加につながりました。徒歩では1日せいぜい20kmしか移動できなかったものが、鉄道であれば600～800kmも移動できます。人類は人力や畜力、風力、水力をはるかに上回る強力なパワーを手に入れました。石炭は蒸気機関を動かすエネルギー源として産業革命を支えました。産業革命は瞬く間に世界全域に広がり、その波は幕末の日本にまで押し寄せました。暮らしを変えた石炭産業革命は都市生活にも大きな影響を及ぼしました。都市には石炭を家庭用暖房の燃料として使用するよう設計された住宅群（タウンハウス）がつくられ、排煙する煙突も室内に備わっていました。ミュージカル映画「メリー・ポピンズ」（1964年アメリカ）中に登場する煙突掃除人は、当時のイギリス社会で欠くことのできない存在でした。また「メリー・ポピンズリターンズ」（2018年アメリカ）では、30年後に煙突掃除人はガス灯の点消方になって再登場します。ガス灯は石炭を蒸し焼きにしたときにできるガスを利用して、ともされました。照明としてのガス灯器具を最初に製作したのは、スコットランド人技師ウィリアム・マードックで、1797年にイギリスのマンチェスターに設置されました。日本で最初に西洋式ガス灯がともされたのは1871（明治4）年、大阪市の造幣局周辺でした。翌1872（明治5）年には、実業家の高島嘉右衛門とフランス人技師アンリ・プレグランの尽力により、神奈川県横浜市に街灯として初めて石炭によるガス灯がともりました。これらのガス街灯の点灯・消灯業務に携わる人を点消方といいました。現在では、燃料は石炭ではありませんが、趣のある景観の街灯として、観光地などに見ることができます。横浜のガス灯GASMUSEUMがす資料館所蔵もっと知りたい！産業遺産を活用する⇒P32をチェック07

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石炭資源が豊富だった日本グローバリゼーションへの適応幕末日本を語るうえで蒸気船の存在は欠かせません。日本には欧米から数多くの蒸気船が寄港し、燃料として良質な石炭が求められました。石炭需要が高まり、全国各地で採炭事業が興っていきました。10東京大学史料編纂所所蔵1854（嘉永7）年ペリー第2次来航ペリーは初めて神奈川に上陸し、日本側使節と条約締結交渉を行い、日米和親条約が調印されました。戸幕府は1842（天保13）年、攘夷の嵐が吹き荒れるな江か、異国船打払令を薪水給与令に改め、外国船に食料や水を与えて帰らせることとしました。その後も幕府は異国船打払令の復活を試みますが、海軍力のない日本は沿岸警備が手薄のため断念せざるを得ませんでした。一方、極東の植民地支配と拠点の拡大を目論む欧米列強にとり、日本産の石炭は魅力の的でした。日本列島は地理的にも極東において、アジア貿易の終着点に立地します。日本で蒸気船の燃料を買い付けることができれば、帰路分の石炭を積んでいく必要がなくなり、その代わりに多くの交易品を積め、貿易量を増やすことができます。一説によると、アヘン戦争でわずかではあるものの、イギリス艦隊がオランダを介して日本産の石炭を調達し、そのことが日本の石炭資源の存在を欧米諸国に知らせるきっかけとなりました。こうしたなか、アジア進出に出遅れたアメリカは、アヘン戦争後に清国と通商条約を結び、太平洋航路を開設するため、マシュー・ペリー率いるアメリカ合衆国東インド艦隊を日本に派遣しました。清国貿易の中継地としての燃料補給と、日本近海で操業する捕鯨船の安全を確保するための寄港地として、日本に開国を求めました。当時、ランプの燃料や工業製品の潤滑油として、鯨油に高い需要があり、アメリカによる捕鯨が盛んでした。1853（嘉永6）年、ペリー率いるアメリカ合衆国東インド艦隊が江戸湾浦賀沖に来航しました。4隻の軍艦のうちサスケハナ号とミシシッピー号は外輪船で、石炭焚きのボイラーを装備していました。もくもくと煙突から天に向かって吐き出されるもうもうたる煙は、当時の日本人に畏怖の念を抱かせました。庶じょうきせん民の間では、上喜撰（緑茶の銘柄）を蒸気船に例え、浦賀に出

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石炭の発見と利用の始まり国際情勢の的確な判断大牟田市石炭産業科学館提供国立公文書館所蔵写真協力公益法人鹿児島県観光連盟たんきゅう三池石炭発見伝説図（加藤丹丘）とうかむら1469（文明元）年、三池郡稲荷村（現在の福岡県大牟田市）の百姓伝治左衛門が近くの稲荷山にたき木を取りに行き、枯葉を集めて火をつけると、突然地上に露出していた黒い岩が燃え出しました。これが「燃える石」、つまり石炭の発見と伝えられています。「肥前州産物図考」石炭・焼物大概1773（安永2）年～1784（天明4）年、肥前唐津藩（現在の佐賀県）の主な産業について図録がつくられ、石炭採掘の様子も描かれています。18世紀に瀬戸内地方で製塩業者向けに販路を見出すと、九州北部で炭鉱事業が始まりました。仙巌園の鶴灯籠薩摩藩主の島津斉彬は薩摩藩の富国強兵に成功こうあんした幕末の名君の一人で、蘭学者の松木弘安（のちの寺島宗則）らに石炭ガスの製作法やガス灯に関する研究を命じ、1857（安政4）年日本初のガス灯実験を成功させました。年代1500160017001800190020001三池高島唐津筑豊宇部常磐白糠─釧路幌内─空知夕張：発見：操業：操業中：閉山日本の主要炭鉱における操業期間没した黒船から空にあがる煙に慌てる幕府をもじり、「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌がはやりました。ペリーは1年後に開国要求の答えを受け取る約束をして立ち去り、再来航した1854（嘉永7）年に日米和親条約が締結されました。これに続いてイギリス、フランス、オランダ、ロシアも日本と和親条約を結び、長崎、下田、箱館を開港することになりました。鎖国体制が終わりを告げ、日本は激動の時代に突入しました。なかでも西洋の玄関口となった長崎には世界各国が貿易の拠点を構えました。各藩も西洋科学の情報の収集のため、長崎に置いた出先機関に優れた人材を配置し、貪欲に西洋の新しい技術や知識を吸収しようとしました。しかも長崎湾口の高島や近隣の唐津、筑豊で利用できる石炭資源があり、外国船への石炭補給には好立地でした。日本の石炭産業の近代化は、こうして長崎から始まりました。出典一般財団法人石炭エネルギーセンター91011786日本の石炭分布21：天北炭田2：留萌炭田3：石狩炭田4：釧路炭田5：常磐炭田6：宇部炭田5347：筑豊炭田8：三池炭田9：唐津─佐世保炭田10：西彼杵炭田11：天草炭田開国後の外国船向け燃料炭の調達は、長崎では条件がすでに整っており、下田や横浜への供給もタイミングよく本格的な採炭が始まった常磐炭田あるいは九州地区の炭田が担いました。しかしアメリカからの日本への最短経路に当たる箱館への供給が問題でした。箱館奉行の命で1856（安政3）年、オソツナイ（現在の釧路市）で北海道最初の石炭採掘が始まり、次いで翌年からは茅沼（現在の泊村）で採炭が行われました。明治時代に入ると北海道開拓使による全道の鉱産物調査が実施され、アメリカ人地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンが石狩炭田を発見しました。幌内炭鉱（現在の三笠市）、夕張炭鉱などの開発の基礎となる調査が行われ、北海道開拓に大きな功績を残しました。日本の主な炭田は北海道、常磐、山口・九州地区にあり、明治時代から富国強兵の第一歩として積極的に開発されました。第2次世界大戦後には経済危機を乗り切るため、産業の基礎となる石炭への傾斜生産（重点産業の集中政策）が実施されました。その際、石炭産業は一躍花形となりましたが、1962（昭和37）年に石油がエネルギー供給の首位の座に就くと、石炭よりも安価な石油が主流となっていきました。日本では坑内掘りが主体であるため生産コストは上昇し、日本の石炭産業は国際的な価格競争力を持つことができず、やがて国内の商業生産を行う炭鉱は相次いで閉山していきました。11

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column石炭技術の導入推移産業革命をけん引した石炭技術の年表をまとめます。日本の本格的な石炭採掘は1868（慶応4/明治元）年以来150年の歴史があり、一時は5,500万ｔも日本国内で生産していました。しかし安価な海外産の石油と石炭の利用拡大に伴い、現在は100万ｔ程度の生産に留まっています。しかし石炭全体の利用は年2億ｔに達し、私たちの現代社会を支えています。その基盤は150年前からの石炭採掘の歴史にさかのぼります。そして何よりも日本には利用可能な石炭資源があり、欧米のその採掘および利用技術をすぐに理解でき、即時適応できてきたことが近代日本の産業革命を成功させたことを、歴史が記しているのです。年代主な出来事＜西欧＞採掘技術インフラ整備・利用技術＜日本＞＜西欧＞＜日本＞紀元前紀元後古代ギリシアで石炭の発見木造船・風畜人力利用・バイオマス資源の利用各地で燃料としての試用・水運利用1400年1469年三池炭田の発見1500年16世紀まで森林資源の枯渇16世紀まで小規模地元採掘16世紀まで運河整備･水力利用1600年1639年日本の鎖国17世紀末石炭利用本格化（反射炉）塩田などで利用1700年18世紀後半イギリス産業革命19世紀前半蘭学の隆盛1800年1802年石炭利用本格化（炭鉱ポンプ）1804年トレビシックの蒸気機関車発明1807年フルトンの蒸気船発明121840～42年アヘン戦争1853年ペリー来航19世紀後半から雄藩などで石炭採掘19世紀から帝国主義の時代19世紀後半から幕府雄藩で反射炉建設・蒸気船購入1861年グラバー商会設立19世紀後半から中国市場への石炭輸出開始1868年明治維新1867年シーメンスの発電機1869年グラバー高島開鉱1868年石炭産業への資本参加1873年炭鉱の非海外資本化1872年新橋横浜間鉄道開通1880年官営釡石製鐵所創業1884年三角港の整備開始1889年三池炭鉱の三井払下1887年長崎造船所の三菱払下1890年端島炭坑採炭開始1887年東京・茅場町で石炭火力発電所1893年三池デービーポンプ導入1894年釡石田中製鐵所でコークス高炉1898年筑豊で電気巻揚機使用1900年1901年官営八幡製鐵所創業1904年日露戦争開戦1910年日英博覧会開催1918年第一次世界大戦終結1945年第二次世界大戦終結1902年石炭生産1,000万ｔ1908年三池で電気機関車使用開始1905年三池鉄道開通1908年三池港の完成50年余りでキャッチアップした軌跡1850年代～1860年代試行錯誤の挑戦目的：外国船への石炭供給方策：炭鉱の本格的な操業開始1860年代～1880年代西洋技術の直接導入目的：外貨獲得方策：炭鉱の非海外資本化で資源権益の保護1890年代～1910年産業基盤の確立目的：資本蓄積の基盤形成方策：大量生産を実現する電化とインフラ整備

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STEP1西洋技術の導入採炭技術を一新して機械化荒尾市所蔵／出典三池鉱業所沿革史1898（明治31）年ごろ建設中の三池炭鉱万田第一立坑19世紀には石炭は産業の糧であり、幸い日本には豊富な石炭資源がありました。開国に伴い長崎、横浜、箱館などの条約港には、欧米列強の船舶が寄港し、外国人の貿易商も商館を構えたころから、船舶用の石炭需要が増えていきました。欧米列強は日本から石炭を調達したいと願い、フランスは幕府、イギリスは西南雄藩に炭鉱開発を働きかけました。明治から始まり大正、昭和にかけて、石炭は蒸気船や蒸気機関の燃料炭として、また製鉄・製鋼のためのコークス用原料炭として日本の近代化を支えました。

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1本の石炭産業の近代化は、長崎県長崎市の高島炭坑か日ら始まりました。高島炭坑は長崎港の沖合14.5kmに立地し、西彼杵海洋炭田を形成しています。高野江基太郎著『日本炭砿誌』によれば、18世紀初頭、長崎県平戸の五平太という領民が、高島で燃える石を発見したのが始まりといわれています。当時、出炭量もわずかでしたが、高島炭も瀬戸内の塩田の製塩用燃料として使われていました。日本の炭鉱近代化は、貿易商人トーマス・ブレーク・グラバーが日本で初めて蒸気機関を導入したことで、その第一歩を踏み出しました。グラバーはスコットランドのフレーザーバラという小さな村で生まれました。1861（文久元）年、香港を拠点とするジャーディン・マセソン商会のエージェントとして、23歳の若さで長崎に貿易会社グラバー商会を開設しました。1868（慶応4）年、高島炭坑を経営していた佐賀藩主の鍋島直正は、同藩士の松林源蔵名でグラバーと合弁会社を設立し、高島炭坑の開発を始めました。グラバーはイギリス人技術者サミュエル・モーリスを雇入れ、日本で最初の蒸気機関を動力とした立坑を開坑しました。1869年（明治2）年4月17日には深さ45mでほっけいせいこう着炭に成功し、この立坑は北渓井坑と命名されました。石炭は当時のイギリスで黒ダイヤともいわれ、良質な石炭は14ほっけいせいこう1872（明治5）年ごろの高島炭坑北渓井坑イギリス製の蒸気機関によって巻揚機や排水ポンプを動かし、海底炭田を掘る近代炭鉱が誕生しました。日本大学芸術学部所蔵

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香港・上海市場で高値で取引され、収益をあげました。しかし佐賀藩の資金回収はままなりませんでした。合弁事業において、高島炭の物流や販路の開拓はグラバーが担当していました。グラバーは幕末、炭鉱経営以外にも武器商人として西南雄藩の藩士たちに軍艦や兵器を供給し、手広く事業を経営していました。しかし新しい時代を迎え、政治情勢が安定すると、諸藩からの資金回収が滞ったことなどから、グラバー商会は1870（明治3）年に倒産してしまい、オランダ商社に高島炭坑の利権を引き渡すことになりました。STEP1◉西洋技術の導入長崎市所蔵北渓井坑跡日本で最初に蒸気機関が導入された西洋式立坑。橋渡し役を担ったグラバー長崎歴史文化博物館所蔵トーマス・ブレーク・グラバー（1838～1911）スコットランド出身。1859年長崎に来日し、グラバー商会を設立しました。薩摩藩の五代友厚や森有礼ら薩摩スチューデントのイギリスへの密留学を支援し、明治日本を支える人材育成に大きな役割を果たしました。さらに小菅修船場や高島炭坑の建設・事業化にも協力。のちに三菱が高島炭坑を買収すると、国際取引の渉外関係顧問としてアドバイスを与えるなど、石炭・造船など日本の主要産業の近代化に貢献しました。長崎市所蔵北渓井坑周辺の遺構蒸気機関の基礎とみられる地下遺構が発見されました。旧グラバー住宅1863（文久3）年に建設されたグラバーの活動拠点。国内に現存する最古の木造洋風建築です。長崎市内を一望できるグラバー園は、長崎一の観光施設となっています。長崎市所蔵15日本で初めて蒸気機関を導入高島炭坑①蒸気機関を使って立坑から石炭を巻き上げる②巻き上げた石炭を台車に載せ替え③台車を使って船着き場まで移動④積み出し船へ載せ替えて海上から移送出典長崎市採炭の機械化坑外に蒸気機関を設置し、巻揚機で炭箱をエレベーターのように上下させ、石炭を地上に運び、台車に載せて人力で船着き場へと積み出しました。また蒸気ポンプを据え付けて坑内の湧水を排水し、風車を坑外に置いて通気を行っていました。長崎大学附属図書館所蔵1872（明治5）年ごろの石炭積出桟橋

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216高島炭坑南洋井坑日本大学芸術学部所蔵／上野彦馬撮影治政府は中央集権を強め、1871（明治4）年に廃藩置県明を行い、富国強兵のために重要な産業を守り、育成する方針を打ち立てました。炭鉱は外貨を稼ぐ重要な産業でした。新政府の下、佐賀藩主の鍋島直大は藩と縁の深いアントニウス・ボードウィンのオランダ商社との合弁で高島炭坑を経営するよう工部省に出願しましたが、政府は認可しませんでした。明治政府は富国強兵のため、石炭をはじめ鉱物資源の活用が重要であると考え、鉱山活動から外資を排除しようと「鉱山心得」を制定し、187（3明治6）年には「日本坑法」を公布しました。こうして明治時代、国は必要な外貨を稼ぐ資源権益となる鉱産物を、外国資本から守ったのです。高島炭坑もそれに伴い、1874（明治7）年7月に民営化され、11月に土佐藩士のしょうじろう後藤象二郎に55万円で払い下げが決まりました。払い下げには即納金20万円が必要でしたが、後藤にはその

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資金がなく、ジャーディン・マセソン商会より15万ドルを借り入れ、高島炭坑の経営権を獲得しました。明治政府の外資規制のなか、マセソン商会は炭鉱利権を手に入れるため、中原国之助（山口県の士族で通訳）の名義を借りて事業に投資し、高島炭の販売代理店の権利を獲得しました。さらに出炭量を増やすため、マセソン商会は融資を続け、高島に多額の設備投資を行い、人件費などの運転資金も支援しました。後藤は炭鉱、付属の機械一切をマセソン商会からの負債洋銀76万8,000ドルと年1割の利息を抵当に入れ、香港・上海市場で高値で売れる高島炭の営業利益で借入金を返済しました。当時、高島炭坑は年40万ドルの利潤が見込まれましたが、その50％はマセソン商会への返済と分配に充てられました。後藤が経営した1875～8（0明治8～13）年、高島は出炭量が最大23万tという前途有望な炭鉱でしたが、経営は容易ではあなんようせいこうりませんでした。南洋井坑を新たに掘削するものの、ガス爆発が発生しました。さらに北渓井坑は廃坑され、坑夫の暴動などが相次ぎ、経営が立ち行かなくなり、石炭代価より借金を支払うという条件で三菱に資金を用立ててもらいました。三菱は後藤に低利で貸与しましたが、それでも後藤の返済は滞りました。高島炭坑が経営破綻に陥るなか、後藤の政治家としての資質を惜しみ、手を差し伸べたのが、思想家で教育者の福澤諭吉でした。福澤は1878（明治11）年ごろから働きかけを始め、1880（明治13）年には後藤の女婿である岩崎彌之助宛に「後藤が進退窮まっているようなので、後藤へもっと資金を融通してやってほしい」という書簡を送りました。彌之助を通じて兄で三菱創始者の彌太郎へ折衝させ、参議の大隈重信をも動かし、高島炭坑の譲渡を実現させようと尽力しました。三菱への譲渡交渉時、「高島負債之見込」によると、後藤の負債は中原国之助からの27万円、大蔵省拝借金25万円（これは後藤が1881（明治14）年までに支払わなければならない高島払受け年賦金の累積額概算）、そのほか計101万830円という莫大な金額に膨れあがっていました。一方、「高島炭坑利益見込」によると、石炭の収益から償却しても、8年後なお35万9,220円の借金が残る計算で、高島譲渡は三菱に損失をもたらすものでした。高島の推定埋蔵量や出炭予想から見た収支見通しでは採算がとれなかったものの、彌之助は石炭販売の利ざやと、既存の設備、船舶や施設の資産価値など、高島炭坑を総合的に高く評価しました。出炭と高島炭坑の物流を一体として見ていたのです。こうした考え方には、彌太郎が海運業を営んでいたことが背景にあります。彌太郎は1870（明治3）年、外商より購入した汽船快順丸を紀州新宮藩（水野家）に銀7万5,000ドルで転売しました。新宮藩は内金として2,000ドルを支払ったのみで、残金および利子合計7万9,000ドル余りの代償として、彌太郎は1871（明治4）年以降15カ年の期限で藩所属の萬歳および音河の2炭鉱の租借権を譲り受けていました。彌太郎個人は後藤に不信感を抱いていたため、高島炭坑の譲渡交渉は難航しました。しかし三菱は自社船舶を持っており、船を石炭の運搬に効率良く使えば高島炭坑は収益が見込めると判断し、買い取り契約は成立しました。三菱は高島炭坑を熟知していたグラバーを雇い直し、経営を軌道に乗せました。高島炭坑は彌之助の計算どおり明治20年代における三菱最大の事業となって大きな収益をもたらし、三菱が海運から鉱業や造船を中心とする一大産業資本に成長する核になりました。そして高島炭坑で導入された西洋技術は、端島や三池、筑豊、北海道に伝わり、旧来技術を一新し、日本の石炭産業の発展につながっていきました。STEP1◉西洋技術の導入17高島炭坑を大炭鉱へと導く三菱史料館所蔵岩崎彌太郎1835（天保5）～1885（明治18）年土佐出身。幕末、坂本龍馬が隊長となった海援隊の会計を担当。1870（明治3）年に九十九商会の経営を引き受け海運業に乗り出すと、経営資源をさまざまな事業に注ぎ込みました。高島炭坑や長崎造船所の買収もその一環で、多角化によって三菱財閥の基礎を築きました。長崎歴史文化博物館所蔵岩崎彌之助1851（嘉永4）～1928（昭和3）年三菱創始者・岩崎彌太郎の弟。高島炭坑の買収では副社長として彌太郎を説得し、三菱の多角化路線を展開する際の重要な布石となりました。2代目社長就任後、炭鉱経営では1888（明治21）年官営三池炭鉱払い下げの競争入札で三井に競り負けたものの、筑豊の中小炭鉱を次々と買収。炭鉱への積極的な設備投資と新技術導入で生産を飛躍的に伸ばしました。

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318島は長崎港から南西約18kmの海上に浮かぶ面積6.5ha端ほどの小さな島です。高島より南西3kmに位置し、高島炭坑と同じ西彼杵海底炭田に属しています。石炭が発見されたのは1810（文化7）年で、このころの端島は大きな岩礁に過ぎませんでした。漁民が磯堀りと称して、ごく小規模に露出した石炭を採る程度でしたが、三菱は189（0明治23）年、高島炭坑の経営に成功したことを機に端島の購入を決断しました。高島炭坑と同様に炭質が強粘結性で、高値で売れました。189（1明治24）年から出炭が始まり、189（7明治30）年には出炭量で高島炭坑を凌駕するまでに成長します。出炭量が増加すると、採炭の際に出てくるボタ（捨て石）で島の周囲を埋め立て、島を拡張しました。岩礁の小島を取り囲む新たな土地は、高波から島を守るため、要塞のような護岸に囲まれ、明治期の護岸は「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産価値に貢献しています。1900（明治33）年にはエネルギー革命による電化が始まり、のちに電動巻揚機が導入されたことで、海底深く安定的に掘進・採掘することが可能になりました。やがて端島は世界有数

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電気利用事始め1910（明治43）年、端島に初めて電気の灯りがともりました。しかし電気と電気機械は欧米でも発明されてからわずか20年程度しか経っていませんでした。明治日本の先人たちは、最新技術であった電気の効用をよく理解し、着実に自分のものにしていきました。炭鉱での電気利用はまず照明に始まりま軍艦島デジタルミュージアム所蔵した。真っ暗な坑内では照明が不可欠です。裸火は可燃性ガスに引火して爆発災害の原因となるからです。そのため欧米で油ランプ（安全灯）が考案されました。そしてより安全な電池式安全灯がつくられると、日本では1904（明治37）年に三池炭鉱で初めて導入され、1921（大正10）年から高島炭坑で帽上照明が使われるようになりました。電池箱を腰に着け、帽子の前面に付いているランプで照らす方式は、万国共通の採炭スタイルとして定着しました。続いて電気利用は各種機械に展開されていきます。電気を電灯や動力源として使うためには、電池では消耗が早く、大規模発電が不可欠です。1867年にドイツのシーメンスが発電機を発明し、電力を得ることに成功して以来、電力は文明の寵児となりました。そして日本の竹を用いた白熱電灯を実用化したトーマス・エジソンは、1882年にアメリカで電力供給事業を開始しました。日本では1887（明治20）年、東京茅場町に初めて石炭火力発電所が設置され、電力供給が始まりました。そして1894（明治27）年に三池炭鉱で坑外照明が電灯となり、1898（明治31）年に福岡県の古河下山田炭鉱で坑内巻揚機の動力源として電気が使われ始め、1900（明治33）年には電動ポンプも導入されました。エネルギー損失の少ない電動ポンプの普及は早く、昇降機の巻揚機、送風機など炭鉱の電化が進むとともに、東芝や日立製作所のような電機メーカーの発展につながっていきました。STEP1◉西洋技術の導入坑外図で見る端島の変遷坑内図：黒沢永紀所蔵坑内写真：軍艦島デジタルミュージアム所蔵端島炭坑の海底坑道図製鉄のコークスがつくれる特性を持った石炭（強粘結炭）を産出し、主に官営八幡製鐵所に供給されるなど、日本の近代工業を支えてきました。面積6.5haほどの小さな島で、先端技術を結集した産業都市づくりが行われました。1897（明治30）～1907（明治40）年島が拡張されていきました。19の海底炭鉱に成長し、端島の採炭技術や経験は三菱の近代炭鉱の基礎を築き、三池を含む全国の炭鉱、さらにはアジアへと伝播していきました。端島はそのシルエットが軍艦土佐に似ていることから、「軍艦島」と呼ばれるようになりました。最盛期には世界で最も人口密度が高いコミュニティーを形成するほどでした。しかしエネルギー革命により石炭から石油にエネルギーが転換されると、1974（昭和49）年1月に閉山へ追い込まれました。無人島となった現在は長崎市が管理しています。1921（大正10）年蒸気と電力で機械を動かしていました。1974（昭和49）年機械化採炭など新たな挑戦が進められました。長崎県所蔵現在の端島

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4島炭坑に次ぎ近代化されたのは三池炭鉱でした。三池高は遠浅で干満の差の大きな干潟を有する有明海に面しています。日本で初めて石炭が発見された地ともいわれ、藩営に近い組織的な形態で採炭されてきましたが、1873（明治6）年に明治政府に買い上げられ、官営となりました。明治政府はイギリス人鉱山技師フレデリック・ポッターを採用しました。ポッターは高島炭坑でモーリスの後任として技術改善を担った炭鉱技師です。採炭現場は湧水が多く、常に水との闘いでした。ポッターの提案では大量生産には最新の採炭設備と多額の設備投資が必要でした。まず1878（明治11）年に蒸気巻揚機、翌年には蒸気ポンプを導入しました。それまでの人力による運搬は炭車に代わり生産性が向上し、近代化が進む三池炭鉱は機械化のモデル炭鉱として位置づけられました。188（9明治22）年、三池炭鉱は三井財閥に払い下げられ、三池炭鉱社が設立されました。三井は石炭の大量生産のため、その資本力を活かし、欧米から最新の採炭設備を導入し、自社工場で大規模な鉱山機械の開発に着手しました。これまでの機械は小型だったこともあり、多くが長崎造船所で製造されていました。長崎造船所は1887（明治20）年に三菱に払い下げられましたが、官営時代より熟練工が育成され、船舶機械に20CharlesGriffin株式会社所蔵1900（明治33）年デービー社設計図三池炭鉱の立坑に当時世界最大の排水設備と最先端の巻揚機が導入されました。

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限らず、陸の機械設備、特に炭鉱の機械も製造していました。三池炭鉱社事務長に就任した團琢磨は、近代化に積極的に取り組みました。まず官営時代からの人員に加えて、気鋭の技術陣を新たに採用し、西洋技術の実技経験を積んだ技師や技能工を確保するため、三菱長崎造船所の熟練工や、高島炭坑から労働者を多く雇用しました。さらに三池の機械工場を統合し、製作課（現在の三井三池製作所）を立ち上げ、機械技術の向上を図りました。その結果、坑内機械の修理から脱して内製が可能となり、1901（明治34）年には万田坑の諸機械を設計・製造できるようになりました。三池炭鉱は1900年代に入るまで、採炭技術にまだ問題がありました。なかでも最大の課題が湧水対策でした。1889（明治22）年、熊本で発生した大地震は三池に大被害を与えました。坑内は湧水であふれ、排水ポンプはフル稼働を続けました。しかしながら石炭の生産は伸び悩みました。さらに勝立坑では、工事中の立坑が全て水没し、保有ポンプを全量投入しても水位が下がらず、窮地に追い込まれていました。團は1891（明治24）年、海外で調査してきた当時最新鋭のイギリス製デービーポンプの購入を提案しました。デービーポンプはかなり高価な装置で、もし成果を挙げられなければ責任問題に発展します。それでも三井の大番頭の益田孝はデービーポンプ2台の購入を決断しました。結果は團の読みどおり成功しました。デービーポンプの威力は絶大でした。湧水を克服した勝立坑の操業によって、三池炭鉱の命脈は保たれました。そして189（8明治31）年に宮原坑、190（2明治35）年に万田坑が相次いで操業を開始しました。三池炭鉱は明治から大正期を通じて、年間平均出炭量は90万t以上に達しました。日本一の出炭量を誇り、日本の産業発展を支えました。イギリスの最先端技術をいち早く導入デービーポンプの導入デービーポンプは、蒸気機関など場外機械の大部分が坑内ではなく、地下に配置されるため、地下の湧水の影響を受けずに運転を継続でき、従来にない排水能力を発揮しました。大牟田市所蔵大牟田市石炭産業科学館所蔵宮原坑1898（明治31）年開坑した宮原坑で、1901（明治34）年に完成した第二立坑の施設です。やぐらは鋼鉄製で、当時最大の問題であった坑内排水に対処するため、デービーポンプ2台を備えていました。STEP1◉西洋技術の導入21三池炭鉱の育ての親大牟田市石炭産業科学館所蔵團琢磨1858（安政5）～1932（昭和7）年福岡藩士の四男として生まれ、1875（明治8）年岩倉使節団に随行して渡米し、マサチューセッツ工科大学で鉱山学と冶金学を学びました。帰国後、東京大学助教授などを経て工部省に入り、鉱山技師として官営三池炭鉱に従事していたとき、三井物産の益田孝に才能を見出されました。事業家としても優れた手腕を発揮し、三池炭鉱が三井のドル箱といわれるようになり、三井財閥形成の原動力となりました。1914（大正3）年に三井合名会社理事長、1922（大正11）年設立の日本経済連盟会（現在の日本経済団体連合会）初代理事長を歴任し、日本の産業・経済界をリードしました。荒尾市所蔵万田坑1902（明治35）年開坑した万田坑は、明治・大正期における日本最大規模の立坑で、1908（明治41）年に坑内電気機関車を導入して、いち早く電化を進め、のちに巻揚機（写真）も電動モーターで駆動するようになるなど、設備や機械も充実し、出炭量を増加させていきました。三池では1923（大正12）年開坑の四山坑以降の坑口は、有明海の海底が採掘区域でした。三池炭鉱の全出炭量2億9,000万tのうち2億2,000万tは海底から掘り出されたものでした。海底坑道が沖合に延びていくと、通気の問題が生じますが、三池では人工島を築造し、通気立坑を設けて克服しました。今も有明海の沖合2kmと5kmに浮かぶ初島（1951（昭和26）年築島完成）、三池島（1970（昭和45）年築島完成）がそれです。また、三池では地層中に遮水層があり、海底下でも坑道に海水が浸出することはなかったとのことですが、地上と同様に大量の地下水の湧水があり、長年培われた排水技術が役立っていたことは見逃せません。

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column石炭を運ぶ鉄道網の発達炭鉄港が北海道の近代化をけん引22石炭は輸送産業といわれるほど、内陸の炭鉱と海岸の積出港をつなぐ輸送が重要なテーマとなります。アメリカの地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンの地質調査によって発見された北海道の石狩炭田では1879（明治12）年に官営幌内炭鉱が開鉱しますが、奥深い原始林の山中にあったため、どのように石炭を運び出すかが大きな課題となりました。そこで1882（明治15）年、アメリカ人技師ジョセフ・ユーリー・クロフォードの指導の下、幌内～小樽間に鉄道を開通させました。全長は91.2kmで新橋～横浜間29km、神戸～大阪～京都～大津間92kmに次ぐ、日本3番目の鉄道でした。幌内の炭鉱と鉄道は1889（明治22）年、北海道炭礦鉄道会社（北炭）に払い下げられました。北炭はさらに空知と夕張に炭鉱を開発し、小樽だけでなく室蘭でも港湾インフラの整備に乗り出します。太平洋側の室蘭は日本海側の小樽よりも関東地方へ石炭を海上輸送するのに適していたからです。1892（明治25）年までに空知太（現在の砂川市）～室蘭間に鉄道が開通すると、北炭の鉄道総延長は328㎞に広がりました。北炭の鉄道は1906（明治39）年の鉄道国有法によって国に買収されますが、この買収で得た資金で、北炭専務の井上角五郎は製鉄・製鋼事業に進出します。大砲・軍艦用鉄鋼の国産化を望んでいた海軍の要請と日英同盟を背景に、1907（明治40）年イギリスの開通当初の幌内鉄道小樽市総合博物館所蔵アームストロング社とビッカース社との合弁で日本製鋼所を室蘭に設立しました。さらに1909（明治42）年には良港の室蘭港、夕張の石炭、噴火湾一帯の砂鉄、虻田（現在の洞爺湖町）の鉄鉱石を基盤に、輪西製鐵所（現在の日本製鉄室蘭製鉄所）を創業しました。北炭はその後、日露戦争後の反動不況と夕張炭鉱の大事故によって経営が悪化し、1913（大正2）年に三井の系列企業となりました。北炭会長には三池炭鉱で手腕を振るった團琢磨が就き、経営改革を進め危機を乗り越えました。空知と夕張は炭都として栄え、室蘭は鉄の街として不動の地位を確立し、国際貿易港として金融機関が集まった小樽は北のウォール街と呼ばれ繁栄しました。石炭・製鉄・港湾が北海道の近代化をけん引したのです。蒸気機関車から電車へ三池炭鉱の炭鉱列車は、大牟田市の中心部から宮原坑、万田坑、三池港まで、採炭された石炭や機材類、従業員などを運搬していました。三池炭鉱専用鉄道は1878（明治11）年に大浦坑から大牟田川河口までを結ぶ馬車鉄道が始まりで、1891（明治24）年に新たな鉄道線路が敷かれ蒸気機関車が走り出しました。蒸気機関車3両のうち1両は釡石鉱山から譲り受けたイギリス製、あと2両はアメリカ製で團琢磨が「松風」「村雨」と名付けました。1905（明治38）年までに全線が開通し電化されると、電気機関車は1908（明治41）年に三池港で石炭積込用として導入されました。安部順撮影・所蔵三池炭鉱専用鉄道敷跡出炭する大量の石炭や、炭鉱で使用する資材を運搬するため、1878（明治11）年から専用鉄道が敷設され、1905（明治38）年に全線が開通しました。石炭の輸出量を大幅に増やすためには、採炭の効率化だけでなく、大規模物流システムの整備が必要で、近代的物流には鉄道、電気、積出港などのインフラ整備が求められました。三池港を整備した三池炭鉱では、坑口と港は電化した鉄道で結ばれ、大量生産した石炭を効率的に運搬しました。また専用鉄道は鹿児島本線とも接続され、陸路へも盛んに搬出されていました。

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STEP2産業基盤の確立大規模物流システムを構築三池港物流株式会社所蔵三池港の設計図明治の後期になると、九州各地では石炭を運ぶ鉄道が敷かれ、港ができ、住宅が建設され、街が生まれました。炭鉱は都市の景観をつくっていきました。三池炭は海外市場の需要に応え輸出され、外貨獲得に貢献しました。採炭された大量の石炭を効率的に輸送するため、大型船で直接積載し搬出できる港湾インフラの整備は欠かせませんでした。こうしたなか1908（明治41）年、三池炭鉱の積出港として三池港が築港されました。先人たちの先見の明と技術力と熱意によって、日本が自らの力で大規模物流システムを構築し、産業基盤を確立しました。

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5長崎港での石炭積み込み当時の石炭船の積み込みは人力に頼っていました。南島原市立口之津歴史民俗資料館所蔵24炭が産業として成立するためには、「掘る」技術の近代化石とともに、「運ぶ」技術が必要不可欠です。江戸幕府は1862（文久元）年にイギリスより輸送貨物船を購入し、試験的に長崎港から上海に石炭を輸出しました。明治政府は外国貿易商に依存せず、日本の貿易商を海外に進出させたいと考えました。この機運に乗じ三井の益田孝は、1876（明治9）年に旧三井物産を設立し、特に三池炭の販売・輸出を一手に扱うこととなりました。官営三池炭鉱は、大牟田川奥の諸坑で採炭され、大牟田川河口の横須浜から小型船で対岸の島原側に送り、そこで一旦貯蔵して外航船に積み替えて長崎に送っていました。有明海は湾奥の筑後川から排出された土砂が干満のたびに速い潮流で往復を繰り返し、遠浅で干満の潮位差が最大5.5ｍと大きく、干潮時には沖合数kmにわたり干潟が出現します。船ははるか沖合で潮待ちをし、限られた満潮の間に接岸し、大勢の人夫を投じて石炭を積み込み、潮が引く前に船出しなければなりませんでした。三池炭の海上輸送は大牟田～島原、島原～長崎、長崎～上海の3段階を要し、積み替えの労務費や粉化による石炭の目減りで、高島や端島など西彼杵の炭鉱に比べて大変不利でした。香港・上海市場への三池炭の輸出は当初、島原半島の口之津港より行われていました。1878（明治11）年に長崎税関支署を誘致して特別輸出港の認可を得ることで、積み替えを大牟田～口之津、口之津～上海の2段階に簡素化しました。三井は自社の船で三池炭の輸送を始め、1884（明治17）年に大阪商船（現在の商船三井）を設立し、海運業にも乗り出しました。さらに1887（明治20）年には、熊本県宇城市に口之津港の補助港として三角西港が建設されました。明治政府の殖産興業の政策に基づいて、オランダ人水理工師ローエンホルスト・ムルドルによって設計されました。ムルドルは曲線を多用し、水路幅・道路幅ともに当時の日本の基準をはるかに超えたスケールで港湾都市を描きました。この設計を忠実に施工したのが、

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長崎の大浦天主堂やグラバー邸を手掛けた小山秀之進らの天草石工たちでした。天草石工たちは設計図を基に西洋技術を巧みに取り入れ、日本の伝統技術をいかんなく発揮しました。現在も残る長い石積み埠頭の背後に、埋め立てにより整備をされた港湾区域には、水路や排水システムが配され、土地の区画や道路幅もゆとりがあり、オランダの都市計画の知見が活かされています。のびる三角西港は福井県の三国港、宮城県の野蒜港とともに明治三大築港と呼ばれ、米や麦、麦粉、硫黄、石炭の重要輸出港として栄えました。しかし石炭については三池炭鉱から60km離れ、立地が悪く、効率的ではありませんでした。そのため、三井が官営三池炭鉱の払い下げを受けたあと、三池港の築港が始まった1902（明治35）年に積出港としての役割を終えました。STEP2◉産業基盤の確立九州の海上輸送ルート至香港・上海若松門司至香港・上海呼子筑豊唐津大牟田（三池）三池炭鉱長崎島原1898（明治31）年ごろ、大牟田川河口で舟に石炭を積み込む横須浜桟橋の様子。三池港物流株式会社所蔵三池港物流株式会社所蔵至香港・上海至香港・上海至香港・上海高島炭坑端島炭坑口之津三角西251900年前後（明治30年代）、口之津港（島原南部）や三角西港（熊本）へ石炭を運ぶ運炭船。輸出の主役として幕末からの長崎に次いで、1878（明治11）年に口之津、1882（明治15）年に呼子、1886（明治19）年に門司から上海への直輸出が始まりました。オランダの都市設計と日本の石工技術の融合宇城市教育委員会所蔵宇城市教育委員会所蔵1887（明治20）年三角西港の築港総延長756mに及ぶ石積埠頭、3つの浮桟橋、整然とした道路、排水路、石橋などは総合的な都市計画の下で築かれました。埠頭の石垣は対岸の山から安山岩を切り出し、緻密で高度な石積みで形成されています。

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626池炭は三井物産を通じて上海、香港、シンガポールなど三各地へ輸出されていたため、三井物産は各国に支店を増やし、グローバル展開を拡大してきました。しかし三池炭鉱は出炭量に対して輸送手段が追いついておらず、非効率的でした。採炭現場から船積みまでワンストップでの仕組みができれば、競争力を高めることができます。有明海は干満の差が5.5mもある遠浅の干潟であったことから、築港工事は土砂との闘いで困難を極めることが予測されていました。しかし石炭の増産体制を支えるためには、採炭現場に近く、大型船を接岸できる積出港を備えた物流システムが必要でした。團琢磨は「石炭山の永久などということはありはせぬ、無くなると今この人たちが市となっているのが、また野になってしまう。（中略）築港をやれば、築港のためにそこにまた産業を興すことができる。（中略）築港をしておけば、何年もつかは知れぬけれども、いくらか百年の基礎になる」という信念の下、社運を賭けて大工事に挑みました。築港は延べ260万人を超える作業員を費やす未曾有の大工事になりました。築港工事は1902（明治35）年に潮止めのための堤防づくりから始まりました。広さ119haを潮止め堤防で閉め切って干拓し、そのうち17haを掘り下げて船渠、残り102haを埋め立てて貯炭場などにしました。船渠の外側には50haの内港が建設され、泥土が航路に流れ込まないように約1.8kmの防砂堤2本を築き、有明海への長い航路を浚渫して、大型船が入港できる水深を確保しました。1908（明治41）年三池港の築港観音開きの鉄製扉は1枚で幅12.17m、高さ8.84m、厚さ1.20m。扉の接する箇所には南米ギアナから取り寄せた水に強く非常に堅くて重い木材・グリーンハートが使用されました。大牟田市石炭産業科学館所蔵

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船渠に設置された閘門は、イギリスのテームズ・シビル・エンジニアリング社が製作し、三井三池炭鉱社製作工場（現在の三井三池製作所）が施工しました。閘門の両側にはスルースゲートが設けられ、大型船が入港するとき潮流を緩和して入りやすくする仕組みになっています。水圧式の閘門は船渠内の水位を8.5m以上に保つことで、潮位の干満に関係なく1万tクラスの大型船3隻が船渠に接岸できるようになり、石炭の積み込みを常時可能にしました。さらに三池炭鉱専用鉄道と接続することで、坑口から港まで連続した輸送システムを構築し、岸壁に設置した三池式快速石炭船積機（ダンクロ・ローダー）で効率良く石炭を船に積み込めるようになりました。三池港はこうして5年余りの歳月をかけて、1908（明治41）年に完成しました。ハミングバード（はちどり）の形状をしたこの港は、明治日本の最先端の港湾土木技術と英知を結集した珠玉の名港と謳われ、築港工事の金字塔となりました。三池港が整備されると、石炭を基軸にする石炭化学（染料・肥料）と機械工業（炭鉱機械・工作機械・輸送機械）の日本で初めての石炭化学工業地帯が形成され、三池は産業都市へと変貌を遂げました。團琢磨の名言通り、石炭山の永遠はなく、三池炭鉱は1997（平成9）年に閉山しますが、今も地元市民の生活を当時からの化学工業が大きく支えています。STEP2◉産業基盤の確立築港の金字塔先見の明と技術力と熱意の結晶三池式快速石炭船積機（ダンクロ・ローダー）團琢磨が技術者の黒田恒馬と共同設計したことから、ダンクロ・ローダーという愛称が付けられました。1時間に300tの積込能力を持っていました。現在の三池港スルースゲートスルースゲート機械室水流ポンプ三池港物流株式会社所蔵27三池港物流株式会社所蔵完成した三池港（大正初期航空写真）船渠の広さ13万㎡、内港の広さ50万㎡、航路の長さ1,830ｍ、幅137ｍと当時の人工港としては桁違いの規模を誇りました。上空から見るとハチドリを彷彿させるハミングバードの美しい形状をしています。撮影：内山英明／一般財団法人産業遺産国民会議所蔵閘門のスルースゲートは、大型船の入渠時、船に押されて船渠内に入る海水を渠外に逃して波の減衰を早める役割を担っています。築港から100年後の現在も稼働しています。コールチェーンの構築採炭運搬国内外へ輸送製鉄・製鋼石炭を原料として、製鉄・製鋼が盛んとなりました。宮原坑・万田坑それぞれの坑口から石炭を採掘しました。炭鉱専用鉄道敷跡採掘した石炭を港や製鉄所へ運搬しました。三池港三池港から国内外へ船で輸送しました。造船長崎造船所などにおいて最新設備を導入し、造船技術が短期間で発展しました。三池炭鉱は三池港の築港によって、ワンストップで石炭を国内外に輸送するサプライチェーンを構築しました。出典大牟田市

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728本の石炭鉱業は、明治初期から西洋技術を導入し、産日業基盤を確立しました。幾多の厳しい状況に直面しながらも着実に克服し、生産・保安技術を蓄積して、世界でも高い技術水準に到達しました。これは石炭鉱業に関わった多くの先人たちの苦労と努力の積み重ねから生まれたものです。鉄道開通など文明開化が進展した明治初頭の国内の石炭生産地は、九州の筑豊、三池、唐津、長崎、本州の宇部、常磐、北海道の白糠、幌内、夕張などの地域であり、その後各地へと広がっていきました。また上海、香港など海外需要に応える輸出も盛んに行われていました。1874（明治７）年の石炭生産総量は21万ｔ、そのうち輸出量は12万ｔを占めていました。その後も石炭生産量は急速に増加し、1883（明治16）年には100万ｔ、188（8明治21年）には200万ｔに達しました。このころ国内での需要開拓も進められ、高島炭は官営釡石製鐵所へ売り込まれていました。明治中期にかけて、炭鉱での動力は人力から蒸気に移り、排水や運搬などの機械化が進みました。主要炭鉱ではポンプや巻揚機が設置され、大きな煙突の光景が見られるようになると、石炭生産量は1902（明治35）年に1,000万ｔ、1910（明治43）年に1,570万ｔの水準に達しました。石炭使用別の内訳を見ると、船舶用（240万ｔ）、鉄道用（120万ｔ）、工場用（製鉄430万ｔを含む）、製塩用（90万ｔ）となっています。1901（明治34）年に官営八幡製鐵所が創業し、鉄鋼製品の国内生産が本格化すると、製鉄用に国内の石炭が大量に使われることとなりました。石炭産業に従事する労働者も増加し、明治末期には15万人となり、国内の産業を発展させるエネルギーとして、また外貨を獲得する輸出品として重要な役割を果たしました。さらに石炭産業の発展は、石炭を基軸にする石炭化学と機械工業の一大重化学工業を形成しました。石炭を蒸し焼きにすること（乾留）によって生じる石炭ガスやコールタール、コークスが化学原料として活用されるようになりました。三池炭鉱では1912（明治45）年、副産物回収型コークス炉の稼働と同時に、隣接する副産物工場で硫安（硫酸アンモニウム）の生産を開始しました。このコークス炉は、コークスの製造過程で発生するガスとコールタールを効率的に回収するもので、それらを利用してさまざまな化学製品をつくり始めました。このころドイツでは、コールタールから得られるアントラセンか加藤康子撮影・所蔵三池港の大金剛丸ボイラー大金剛丸は1905（明治38）年に中古で購入され、築港当時から活躍したクレーン船です。クレーンの吊り上げ能力は最大15t。今も石炭を動力源として稼働しています。

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ら合成染料アリザリン（赤色染料）をつくり、大きな利益を得ていました。そこで合成染料の研究を本格的に開始し、1915（大正4）年には日本で初めて合成染料の製品化に成功し、各種染料や医薬品、薬剤、火薬なども製造するようになりました。化学原料として、石炭を余すことなく活用する重化学コンビナートが大牟田に生まれ、日本の重化学工業発展の原点となりました。石炭は明治日本の産業革命をけん引するエネルギー産業として、日本が工業立国の経済的基盤を築き、奇跡とも呼ばれる急速な産業化を果たす原動力でした。その足跡は人類共通の財産として、これからも語り継がれることでしょう。石炭化学コンビナートの形成石炭の恩恵を将来の工業に活かす山口県の宇部は、化学工業やセメント、肥料、機械など各種工場群や製油所、火力発電所、石油タンクが建ち並び、大牟田と同じように炭鉱を基軸として重化学コンビナートが形成されました。のちの宇部興産の前身となる沖ノ山炭鉱の創業者・渡辺祐策は、次のような信念を持って、宇部セメント製造、宇部窒素工業、宇部鉄工所、宇部紡績、宇部電気鉄道などの事業を次々と興しました。「石炭はただ燃やすだけでは能がない。成分を化学に利用し尽くしてこそ進歩がある」「天与の限りある石炭から受ける恩恵を、決してこの地のもののみで独占してはいけない。ちょうど太古の太陽熱を石炭に転化して人類の現在の生活を保持していると同様に、現在の石炭の恩恵は、将来の工業に転化し、有限の石炭はたとえ消滅しても工業を残すことによって、子々孫々の生活を豊にするようしなければならない」地域と産業の発展に尽力した渡辺は「宇部の神様」と呼ばれました。宇部興産株式会社所蔵渡辺祐策1864（元治元）～1934（昭和9）年STEP2◉産業基盤の確立電力石炭三井鉱山三池鉱業所九州火力発電29三井化学株式会社所蔵1912（明治45）年に操業を開始した三池染料工業所のコークス炉石油合成工場現在の三井化学大牟田工場硫酸三池染料コールタール、工業所ガスコークス、コークス、ガスガスアンモニアコークス東洋高圧工業電気化学大牟田工場（物流）三池港務所（機器製作）三池製作所石炭電力その他石炭化学コンビナートの生産関連図三池炭鉱が生み出した海（三池港）と陸（三池炭鉱専用鉄道）の輸送拠点を活かし、各工業群を結ぶことによって、日本最大の石炭化学コンビナートが大牟田に形成されました。●上海市場石炭産地（千ｔ）450400350300250200150100500明治日本の資本蓄積の基盤をつくる欧米諸国のアジア貿易の終着港は上1866～701871～751876～801881～851886～90イギリスオーストラリア日本1891～95●香港市場石炭産地（千ｔ）600500400300200100イギリスオーストラリア日本01896187118761881188618911896～99（年）～75～80～85～90～95～99（年）海、香港、シンガポールなどでした。高島炭は早くから上海市場を開拓していましたが、1880（明治13）年ころから三池炭の輸出が本格化すると、イギリス炭やオーストラリア炭を押さえて、日本炭が上海、香港、シンガポール市場を席巻しました。石炭ブームは三菱・三井の中央資本だけでなく、筑豊御三家と呼ばれた麻生、安川、貝島など地方の資本家を育てました。三菱と三井は財閥を形成し、安川は電機、麻生はセメント産業へと転身するなど、石炭は明治日本に資本を蓄積する基盤として重要な地位を占めました。

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価値の再評価ヤマの記憶働く人々と家族の肖像いちざんいっか炭鉱（ヤマ）には「一山一家」という言葉があります。家族を含めた皆がヤマを構成する一員であり、困ったときは隣人同士が助け合うのは当たり前という強い絆で結ばれていました。炭鉱は共に生きることの大切さを教えてくれます。①炭鉱の絆は万国共通「世界の記憶遺産」はユネスコ3大事業（世界遺産・無形文化遺産・記憶遺産）の一つで、互いに相互補完的な役割を果たしています。世界遺産は不動産が対象となる一方、無形遺産は能や歌舞伎など、世界の記憶遺産は文書や記録が対象となっています。日本では2011（平成23）年に「炭鉱記録画家・山本作兵衛の絵画日記」が初めて登録されました。山本作兵衛（1892～1984）は1957（昭和32）年、炭鉱の警備員として働いていたとき、炭鉱の記憶を残すため、自らの経験や伝聞に基づいて記録画を描き始めました。鉱夫の目線から描かれた個人の記録で、政府や企業による公式な文章でありません。作兵衛は絵画を専門に学んだ経験や、高等教育を受けてはいないものの、だからこそ公式記録であれば漏れてしまうような、炭鉱での労働や生活習慣が生き生きと愛情を込めて描写されています。さらに同時代の西洋の炭鉱記録写真と比べて見ると、炭鉱の暮らしや人情は万国共通であることがわかります。②30山本作兵衛の炭鉱画©YamamotoFamily田川市石炭・歴史博物館所蔵西洋の炭鉱記録写真①⑤⑥：©CentreHistoriqueMinier（prêtANMT）②③④：©CentreHistoriqueMinier③④⑤①昼夜2交代制で石炭の選別作業が行われていました。②坑道の保全や修理は熟練を要する作業でした。③機械化が進む前は馬を使って坑道で運搬作業を行っていました。④炭鉱労働者の元気の源は家族そろって囲む食卓にありました。⑤お祭りは皆の楽しみでした。現在では全国的な盆踊りの定番になっている「炭坑節」は有名です。歌詞中の煙突は三井田川鉱業所伊田立坑の二本煙突といわれています。⑥石炭の採掘に伴って発生するボタ（捨て石）の山は、炭鉱まち発展の象徴です。⑥

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活気に満ちあふれたヤマの暮らし価値の再評価かつて岩礁だった端島は、炭鉱の発展とともに6回の埋立工事が行われ、約3倍の広さに拡張されました。台風などの自然の脅威から島を守る高い護岸、炭鉱の象徴である煙突から立ち上る煙─その景観が軍艦土佐に似ていたことから、軍艦島と呼ばれるようになりました。1916（大正5）年に日本で初めて鉄筋コンクリート造7階建ての高層集合住宅が誕生するなど、都会と変わらない機能を持ち、最盛期（1960年ごろ）には5,000人が暮らし、閉山するまで活気に満ちた生活を送っていました。軍艦島デジタルミュージアム所蔵（写真は昭和30〜40年代の様子）31

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地域のシンボル産業遺産を活用する石炭の産業遺産は、産業革命によって近代化されていった歴史を物語る存在として、当時隆盛を極めた資本や技術の精髄、先人たちの情熱など、豊かな価値を今に伝えてくれます。かつて炭鉱で栄えたまちでは、人類共通の遺産である産業遺産を地域の資源として活かした取り組みが進められています。32©S.Jarry-CentreHistoriqueMinierルワルド石炭博物館（フランス）ノール=パ・ド・カレー近郊はフランスの産業革命を支えた炭田地帯で、採鉱坑や石炭採掘施設だけでなく住宅や駅、学校など、炭鉱で働く人たちを支えた施設が保存され、2012年世界遺産に登録されました。かつての炭鉱夫住居をホテルに改装するなど、観光資源に活用しています。ビッグ・ピット国立石炭博物館（イギリス）ウェールズ南部のロンダ渓谷一帯は良質の瀝青炭を大量に産出し、イギリスの産業革命をけん引しました。ビッグ・ピット炭鉱で採掘された石炭がブレナヴォン製鉄所で使われるとともに、カーディフなどの港町に運ばれ、遠く日本まで輸出された当時の記憶を、博物館の観光施設で伝えています。2000年世界遺産に登録。ツォルフェライン炭鉱業遺跡群（ドイツ）1932年に開かれた第12採掘坑は建設当時、世界最大にして最新の炭鉱施設で欧州における重工業発展の典型例でした。現代美術に大きな影響を与えたバウハウス様式でつくられ、世界で最も美しい炭鉱と呼ばれました。2001年世界遺産に登録。ワロン地区の鉱山群（ベルギー）19世紀から20世紀における炭鉱技術の発展および世界各地から集まった鉱山労働者との文化的交流などが認められ、2012年世界遺産に登録。カジエの森には1956年に起きた欧州最大の炭鉱事故は死者262名を出した記憶を残しています。踊りや映像に見られる炭鉱文化菓子に残る炭鉱文化常磐興産株式会社提供フラガール（2006年・日本）常磐炭礦が閉山の危機に直面した1966（昭和41）年、坑内から湧き出る湯を利用し、まちおこし事業として立ち上げた常磐ハワイアンセンター（現在のスパリゾートハワイアンズ）の誕生から成功までを描いた映画です。東日本大震災の影響を受けましたが、懸命の復旧で見事によみがえっています。赤平市提供塊炭飴（北海道）北海道赤平市で産出されていた高品位の黒く光り輝く石炭になぞらえた「塊炭飴」は、北海道産のビート糖を使用し、竹炭などを混ぜてつくられています。石炭産業でにぎわっていた1932（昭和7）年から、半世紀以上にわたり愛され続けています。ホリプロ提供ビリー･エリオット（2017年・日本）イギリスのサッチャー政権下の1980年代、炭鉱閉山に対し、ストライキを行う北部の炭鉱まちを舞台に、バレエの魅力に取り付かれたビリー少年の多感な成長の姿を描いた映画「リトル・ダンサー」（2000年イギリス）が「ビリー・エリオット」として舞台化されました。株式会社ひよ子提供ひよ子（福岡県）江戸時代、出島に荷揚げされた砂糖は、長崎から小倉へと続く長崎街道を経て、京や大坂、江戸に運ばれていました。長崎街道はシュガーロードと呼ばれ、独自の砂糖文化を形成し、全国的に有名な銘菓を生み出しました。筑豊飯塚で1912（大正元）年に誕生した洋菓子「ひよ子」は、その代表格です。

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石炭の基礎知識教えて！Q&A石炭って、どんなもの？石炭の基礎知識そもそも石炭はいつ、どのようにできたのでしょうか。そして、どのように見つけ、掘り出され、使われてきたのでしょうか。そんな疑問に答えます。石炭ができるまでQ1．いつ、どうやってできたの？A1．石炭は植物の遺骸が堆積したものが地中に埋没し、地圧や地熱の影響を受け、長い年月をかけて変化してできたものです。今から3.6億年前に始まる石炭紀、2億年前に始まるジュラ紀、0.7億年前に始まる第三紀には、温暖な気候が続き植物が繁茂したため、世界各地で石炭層が形成されました。石炭は太古の植物が固定した炭素を多く含んだバイオマスエネルギーといえます。●世界の主要炭田と地質時代地質時代年代新第四紀170万年前～現在生代第三紀新第三紀2400万～170万年前古第三紀8500万～2400万年前日本中国インドオーストラリア南アドイツイギリスロシアアメリカ南極●石炭が生成される過程植物繁茂中白亜紀生代ジュラ紀三畳紀1億4600万～6600万年前2億800万年前～1億4600万年前2億4500万～2億8000万年前ペルム紀2億9000万～2億4500万年前集積・埋没石炭紀古生デボン紀代シルル紀オルドビス紀3億6300万～2億9000万年前4億900万年前～3億6300万年前4億3900万～4億900万年前5億1000万～4億3900万年前33カンブリア紀5億7000万～5億1000万年前先カンブリア時代46億～5億7000万年前植物遺骸出典一般財団法人石炭エネルギーセンター泥炭化作用●石炭の種類普通は石炭に分類しない無煙炭瀝青炭亜瀝青炭褐炭泥炭泥炭石炭化作用高HardCoalBrownCoalPeat濃縮の程度低揮発分･水分高低種類形状特徴用途石炭出典一般財団法人石炭エネルギーセンター無煙炭煙を出さずに燃えます。練炭や豆昔は家庭用、鉄道炭として使われます。光にかざす用、船舶用。最近はとキラキラ輝きます。化学工業用。Q2．どんな種類があるの？A2．ひと口に石炭といっても、さまざまな種類があります。植物が変化してできた石炭は、植物の成分と同じように炭素、酸素、水素など複雑に組み合わさってできています。また、その生成年代によって性質が大きく異なり、石炭化の進んだ無煙炭と瀝青炭は高品位炭、石炭化の進んでいない亜瀝青炭・褐炭は低品位炭と呼ばれ、性質や用途によって分類されています。日本では地熱により石炭化が進行し、新生代古第三紀の生成ですが、瀝青炭になっています。瀝青炭亜瀝青炭褐炭泥炭燃料や原料として最も多く使われコークス製造用、ガています。一般に瀝青炭が石炭ス製造用、発電用。と呼ばれています。自然の状態で10〜50％の水分発電用、一般産業を含んでいます。主に露天掘りで用。採炭されます。自然の状態で35〜70％の水分主に石炭ガス化、石を含むため、発熱量が少なく、未炭液化の原料用。利用資源として豊富にあります。ほとんど地表にあり、簡単に掘り園芸用の土、ウィス出せます。水分を多量に含んでいキー製造のためのるため、乾燥させて使います。麦芽乾燥剤など。

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石炭を探しあてるQ3．どうやって、地下にある石炭を見つけたの？A3．昔は川や沢を測量しながら歩き、どんな性質の石炭層がどれだけの厚さで、どのくらいの広がりであるかを調べていました。日本では明治初期、九州で石炭が出る場所はほぼわかっていましたが、北海道についてはわかっていませんでした。アメリカ人地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンは、石狩川をさかのぼりながら、砂粒や岩石の破片を調べました。土砂の中に、石炭層の露頭から風化して自然に崩れて流れ出した石炭片が含まれており、その大きさと量が増すと、石炭層の露頭が近いことがわかるからです。こうして石狩川の支流である空知川の上流域で、大規模な石炭層が発見されました。日本蝦夷地質要略之図ライマンらによって1876（明治9）年に日本最初の本格的広域地質図が出版されました。北海道大学所蔵生産性を高めた採掘技術の進化Q4．日本ではどうやって、石炭を掘り出していたの？A4．掘り方には大きく分けて露天掘りと坑内掘りがあります。日本では地表近くにある石炭を露天掘りで掘り尽くしたため、地中深くにある石炭層までトンネルを掘って人間が入り込んで採掘する坑内掘りが行われていました。効率的に、安全に、安定して採掘するため、さまざまな技術がそれぞれの時代に導入されました。太平洋炭礦株式会社資料室所蔵明治期手掘採炭さきやまあとやま先山と後山が2人一組となり、手掘採炭が行われました。先山（手前の男性）がツルハシで炭壁を掘り崩し、後山（うしろの女性）がそれを集め運びました。坑道がタヌキの掘った穴ぐらのように曲がっているため、タヌキ堀りと言われています。写真は1927（昭和2）年ごろの様子です。34太平洋炭礦株式会社資料室所蔵大正期坑道の保持火薬を用いて発破をかけ、効率的に採炭するようになりました。人の代わりに馬を使って運搬するようになり、坑内に馬小屋がつくられました。坑道の保持には木材を使って枠を組み、落石や落盤を防いでいました。太平洋炭礦株式会社資料室所蔵昭和10年代（1935～44年）コールカッター手掘りからコールピックやコールカッターを使った採炭へ進歩し、長壁式採炭（ロング採炭）で大量出炭が可能になりました。坑内電化によってコンベアや電気機関車を使用することができるようになり、運搬能力も格段に向上しました。第2次世界大戦後鉄柱カッペ採炭強度に優れ組み立てが容易な、鉄柱とカッペ（金属製の梁）に切り替えられまれました。1950年代ごろになると、坑内の機械化がさらに進み、カンナのように炭層を長い壁面に沿って削り取るホーベルという採炭機械が導入されました。上砂川町所蔵釧路コールマイン株式会社所蔵1960年代後半（昭和40～44年）SD採炭巨大な円盤の回転により炭壁を切り崩すドラムカッター（D）が導入され、坑道や切羽（石炭を掘る場所）の天井を支えるためのシールド枠（S）との組み合わせで採掘するSD採炭が主流になりました。切羽は1970年代には地下1,000mまで達しました。

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巻揚機やぐら石炭の基礎知識Q5．炭鉱博物館などに行くとある、あのやぐらは何？A5．坑道を開削して地下の鉱体や炭層を採掘する「坑内掘」では、地下深く資材や採掘した石炭、それに人員の行き来を行う立坑「エレベーター」が多く用いられました。エレベーターは巻揚機によりワイヤを上下させるため、高い「やぐら」を必要とし、遠くからも坑口がわかるモニュメントとなりました。右写真の巻揚機のやぐらは洋の東西共通で、手前の赤煉瓦の建物とのコントラストのきれいな景観を醸し出しています。炭鉱は、選炭・搬出設備や炭鉱住宅など地表上で目にすることができる世界に注目がいきがちですが、実は石炭を掘るため、地下に張り巡らされた坑道が縦横無尽に広がっています。まさに「パラレルワールド」の様相を呈しています。©Jean-MichelAndré-MissionBassinMinierfossedʼArenbergàWallers三池炭鉱万田坑荒尾市教育委員会所蔵安全第一、生産第二へQ6．坑内にカナリアが持ち込まれてたって、ホント？A6．NHKの朝ドラ「あさが来た」にも登場しますが、有毒ガスに反応してさえずりを止めるカナリアはかつて炭鉱夫にガスの存在を知らせる警報の役目を果たしていました。目に見えない可燃性ガスは、炭鉱で最も恐れられていたからです。近代化された炭鉱では、保安係員がガス検定器、測風計、一酸化炭素検知器などの測定機器を用いて坑内を巡回し、検知していました。しかしガスのほか、炭塵(たんじん)爆発や落盤など、災害がたびたび発生しました。そこで炭鉱では保安向上に力を入れていました。入坑前に捜検(そうけん)（服装検査）が行われ、タバコやマッチ、ライター、カイロなど火気の持ち込みを禁じていました。万一の事故に備えて各炭鉱で救護隊が組織され、坑内事故が発生した場合、救護隊員は一番先に入坑し、人命救助や破損箇所の修理に従事しました。直方市石炭記念館所蔵救護隊訓練の様子筑豊石炭鉱業組合は1912（明治45）年に救護訓練坑道を建設し、1968（昭和43）年閉所まで約4万5,000人の救護隊員を養成しました。35特性を理解し、使いこなす資源を共有し、皆で有効に活用するQ7．石炭を使って、どうやって鉄をつくるの？A7．現在の製鉄法は、イギリス産業革命期に発明されたコークス高炉法と原理的に同じです。高炉の上部から鉄鉱石とコークスを交互に投入し、下部から熱風を吹き込みます。コークスを燃焼させ、高炉内の温度が高められることで、鉄鉱石から酸素を取り除き、真っ赤に溶けた銑鉄をつくり出しています。このようにコークスには、鉄鉱石から酸素を取り除く還元材としての役割とともに、上から投入された鉄鉱石などの重みに耐えて壊れず、溶けた銑鉄や還元ガスの通路を確保する強度が求められます。コークスは石炭を蒸し焼きしてつくられます。石炭は加熱すると軟らかく溶け、揮発分をガスとして放出します。さらに高温になると固まって、多孔質の高純度な炭素の塊となります。これを粘結性と言います。日本の石炭は新生代古第三紀に形成された弱粘結炭が多く、外国の強粘結炭に比べて製鉄用原料に適していませんでした。そのため明治期に西洋技術を導入した日本の鉄鋼業は、日本炭から高強度のコークスを製造することが課題となりました。そこで外国炭と日本炭をブレンドしました。日本炭は早くから軟化して高い流動性を保つ特性があるため、軟化温度に差がある外国炭の間に流れ込んで、最後に冷やしても亀裂を発生させない働きをしたからです。先人たちは日本炭の性質をよく理解し、高度に利用するコークス製日本製鉄株式会社八幡製作所所蔵造技術を確立させました。高炉Q8．EUの前身は石炭の共同管理がきっかけって、ホント？A8．本当です。19世紀後半からドイツとフランスの確執は、第一次世界大戦の原因の一つとなりました。両国には石炭と鉄鋼石の資源が豊かなアルザスーロレーヌ地方の帰属問題がありました。石炭と鉄鋼は第二次世界大戦後の欧州復興に不可欠でした。欧州石炭鉄鋼共同体（ECSC）を通じて開発・運営することで、長年にわたるフランスとドイツの対立を封じ、欧州に不戦共同体を構築する意図で締結されました、ECSCは欧州経済共同体（EEC）、欧州連合（EU）となっていく大きな地域統合のきっかけになりました。EU加盟国を示したスウェーデンの切手

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現代社会に欠かせないエネルギー資源明治のハイカラな街角を照らしていたガス灯、昭和の家庭や学校を暖めた石炭ストーブなど、石炭は身近な暮らしから姿を消しました。しかし現在でもなお、日本では年間2億tを超える石炭が使われています。今も私たちの暮らしと産業を支えているのです。石炭の利用方法紙・パルプ6.13％窯業土石10.15％その他14.47％製鉄所火力発電所セメント工場鉄鋼65.131％日本国内2016年度石炭販売量2億700万t電気業111.254％鉄電気セメント出典EDCMエネルギー・経済統計要覧20181tの鉄をつくるために0.8〜1tの石炭が使われています。1世帯の年間電気使用量4,600kWh/年の32%が石炭火力でつくられ、そのため0.6tの石炭が使われています。1tの普通セメントをつくるために0.1tの石炭が使われています。36●世界の確認可採埋蔵量（2017年）1兆350億t炭は日本の産業の原動力として中心的な役割を石果たしていましたが、1950年代以降石炭から石油へエネルギー利用が変わっていったため、次第に国内の炭鉱はその数を減らしていきました。日本の石炭産業は現在、北海道で坑内掘り1鉱と露天掘り数鉱が生産を続けるだけとなり、生産量も120万ｔ程度になりました。しかし石炭は依然として重要なエネルギーであることに変わりありません。今なお電力や製鉄、繊維、化学、セメント産業など多数の業界で使用され続け、日本経済を支えています。日本はオーストラリア、インドネシア、ロシアから多くの石炭を輸入しています。石炭はアメリカ、ロシア、中国、南アフリカなど、世界各地に広く分布して、地域的な偏りが少なく、政治的に安定している国での生産量が多いため、入手しやすいエネルギー資源といえます。石炭の確認可採埋蔵量は1兆350億tで、他の資源に比べて圧倒的に多く存在し、現在の生産量のペースでも100年以上採掘することが可能です。また他の資源に比べて、石炭は輸送や貯蔵に際しての事故による被害の規模を抑えることもできます。こうした利点から、今後とも石炭は欠かすことができないエネルギー資源として、世界中で利用されていくことでしょう。242762欧州1,004億t（9.7%）中東・アフリカ144億t（1.4%）1144696907ロシア1,604億t（15.5%）中国1,3091,388億（t13.4%）インド80977億（t13.4%）92815175インドネシア226億（t2.2%）49696オーストラリア7651,448億（t14.0%）カナダ66億（t0.6%）2,208無煙炭・瀝青炭アメリカ2,509億t（24.2%）中南米140億t（1.4%）・WEC：WorldEnergyCouncil資料より作成亜瀝青炭・褐炭地下に石炭が最も多く眠っている国・地域は、1位アメリカ、2位欧州、3位ロシア、4位オーストラリア、5位中国となっています。●各化石燃料の可採年数（年間）160140134120100102エネルギー消費のほ80とんどを輸入に頼る605053日本では、これらの年数も十分に考えて、一40つに頼らず、上手に組20み合わせて使っていく0必要があります。石炭石油天然ガスウラン•BPStatisticalReviewofWorldEnergy2018、Uranium2016資料より作成301

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持続可能な発展に向けてクリーンコールテクノロジー石炭の基礎知識石炭を燃やすと、ばいじんやNO（x窒素酸化物）、SO（x硫黄酸化物）、CO2が発生します。石炭を利用するにあたり、これら環境対策が不可欠になってきます。産業革命以降、温室効果ガスの排出量の急激な増加が気候変動を引き起こし、世界中で深刻な影響を与えつつあります。そこで従来に比べてCO2排出量を大幅に減らすことができるクリーンコールテクノロジー（CCT）と呼ばれる技術革新が、電力をはじめとするさまざまな産業分野で進められています。そして日本の信頼性の高いCCTを、今後も経済発展に伴い石炭使用量が増加せざるを得ない発展途上国などへ展開する、持続可能な発展に対する取り組みが求められています。●クリーンコールテクノロジー（CCT）の体系石炭前処理CCT選炭乾燥改質地域環境対策地球温暖化対策低NO燃焼排ガス処理高効率化CO2分離・回収再エネリンクバイオマス混焼De-SOxDe-NOx水質・土壌対策脱じん微粉炭火力USC.A-USC石炭ガス化CCUSIGCG.IGFC水素発電等次世代火力アンモニア混焼水素混焼37石炭灰有効利用出典一般財団法人石炭エネルギーセンター世界最高水準の効率超々臨界発電さらなる高効率化を極める燃料電池複合発電CO2を地中や海底に閉じ込めるCCTの1つに超々臨界発電があります。石炭火力発電所では石炭を燃焼した熱で、水を蒸発させて蒸気をつくります。その際、従来よりもさらに高温・高圧にして熱効率を高く（超々臨界圧（USC）に）すると、従来に比べて燃料使用量が少なく、CO2排出量も削減できます。現在、日本では世界最高水準の効率発電を実現しています。石炭ガス化燃料電池複合発電（IGFC）は、既存の石炭火力発電に比べて石炭使用量が少なく、石炭ガス化複合発電（IGCC）のさらなる高効率化を目指した次世代の石炭火力発電システムです。世界的なCO2排出量抑制への貢献を目指し、実証事業が行われています。CO2回収・貯留（CCS）とは、工場や発電所などから発生するCO2を大気放散する前に回収し、地中貯留に適した地層まで運び、長期間にわたり安定的に貯留する技術です。CO2は地下1,000m以上深くにあるすき間の多い砂岩など（貯留層）に貯留します。貯留層の上部は、CO2を通さない泥岩など（遮へい層）で覆われており、遮へい層がふたの役目をして、貯留されたCO2が地表に出ることを防ぎます。この技術を併用することで、低炭素な石炭火力発電の実現を目指しています。●CO2回収・貯留概念電源開発株式会社所蔵大崎クールジェン株式会社所蔵貯留層岩石のすき間にCO2を貯留遮へい層CO2を通さない層電源開発株式会社磯子火力発電所中国電力株式会社大崎発電所構内出典経済産業省

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これまでも、これからも未来を切り拓く石炭の使命日本や世界の歴史を振り返ると、石炭の担ってきた役割の大きさに驚かされます。機関車や船舶を動かし、鉄を生産し、発電するに当たり不可欠なものであり、社会の近代化に大きな貢献をしてきました。石炭は国境を越えて取引される商品になっており、日本での取扱量は現在、年間2億tを超えています。そして未来の低炭素社会の実現に向け、石炭には果たすべき使命があります。世界の持続可能な発展を支える資源として、これからも未来を切り拓いてきます。1902（明治35）年ごろ明治期の炭鉱写真は現在ほとんど見ることができません。筑豊の貝島炭鉱で撮影された貴重な1枚です。38北九州市立香月小学校郷土資料室所蔵日本製鉄株式会社八幡製鉄所所蔵1901（明治34）年官営八幡製鐵所が創業しました。1887（明治20）年から操業した釜石鉱山田中製鐵所は、高炉での銑鉄生産だけでしたが、官営八幡製鐵所は高炉での銑鉄生産から鋼材生産までを行う日本初の銑鋼一貫製鉄所でした。石炭鉄道造船製鉄・製鋼1872（明治5）年新橋〜横浜間に日本初の鉄道が開業しました。写真は開業当初の新橋駅と1号機関車です。鉄道博物館所蔵1890（明治23）年日本初の鋼製汽船・筑後川丸が建造されました。主機関に初めて3連成汽機を採用した船でした。株式会社商船三井所蔵エネルギーの源は全て太陽の恵みエネルギー資源の海外依存度が大きい日本では、さまざまな発電方法とのバランスをとることが重要になります。火力発電は過去の地球に降り注いだ太陽からのエネルギーを凝縮した石炭、石油、天然ガスといった化石燃料を使っています。一方、エネルギー源の多様化に貢献している太陽光、水力、風力といった再生可能エネルギーは、現在の地球が受け取った太陽からのエネルギーを利用して発電しています。つまり地球上で使われているエネルギーの源は、ほとんど全て太陽の恵みであり、石炭を利用することは太古の昔に地球が蓄えた太陽からの恵みを受けていることなのです。いわば石炭利用は、過去の貯蓄の払い出しであり、残高照会に留意しなくては持続可能になりません。しかし急きょ必要な際にそれを使うことはあります。それが化石エネルギー利用の意味なのです。来るべき水素社会においても、石炭は世界の持続可能な発展を支えるエネルギー源として、重要な役割を果たしていくことを留意して、将来世代の利用可能性を考えながら、大事に利用していきたいものです。

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未来の水素社会の実現に向けてSDGsへの貢献石炭の基礎知識水素の利用や流通など、個々の技術開発が進展しているところですが、水素源として褐炭等の活用に大きな期待が寄せられています。またオーストラリアでは、褐炭など石炭のガス化とCCSを組み合わせることにより、海外で製造されたCO2フリー水素や合成天然ガス（SNG）などを輸入し、国内で利用するというトータルシステムの開発･実用化へ向けた取り組みが行われています。水素燃料電池自動車はすでに実用化されています。今後、航空機などへの展開が進むものと思われます。これからも石炭を必要とする国々や国際機関と協力・連携し、「石炭が引き続き必要なエネルギー資源であること、CCTの開発およびInnovativeCCT（革新的CCT）でゼロエミッションに挑戦し、SDGｓに貢献すること」を認識しなければなりません。夢を描く“水は未来の石炭”『神秘の島』ジュール・ヴェルヌ『海底2万里』『十五少年漂流記』で知られるフランス人作家のジュール・ヴェルヌが創作した新型潜水艦ノーチラス号。のちにアメリカの原子力潜水艦名にもなっていますが、小説での燃料は何と石炭です。石炭から水素を製造させる現代でもびっくりするような科学の進歩を予言しています。そして1874年に発表した『神秘の島』の中では、技師に「水は未来の石炭なんだ」と語らせ、水素社会の到来を予感させています。そして21世紀の現在、この夢が実現しようとしています。人類が豊かに生存し続けるための基盤となる地球環境は、すでに限界に達していると認識されるようになりました。持続可能な開発目標（SDGs）は、このままでは地球を将来につないでいけないという危機感のもと、全国連加盟国が賛成してまとめられた2030年をゴールとする世界目標で、17の分野からなります。国連では幼児向けアニメシリーズ「きかんしゃトーマスとなかまたち」を通じ、子どもたちとその家族が自然に楽しみながら、SDGsへの認識を高めるための取り組みを展開しています。蒸気機関車の燃料に欠かせない石炭は、供給安定性と経済性の両面で信頼性が高く、社会・経済発展の基礎となるエネルギー源であり、「すべての人々に手頃で信頼でき、持続的かつ近代的なエネルギーへのアクセスを確保する」とするSDGsの目標7に合致します。またクリーンコールテクノジーの適用によって地球規模でのCO2削減が可能で、「気候変動とその影響に立ち向かうために緊急対策をとる」とする目標13にも合致します。持続可能な発展に向け、これからも石炭はSDGsに貢献していきます。©2019Gullane(Thomas)Limited.39熱電自動車航空石炭利用の未来石炭からつくった水素エネルギーが未来を動かす2025年までに水素ステーション320カ所が整備され、2030年には燃料電池車80万台が普及するものと期待されています。岩谷産業株式会社所蔵水素燃料を使ってマッハ5で飛ぶ将来型超音速旅客機の実現を目指し、新しいエンジンなどの研究開発が進んでいます。川崎重工業株式会社所蔵水素ガスタービン発電・熱電供給実証プラント2018年神戸市ポートアイランドで、水素燃料100％のガスタービン発電よって、市街地における熱と電気の供給を世界で初めて達成しました。水素発電の実用化に向け実証が続けられています。JAXA所蔵

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令和元年度文化庁文化芸術振興費補助金世界遺産「明治日本の産業革命遺産」ガイドブック石炭編石炭がわかる本2019年11月29日発行発行◉｢明治日本の産業革命遺産｣人材育成事業実行委員会〒160-0008東京都新宿区四谷三栄町11-16TEL◉03-3357-6210URL◉http://sangyoisankokuminkaigi.com/監修◉加藤康子一般財団法人産業遺産国民会議専務理事著者◉一般財団法人石炭エネルギーセンター編集・デザイン・印刷◉株式会社日活アド・エイジェンシー本書掲載の写真および図版・記事の無断転載を禁じます。

