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世界遺産「明治日本の産業革命遺産」ガイドブック製鉄・製鋼編鉄がわかる本発行◉「明治日本の産業革命遺産」人材育成事業実行委員会監修◉加藤康子内閣官房産業遺産の世界遺産登録推進室著者◉稲角忠弘菅和彦

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発刊にあたって世界遺産「明治日本の産業革命遺産」ガイドブック製鉄・製鋼編鉄がわかる本CONTENTS02発刊にあたって一般財団法人産業遺産国民会議専務理事加藤康子04鉄の不思議な力06世界を一変させた産業革命08西洋技術の導入に成功した軌跡11STEP1試行錯誤の挑戦扉を開いた一冊の蘭書1国を守る鋳鉄製大砲の製造に挑む2鋳鉄素材の性能限界に直面苦闘した和銑での大砲鋳造3「柔鉄」を求めて釜石で木炭高炉の操業に成功コラム貪欲に学んだ幕末の先駆者たち21STEP2西洋技術の直接導入日本の近代製鉄の礎を築く4官の挫折と民による再生小さく生んで大きく育てるコラム官と民の試み25STEP3産業化の達成期錬鉄から溶鋼の時代へ5官営八幡製鐵所の創業日本初の銑鋼一貫製鉄所6初期トラブルを乗り越えて産業国家の屋台骨を構築する一般財団法人産業遺産国民会議専務理事加藤康子日本は幕末から明治にかけて、西洋以外の地域の中で先駆けて産業の近代化に取り組み、半世紀余りという極めて短い期間で産業国家としての地位を確立しました。このことは世界史上において特筆すべき出来事であり、人類共通の遺産としてふさわしい普遍的な価値を持っています。産業化の歩みは幕末、海防の危機感から国を守るため、鉄製大砲鋳造への挑戦から始まりました。鉄は国家安全保障の要であり、産業の母でもあります。明治日本は自らの力で人を育て、西洋の産業革命をけん引した最新の製鉄・製鋼技術を導入することに成功し、産業のシステムやインフラを構築しました。日本の近代化はまさに鉄とともにありました。「明治日本の産業革命遺産製鉄・製鋼、造船、石炭産業」における製鉄・製鋼分野の構成資産群には、現代日本の繁栄の原動力となった先人たちの鉄づくりへの情熱や知恵が息づいています。この素晴らしい遺産の保全と次世代への継承に向け、本書が一助となることを祈念しています。そして鉄が、これからも私たちの豊かな暮らしと社会を支え、日本の未来を切り拓いていってほしいと願っています。30世界遺産としての価値日本と西洋の技術が独創的に融合32鉄と鋼の基礎知識表紙撮影:内山英明/一般財団法人産業遺産国民会議所蔵

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世界遺産「明治日本の産業革命遺産」ガイドブック製鉄・製鋼編鉄がわかる本新日鐵住金株式会社八幡製鐵所所蔵1910(明治43)年官営八幡製鐵所修繕工場表紙は現在の様子

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の不思議な力04鉄は硬くて強く、自在に加工できる優れた特性を持ってい鉄ます。そのため自動車や家電製品、ビル、橋、船、鉄道、産業機械などをつくる主要な材料として、広く使われています。さらに鉄には磁性があり、発電機や変圧器、モーターとして使われ、現在の電気社会を支えています。鉄はなぜ現代文明社会の基礎素材として欠かせない存在なのでしょうか。それは鉄の使用価値が高く、しかも豊富に存在するため、経済的で大量に使えるからです。鉄元素には本来、根源的な力が宿っています。宇宙が創成して以来138億年にわたり、鉄は宇宙や地球に大きな影響を与えてきました。そのなかでも、産業革命によって人類は、鉄が本来持っている優れた特性を引き出せるようになり、鉄の本格的な利用を加速させました。明治日本の産業革命遺産に登録された製鉄・製鋼に関わる資産群は、人類が大量に鉄が広く利用できるようになった製鉄の工夫の過程を教えてくれます。それら製鉄・製鋼に関わる資産群が一体どのような価値を持っているのかを紹介する前提として、まず鉄という元素の不思議な力の起源からたどってみましょう。◆138億年前に宇宙が生まれ、その約3分後には全ての物質のもととなる原子核がつくり出されました。原子核は電子と結びついて、水素やヘリウムの原子ができ、それらが徐々に集まってガス状の雲となり、星をつくりました。宇宙に出現した星たちは、内部でさまざまな元素をつくり出したあと、超新星爆発を起こして消えていきました。こうしてまき散らされた元素が、次の世代の星の種となりました。元素の中でも鉄原子は、最も安定した原子核構造を持っているため、他の元素に比べて宇宙に相対的に多く存在しています。約46億年前に誕生した地球は、比較的重い元素が集まって形成され、鉄が地球全体の重さの3分の1を占めています。重量でみると、地球は「鉄の惑星」なのです。地球の内部では溶けた鉄が対流し、強大な磁場をつくり出しています。この磁場がバリアとなって宇宙空間から降り注ぐ有害な太陽風や宇宙線などを遮り、地球を生命にとって安全な環境へと変えました。誕生当時の地球の大気中に酸素は

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地球は「鉄の惑星」地球全体の重さの3分の1は鉄元素で占められています。宇宙や生命の誕生と進化、古代から現代に至るまでの文明において、鉄は人類にとって欠かせない存在なのです。鉄の不思議な力©NAOJ鉄元素の形成巨大な原子星の中で核融合が起こり、さまざまな元素が宇宙に生まれました。なかでも鉄元素は、他の元素よりも安定的であるため、宇宙における存在度は高くなりました。地球の形成と生命の誕生地球の中心に鉄が濃集し、地球磁場が形成されました。磁場が危険な宇宙放射線をブロックしたことで、地表面は生命にとって安全な環境になりました。太古の海では光合成をするシアノバクテリアの誕生によって酸素が増え、地球環境は劇的に変わりました。05なく、二酸化炭素や窒素などが充満していました。海中にも酸素はありませんでしたが、約32億~25億年前になると、光合成をするシアノバクテリアが生まれ、酸素を供給し始めました。その酸素は海中の鉄分と結びつき、酸化鉄となって沈殿・堆積して鉄鉱層を形成しました。そして、その後の地殻変動によって海底が隆起し、鉄鉱層が地上に現れた後に地質作用を受けケイ素など脈石成分が溶脱して、高品位な鉱石鉱床が出来上がりました。製鉄原料として利用可能な鉄鉱石の可採埋蔵量は現在2,320億tにのぼります。非鉄金属に比べて桁違いに豊富なのは、こうした宇宙や地球の誕生の経緯があるからなのです。一方、地球上に酸素が蓄積されると生物の大進化が始まり、人類が誕生します。生物にとって鉄は基本的な栄養素のひとつで、生命を維持するために鉄を利用しています。例えば私たちの体内をみると、鉄の多くは血液中のヘモグロビンに存在しています。ヘモグロビンは呼吸で体内に取り入れた酸素を体の隅々まで運び、生命活動の基盤となるエネルギーを生み出しています。鉄はかけがえのない存在なのです。縞状鉄鉱層(BIF)鉄鉱物を主体とする赤黒い層と、石英などを主体とする赤白層が交互に堆積しています。堆積層の厚さは最大数百mもありますが、その中にさらに細かい薄い層の堆積が繰り返されていまけつがんす。地層の隆起後、石英や頁岩などの脈石が地質作用で溶脱して高品位鉱石となります。生命の多様化血液中のヘモグロビンに含まれている鉄は、酸素を体の隅々まで運びエネルギーに変える重要な役割を果たし、生命の進化をもたらしました。もっと知りたい!九州大学・清川昌一准教授所蔵代表的な鉄鉱石⇒P19をチェック

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世界を一変させた産業革命は文明社会において人類の進歩に重要な役割を果たし鉄てきました。鉄を使った武器をいち早く利用できた文明は、優勢を保つことができました。さらに鉄器が農耕の効率を格段に向上させ、生産性を大幅に高めたことで社会を安定化させ、製鉄技術の発達を促しました。なかでも社会を大きく変えたのが、18世紀に始まったイギリスの産業革命でした。欧州では、14世紀ごろから高炉を用いて鉄鉱石を木炭で還せんてつ元して銑鉄と呼ばれる鉄をつくっていました。しかし鉄を大量生産するためには、木炭が足りませんでした。多くの木が切られ、森林資源が枯渇してしまったからです。そこで1709年、アブラハム・ダービーによってイギリスでコークス高炉が発明されました(本格的な実用化は1735年)。コークスは石炭を蒸し焼きにしたもので、木炭に比べ押しつぶされにくく、強い火力を得ることができます。さらに送風の動力として、水力に替わって蒸気機関が用いられるようになると、高炉が水車動力の制約から解放されて自由に立地でき、かつ送風力が増し、高炉ちゅうてつ内の燃焼温度が上昇して還元効率が高まり、銑鉄(鋳鉄)の大量生産を実現しました。しかし銑鉄を溶解炉で溶かした鋳鉄は、炭素分を多く含んでいるため融点が低く、鋳造しやすいかわりに硬くて脆く、船や建物の材料には向いていませんでした。そこで銑鉄の一部は鍛冶炉によって木炭で加熱し、鍛打して鋳鉄より強靱なれんてつ錬鉄をつくっていましたが、石炭の高火力を活かしたパドル法が1784年にイギリスで発明されると、錬鉄の生産能力は高061843年グレート・ブリテン号の進水風景(イギリス)錬鉄を本格的に使用した初めての大型船。この船に用いられた船体構造の基本部材や二重底構造などは現在の船舶設計にも引き継がれています。

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まりました。パドル法は炉の中で銑鉄を溶融・半溶融状態でかき回すことによって空気・酸化スラグと接触させ、銑鉄中の炭素を取り除く技術で、従来法に比べて均質で粘り強い錬鉄が効率的につくれるようになりました。さらに1856年に転炉、はがね1865年に平炉という製鋼技術が開発されると、鋼と不純物(スラグ)を分離することが可能となりました。錬鉄よりも均質でさらに強靭な鋼が効率的かつ大量につくれるようになり、現代に至る溶融鋼の大量製造技術のベースが確立されたのです。銑鉄から錬鉄、溶鋼へと鉄の利用が進むにつれ、鉄鋼材料の用途は広がり、産業革命の発展を促し、新たな文明社会を生み出しました。鉄鋼材料を使った蒸気機関などの機械化が進むことにより石炭の増産が可能になると、鉄鋼の大量生産を加速しました。そして大量の石炭や鉄鋼製品を効率良く輸送する手段として、鉄道や蒸気船が実用化されました。鉄道や蒸気船の発達は流通や交易の拡大・広域化を促し、各地で鉄道や港湾など鉄鋼材料を使ったインフラの整備が進み、経済を発展させる力となりました。こうして社会構造は、農業とそれに付随する手工業から成り立つ封建制から、蒸気機関を動力源とする機械制大工業を経済の基礎とする資本制の社会へと転換しました。産業革命は鉄の本格的な利用が起爆剤となって人々の暮らしを大きく変えていったのでした。「鉄」の時代の幕開けアイアンブリッジ(1779年イギリス)鋳鉄製全長約60m、鉄重量400tのアーチ橋。アイアンブリッジ峡谷一帯は産業革命発祥の地で、18世紀後半から19世紀にイギリス製鉄業の中心地でした。1986年ユネスコ世界遺産に登録。「鉄」の時代の深化キューガーデン(1848年イギリス)柱は鋳鉄製、桁は錬鉄製1759年宮殿併設庭園として始まった王立植物園。その目玉といえる巨大温室パームハウスは、当時の造船技術を取り入れた鉄とガラスでつくられました。2003年ユネスコ世界遺産に登録。世界を一変させた産業革命©ssGreatBritainTrust07「鉄」の時代の到達点エッフェル塔(1889年フランス)錬鉄製フランス革命100周年記念および第4回パリ万国博覧会のシンボルとして建設。高さ約300m、鉄重量7,300t。錬鉄は溶接できないため250万個のリベットで接合されました。「鋼」の時代の始まりフォース橋(1890年スコットランド)鋼鉄製全長約2,528m、鉄重量5万1,000t、800万個のリベットが使われた鉄道橋。工部大学校(現在の東京大学工学部)卒業後、工部かいち省鉄道局を経てグラスゴー大学に留学していた渡邊嘉一が技師として工事に参加していました。2015年ユネスコ世界遺産に登録。もっと知りたい!製鉄・製鋼技術の歩み⇒P32-33をチェック

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❶08西洋技術の導入に成功した軌跡❸日本の覚醒を促した産業革命世紀イギリスで始まった産業革命は、19世紀には欧州18諸国やアメリカに普及しました。それを契機に市場や資源の確保を目指し、欧米諸国は競って海外での植民地の獲得に乗り出しました。日本近海にも大砲を搭載した蒸気船が頻繁に現れるようになり、国防の危機が高まりました。そして1840~42年のアヘン戦争で清国がイギリスに大敗すると、江戸幕府は諸藩に沿岸の防御を固めるように指示し、各地で砲台(台場)の建設とともに大砲が製造されました。日本には鋳わくず鉄素材としてたたらの和銑、鋳造するための溶解炉としてこしき炉がありましたが、大型の鋳鉄製大砲をつくるためには、こしき炉では大量の和銑を一挙に溶かすことに限界があったため、西洋の反射炉技術が必要になりました。反射炉は1850(嘉永3)年の肥前藩をはじめ各地に建設され、鋳鉄製大砲づくりへの挑戦が始まりました。しかし和銑でつくられた鋳鉄製大砲は、使用時に破裂し、素材性能として限界があることがわかりました。先人たちは和銑とは異なる良質の鋳物銑(ねずみ銑)が西洋では高炉からつくられ、たたらでは容易に製造できないことを知り、一種のカルチャーショックを受けたものと思われます。蘭書には鋳鉄の種類や性状が金属学的に評価分類されており、日本の使用経験に基づく用途別・産地別の仕分けとは異なっていました。反射炉の導入によって、西洋の鉄技術が科学に基づく理解の上に成り立っていることを初めて知る大きな第一歩となりました。良質の鋳物銑が高炉でつくれることを知った盛岡藩士の大たかとう島高任は、鉄鉱石を産出する釜石で木炭高炉を建設し、1858年1月(安政4年12月)に高炉銑鉄をつくることに成功しました。たたら炉から木炭高炉への製鉄法の改革は、西洋の歴史からかいてつろ見ると14世紀に行われた塊鉄炉から木炭高炉への技術革新に相当します。このとき西洋ではすでにコークス高炉の導入が始まって1世紀半が経過しており、日本は産業革命の一巡前

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こしき炉から反射炉へ①『大砲鋳造絵巻』佐賀県立佐賀城本丸歴史館所蔵江戸幕末、小田原における青銅製大砲の鋳造を描いた絵巻。3とい基のこしき炉を用いて銅と錫を溶かし、それぞれの炉から樋で溶けた青銅を流し、手前で合わせて垂直に固定した鋳型に注入して砲身を鋳込んでいました。たたら炉から高炉へ②『先大津阿川村山砂鉄洗取之図』東京大学工学・情報理工学図書館工3号館図書室所蔵先大津阿川村(山口県下関市)の絵巻。江戸末期の狩野派の絵師作と伝えられています。たたら製鉄は、良質な砂鉄産地の中国地方で著しく発達しました。たたら炉に足踏みふいごで風けらを送り、砂鉄を木炭で還元して和銑や鉧をつくっていました。西洋技術の導入に成功した軌跡❷もっと知りたい!日本古来の製鉄技術たたら⇒P34をチェックの技術導入からスタートすることになりました。しかしながら高炉の操業成績は、たたら炉が鉄鉱石1tあたり和銑0.15tに対して、木炭高炉は0.5tと3倍以上も歩留良く生産でき、日本古来の製鉄たたらの生産能力や品質を卓越した技術でした。そのパワーを目の当たりにした先人たちは、西洋の高炉技術による鉄づくりが産業革命の源泉となったことを認識するに至り、日本の覚醒を促す一つの要因となりました。銑鉄から錬鉄、そして鋼鉄をつくる明治維新後の日本では、富国強兵のスローガンの下、殖産興業の一環として鉄鋼業の育成が促され、産業革命の本命技術であるコークス高炉による銑鉄と錬鉄の生産に挑みました。官営釜石製鐵所は鋳鉄用銑鉄だけでなく、高炉銑鉄からパドル炉で錬鉄(低炭素鋼)を生産し、それを長崎などの陸海軍こうしょう③④『薩州見取絵図』公益財団法⼈鍋島報效会所蔵/佐賀県立図書館寄託1857(安政4)年、肥前藩主の鍋島直正から薩摩藩主なりあきらの島津斉彬に送られた電信機を携えて、肥前藩士が鹿児島を訪れた際、集成館などの様子を絵図にしました。反射炉(③)や高炉(④)が描かれています。❹工廠に送り、るつぼ炉で再精錬して大砲などの高級鋼をつくる計画を策定し、イギリスの技術をフルセットで導入しました。1880(明治13)年に製鐵所は操業を開始しましたが、銑鉄生産が不調で錬鉄の生産に至らず、工廠への販路が絶たれました。さらに製造コストも輸入銑鉄の2倍に達し、経営の見通しが立たず、財政難も加わり、わずか2年余りで廃止されました。その後、官営釜石製鐵所が民営に払い下げられると、実業家の田中長兵衛は、官営時代のイギリス式大型高炉の操業を一旦断念し、高任式の小型高炉を建設しました。何十回にわたる失敗を乗り越え、1886年(明治19)年に火入れに成功し製鐵所再興のめどを得ると、直ちに全面的な払い下げを要請して、1887(明治20)年に釜石鉱山田中製鐵所を設立しました。事業は水道管などの銑鉄の民需で軌道に乗せました。一方、工廠では当初計画したるつぼ炉精錬から最新の溶鋼精錬方式である平炉の導入が進んだことで、銑鉄から精錬する方式に変わり、錬鉄を鉄源にする必要がなくなり、釜石銑の利用が研究されました。その結果、大阪砲兵工廠から輸入銑鉄に勝るとの評価を得て、釜石銑の工廠への需要が回復し、生産が追いつかなくなるまでになりました。釜石では増産のため、野かげよし呂景義の技術支援を得て、1894(明治27)年に官営時代の高炉を改造し原料を改善して日本初のコークス高炉の操業、翌年には錬鉄の試製に成功しました。こうして官営当初の技術導入目標を紆余曲折の末、自らの手で達成しました。釜石ではコークス高炉の操業、錬鉄の試製には到達したものの、19世紀後半の欧米では製鋼プロセスのイノベーションが進んでいました。転炉と平炉が相次いで発明され、溶鋼が大量安価に製造できるようになりました。溶鋼は錬鉄に比べ、ほぼ完全に均質で、機械的性質に優れていました。そのため溶鋼でつくられた鋼材は、錬鉄製品を瞬く間に駆逐していきました。日本でも明治20年代(1887~96年)に鉄道が急速に敷設され、鋼材の輸入量が急増し始め、対策が課題となっていました。また軍器独立を目標とする陸海軍の強い要望と相まって、溶鋼から鋼材をつくり出す新たな製鉄所の創設が求09

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められ、1901(明治34)年に官営八幡製鐵所が誕生しました。八幡では高炉での銑鉄製造から最終製品まで同じ場所で生産する銑鋼一貫方式が採用されました。生産性やエネルギー効率に優れている一方、高炉の安定生産や複雑な生産管理など高度な技術が必要となりました。そのためドイツの最新技術と設備をフルセットで導入したものの、操業開始後の数年間はトラブルが続きました。西洋でも最先端生産方式の操業確立は容易ではありませんでしたが、困難を日本人自らの手で乗り越えて、本格的に鉄鋼を量産する技術を確立しました。釜石や八幡での操業困難の自力克服には、明治政府の人材育成が大きな原動力となりました。西洋の科学技術を導入し殖産興業政策を推進する工部省の設置や、近代国家の土台を技術で支える人材育成のための工部大学校(現在の東京大学工学部)の設立に尽力した山尾庸三は、「工業無クモ、人ヲ作ラバ、其ノ人工業ヲ見出スベシ」という言葉を残しています。明治政府は西洋への留学生派遣とともに、外国人教師や技術者の招聘を積極的に行いました。こうした施策の下、当時世界最先端の技術の学習・吸収が進み、自ら巨大製鉄所を建設・運営できる人材が育ち、明治日本は近代化を実現しました。明治日本の産業革命遺産に登録されている製鉄・製鋼に関する資産群には、西洋で500年にわたって培われた革新技術を50年余りで導入に成功した先人たちの英知が刻まれています。その軌跡をたどりながら近代の鉄づくりを解説し、世界遺産としての普遍的価値を紹介します。産業革命をけん引した製鉄・製鋼技術の導入推移年代主な出来事西洋での技術開発塊鉄炉(古代~中世)<日本の在来技術>たたら(古代~近世)日本の技術導入中心地1300年1400年1500年アルマダ海戦(1588年)木炭高炉(14~15世紀)非鉄金属用木炭反射炉(15世紀)高炉炉床で直接鋳造する小型鋳鉄砲(1540年頃)スウェーデン101600年鎖国(1641年)反射炉を用いた大型鋳鉄砲(17世紀末)1700年1750年1800年コークス高炉の本格実用化(1735年)るつぼ製鋼(1740年)産業革命(18世紀後半)パドル炉・圧延(1784年)蘭学の隆盛(19世紀前半)イギリスアヘン戦争(1840~42年)鋳鋼製大砲(1843年)1850年ペリー来航(1853年)<鉄の時代の技術>反射炉(1850年肥前)<鋼の時代の技術>ベッセマー転炉(1856年)木炭高炉(1858年釡石)明治維新(1868年)平炉(1865年)トーマス転炉(1879年)木炭高炉・パドル炉・圧延(1880年官営釡石)るつぼ製鋼(1882年東京海軍造兵廠)ドイツ1900年コークス高炉(1894年釡石田中)平炉(1890年大阪砲兵工廠)コークス高炉・平炉・転炉・圧延の銑鋼一貫(1901年官営八幡)アメリカ3段階を経て50年余りでキャッチアップした軌跡1850年代~1860年代試行錯誤の挑戦目的:欧米に対抗可能な鋳鉄製大砲製造方策:反射炉と木炭高炉の技術導入1870年代~1880年代西洋技術の直接導入目的:鉄鋼生産で殖産興業、軍備自立方策:コークス高炉・錬鉄生産方式の挑戦1890年代~1910年産業化の達成期目的:輸入鉄依存から脱却し鋼材を国産化方策:銑鋼一貫生産方式を導入

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STEP1試行錯誤の挑戦扉を開いた一冊の蘭書『ルイク国立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』反射炉設計図アヘン戦争での清国の敗北、黒船来航など、江戸幕末の日本は国防の危機に直面しました。幕府や諸藩の志士たちは国を守るため、オランダのユーリッヒ・ヒューゲニン少将が記した技術書『ルイク国立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』を片手に、設計図を模して反射炉や高炉を建設し、鋳鉄製大砲を製造しました。

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112戸時代の日本は、幕府の二百数十年の鎖国政策の下、江泰平の世が続き、鉄砲や大砲の需要は限られていました。一方、西洋では製鉄・製鋼技術の発達とともに、鋳鉄製大砲がイギリスで開発されました。鋳鉄砲は従来の青銅製大砲に比べて、豊富な天然資源の鉄を原材料とするため、製造コストが安く大量生産に適しているとともに、うまくつくれると強度や飛距離などの性能面にも優れ、大きな威力を発揮しました。鋳鉄砲の実用化は、大航海時代に無敵艦隊と呼ばれたスペインに替わり、イギリスが世界の覇権を握った要因の一つとしてあげられるほど大きな影響を与えました。19世紀になると、極東の日本近海に鋳鉄砲を搭載した欧米諸国の艦船が現れるようになり、国防の危機が高まりました。幕府は1849(嘉永2)年、諸大名に対して海防強化を奨励し、1853(嘉永6)年のペリー来航後には国を挙げて鋳鉄砲の製造が加速しました。経験のない鋳鉄砲の製造にあたって参考としたのは、『ルイク国立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』という1冊の蘭書でした。この本はオランダのヒューゲニン少将が退役後の1826年に執筆したもので、長崎・出島を経由して日本に輸入され、蘭学者たちによって1850(嘉永3)年ごろから翻訳が始まりました。先進国のイギリスやドイツに追随し学ぶべき点を網羅した実用的な技術内容でした。反射炉の銑鉄溶解法、鋳型鋳造法、砲身穿孔法はもとより、破裂しない大砲製造には銑鉄の性状が重要なことが力説され、高炉で鉄鉱石を木炭やコークスで還元して銑鉄をつくり出す方法や良質の銑鉄製造に鉱石が左右することまで書かれていました。高炉を知らない日本にとって“格好の教本”となりました。古来から日本では、たたら炉を用いて砂鉄を木炭で還元して和銑をつくり、こしき炉を用いて鉄の鋳物をつくっていました。しかし大砲のような大型製品をつくるためには、こしき炉では溶解能力が不足していました。そこで鋳鉄砲の製造には、まず反射炉の建設が必須と理解されました。反射炉の建設は肥前藩を皮切りに、薩摩藩、長州藩、水戸藩、幕府直轄地の伊豆・韮山など、全国各地で展開されました。ヒューゲニンの書との出会いによって、大砲鋳造という鉄の加工技術から、産業革命をけん引した近代西洋の製鉄・製鋼技術の導入が日本で始まりました。

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STEP1◉試行錯誤の挑戦1854(嘉永7)年ペリー提督が横浜に上陸ペリー艦隊2度目の来航。幕府は砲艦外交に屈し、開国を余儀なくされました。明治日本の産業革命遺産に登録された反射炉13撮影:内山英明/一般財団法人産業遺産国民会議所蔵1856(安政3)年萩反射炉肥前藩の反射炉の目視情報をベースに建設されたもので、同時期の反射炉に比べ一回り小さく、炉内も独自の構造となっています。西洋科学への試行錯誤の取り組みを象徴しています。鹿児島県所蔵1857(安政4)年旧集成館反射炉跡薩摩藩主の島津斉彬は大砲鋳造や造船を核とした集成館事業を興しました。事業の一端を象徴する反射炉は、鋳鉄製大砲の製造を目指して建設されましたが、実際は青銅の1857(安政4)年韮山反射炉鋳造に使われました。ひでたつ韮山代官の江川太郎左衛門英龍は鋳鉄製大砲の国産化を幕府に進言し、反射炉と品川砲台(東京・台場)の築造責任者とひでとしなりました。英龍の急逝後、息子の英敏が反射炉を完成させました。石組みの基礎の上に耐火煉瓦で築かれた連双2基4炉の炉体部と4本の煙突からなる構造で、実際に稼働したことが確認されています。伊豆の国市所蔵

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2ヒューゲニン書に描かれた錐鑽機14すいさんき飛田与七が描いた錐鑽機ヒューゲニン書の図面には詳細寸法まで書き込まれていませんでした。しかし水戸藩の宮大工であった飛田与七は、大砲を水車で回転させながら砲身をくり抜く錐鑽機など、反射炉と付帯設備の設計図を精巧に描き出しました。江戸の匠の技が西洋技術を読み解く鍵を握っていました。ひたちなか市教育委員会所蔵射炉の建設は、長崎警護役として特例的に青銅砲の製反造技術を保持していた肥前藩で、1850(嘉永3)年にいち早く始まりました。幕府から資金援助を得て、西洋との交流や情報入手が容易な地の利を活かし、藩命で大銃製造方が結成されました。蘭学者の主導の下、鋳物師や刀匠、陶工など、匠の集団が技術の粋を尽くした結果、肥前藩は非常に短期間で反射炉を完成させました。しかし反射炉の操業開始当初は和銑の再溶解すらできず、ヒューゲニン書の翻訳に携わったすぎたにようすけ技師長格の杉谷雍介は「操業7回目でやっと地金が全溶解でき、大砲が製作できるようになったが、試砲の折に砲身の破裂を起こし、15回目で初めて実戦用の砲身が鋳造できた」と書き残しています。そして、ようやく完成した大砲を試射すると、今度は破裂しました。鋳鉄砲は青銅砲よりももともと破裂しやすい性質があり、その原因は溶融温度の不足や鉄素材の不良などにあることがヒューゲニンの書にも記されていました。長崎のオランダ商館に技術相談したところ同様の答えで、改善が積み上げられていくと、次第に破裂問題は克服されていきました。大口径の大砲を装備する本来の計画には間に合わず、青銅砲が代替製造され、目標達成には道半ばでしたが、1854(安政元)年までに青銅製42門と鋳鉄製9門が長崎に設置され、1860(万延元)年までには幕府や他藩からの製造依頼にも応えて、合計で135門以上の鉄製砲が製造されました。肥前藩に続き、薩摩藩では1853(嘉永6)年に反射炉と高炉が建設されました。高炉建設は殖産興業を目的とするものでしたが、和銑の大砲破裂問題を解決するためでもあったことが記録されています。しかし高炉の操業は軌道に乗らず、和銑での大砲製造も苦闘が続きました。そのため錦江湾の要塞には、青銅砲を主体に防備が固められました。水戸藩では1855(安政2)年に肥前藩や薩摩藩の前例を参考に反射炉が建設されましたが、ここでも和銑の限界を再確認

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するにとどまりました。また幕府直轄地の韮山では肥前藩の応援協力が行われたものの、1857(安政4)~60(万延元)年に18ポンド砲3門の試射に成功しただけでした。各地の反射炉建設の記録には共通して、和銑による鋳鉄砲の性能の限界が示されています。先人たちは和銑と異なる鉄が存在することや、高炉銑でなければ巨大な鋳鉄砲がつくれないことを知り、大いに驚いたことでしょう。ヒューゲニンの書には、科学的に鉄の性状が解釈され、鉄の分類がされていました。一方、日本では使用経験による用途別の評価分類にとどまっていました。和銑による鋳鉄砲製造の失敗体験は、西洋の産業革命技術が科学に立脚していることを理解する第一歩となりました。STEP1◉試行錯誤の挑戦大砲破裂の原因を探るねずみ銑鉄の金属顕微鏡組織(写真1)鋳物銑は炭素の含有量などによって、特性が変わります。銑中に含まれる炭素が少ないと、金属組織のセメンタイト(炭化鉄)化が進み多くなります(図1)。白色の炭化鉄は硬くて強度はあるものの、脆くて粘り強さじんせい(靱性)がないという欠点があります。肉眼で見ると白色なため白銑と呼ばれています。一方、銑鉄中に含まれる炭素やケイ素の濃度を多くして、鋳造時にゆっくり冷やして凝固させた場合は、セメンタイトにならず、黒色のグラファイト(黒鉛)が多く含まれる(写真1)ため、白色の鉄・セメンタイトと混色してねずみ色に見えることから、ねずみ銑と呼ばれています。含有炭素のグラファイト化によって、靱性の優れた鋳鉄になります。この現代の金属工学の見地から、大砲破裂の原因を分析すると、和銑は高炉銑鉄に比べて、炭素やケイ素の濃度が少ない(図2)ことから、含有炭素のグラファイト化が進まず白銑になりやすく、鋳物に適したねずみ銑になりにくい(図1)ことがわかります。さらに反射炉の加熱温度が十分でない場合、和銑は流動性が悪く、不純物の除去も不十分で、材質が不均一になることなどから強度が低下し、大砲製造に適した鋳鉄をつくることができません。このように和銑は鋳造品の品質に不利な組成であったため、鋳鉄砲は砲弾発射の衝撃に耐え切れず、破裂を繰り返したと考えられます。硬い高い細かい難しい大島高任の指向和銑木炭銑コークス銑硬度軟らか抗張力低い破面粗い炭素,%4.03.0木炭高炉コークス高炉Ⅰ:白銑Ⅱa:斑銑Ⅱ:ねずみ銑Ⅱb:普通鋳鉄Ⅲ:極軟鋳鉄15溶解性易しい白銑斑銑ねずみ銑普通鋳鉄極軟鋳鉄2.0塊鉄炉和銑ⅠⅡaⅡⅡbⅢ多いセメンタイト(白色)グラファイト(黒色)鋳物銑の種類と性状(図1)多い1.001.02.03.04.0ケイ素,%5.06.07.0製鉄法別銑鉄の成分と鋳物の種類(図2)ものづくりの心を育んだ西洋技術との出会い産業革命技術止揚課題日本の伝統技術反射炉高炉耐火物技術大量溶解限界銑鉄性状限界炉寿命/低生産性低耐火性こしき炉たたら炉陶磁器技術高層建築技術塊鉱石採掘技術塊鉱石使用コークス製造・使用鉄道船舶機械運搬塊使用未経験コークス知識なし大量運搬限界城普請、石組技術金銀銅鉱石採掘技術砂鉄(粉鉱石)利用木炭製造・使用牛馬人力運搬反射炉の建設を通して、日本の伝統技術と西洋の近代技術の相違点だけでなく、共通点も認識するようになりました。例えば基礎資材の耐火レンガは日本にありませんでしたが、陶磁器技術を活用しました。当初は耐火性がなく、原料粘土の産地を何回も変えて試行錯誤を繰り返した末、実用化に至りました。先人たちは日本と西洋の技術を比較して、吟味し、選択しながら、国内原材料と伝統技術を基盤として、西洋技術を短期間のうちに消化・吸収していったのです。西洋技術との出会いが、日本のものづくりの心を育み、産業革命をけん引した製鉄・製鋼技術の導入を成功させていくことになります。赤文字・赤矢印:大島高任が改革を率先。破裂しない大砲素材製造に挑戦

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3盛なかみなと岡藩士の大島高任は、水戸藩の要請に応えて、那珂湊で反射炉の建設・操業の任に当たりました。大砲鋳造の素材として和銑は不向きで、高炉を用いて鉄鉱石からつくった銑鉄が必要なことを、自ら翻訳に携わったヒューゲニンの書や肥前藩の苦心談を通して強く認識していました。じゅうてつ大島高任は理想の鉄材を「柔鉄」と呼びました。高炉銑は反射炉で再溶融すると餅のようになり、大砲製造に適した鋳鉄になると理解し、出身地の盛岡藩にはスウェーデンと同じ鉱種の良質な鉄鉱石が豊富にあることから、柔鉄を求めて釡石・大橋で木炭高炉の建設に着手しました。釡石での高炉建設もまた、反射炉と同じようにヒューゲニンの書が頼りでした。簡単な完成図面は書かれているものの、製作図面ではなく、具体的な製作方法が説明されていません。しかも日本で調達できる原材料も西洋とは異なります。そこで日本の伝統技術を駆使して、製作イメージを組み立てて推察しながら、西洋装置を模擬した和製高炉を完成させました。こうして外国人技術者の手を借りず、1858年1月(安政4年12月)に日本で初めて木炭高炉で鉄鉱石の製錬による連続出銑操業を成功させました。わずか15カ月という短期間で、西洋技術の模擬的導入を果たす奇跡的な偉業でした。釡石の高炉銑は那珂湊や韮山の反射炉で大砲に鋳造され、和銑と異なる成績を収めたと記されています。しかし海防参なりあき与として幕政に関わっていた前水戸藩主の徳川斉昭が失脚したため、水戸藩の大砲鋳造事業は中止され、釡石の高炉銑のさつえい需要は絶たれてしまいました。さらに1863(文久3)年の薩英ばかん戦争や1864(元治元)年の馬関戦争で、欧米の大砲性能が格段に進歩していて青銅砲はもとより鋳鉄砲では太刀打ちできなくなっていることを痛感しました。欧米では日本が鋳鉄砲のキャッチアップに挑戦している間に、日進月歩の製鉄技術の革新によって、大砲は鋳鉄製から一段と向上した鋼製(錬鉄製のアームストロング砲、るつぼ鋼製のクルップ砲)へとすでに移り変わっていて、反射炉技術は時代遅れとなっていることを知16

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りました。己を知り敵を知るため、幕府による欧米視察や留学派遣、長州藩と薩摩藩による密航留学が行われました。留学生たちは大砲製造技術の背景にある産業技術、科学技術の威力を悟り、欧米諸国との差があまりにも大きいことを認識することになりました。そして通商条約の締結により、大砲が次第に輸入できるようになると、反射炉による自力の大砲製造ラッシュは幕を閉じました。釡石では高炉銑の大砲への販路を失いましたが、鋳銭などに新たな供給先を見出し、高炉による鉄づくりが継続されました。高炉はたたら炉を凌駕する生産実績が評価され着実に根付いていき、その後の釡石や八幡の官営製鐵所へと持続的に発展していくことになります。鋳鉄製大砲の製造という初期の目的は達成できませんでしたが、反射炉や高炉の技術導入における試行錯誤は、鉄の大量生産と品質向上を可能にする産業革命のパワーを認知する貴重な体験となり、明治維新の近代化政策を推進する大きな原動力となりました。橋野高炉に活かされた匠の技橋野鉄鉱山の三番高炉1858(安政5)年に建設された現存する日本最古の高炉跡。橋野鉄鉱山は1868(明治元)年、高炉3基、約1,000人、牛150頭、馬50頭で年間出銑量30万貫(1,125t)に達し、最盛期を迎えました。明治政府の鋳銭禁止令により一番高炉と二番高炉は操業を中止したものの、三番高炉は1894(明治27)年まで稼働を続けました。STEP1◉試行錯誤の挑戦地震に強い構造設計高炉は反射炉と同じように高層建築物で、炉が傾いたり倒れないような基礎工事が重要になります。水戸藩の反射炉建設の際、大島高任は念入りに基礎をつくった結果、安政の大地震で炉は倒壊しませんでした。この経験が橋野高炉の建設にも活かされ、高炉の基礎トラブルは発生しませんでした。また高炉上部は石組固定構造で、城の石垣構築技術が活かされています。絵本両鉄鉱山御山内並高炉之図(高炉断面図)模倣ではなく創造的な改善溶けた銑鉄をつくるためには、炉内の温度を高くしなければなりません。ふいごとは炉内に空気を送り込む道具で、橋野高炉では動力源に農業灌漑用の水車が使われました。また送風量を増やす必要があったとき、ふいごを西洋の円形から日本の鍛冶で使う箱型に変え、蘭書とは異なる知恵が加えられました。17日本近代製鉄の父大島高任1858(安政4)年釡石の木炭高炉で初出銑橋野鉄鉱山の模型鉄の原料が砂鉄から鉄鉱石へと変わり、日本は近代製鉄技術へと一気に飛躍した。鉄の歴史館所蔵大島高任1826(文政9)~1901(明治34)年盛岡藩の藩医の家に生まれました。1846(弘化3)年藩命により長崎で蘭学を学び、洋式砲術や採鉱精錬術を修め、手塚謙蔵によるてっぽうヒューゲニンの書『西洋鉄熕鋳造篇』の翻訳に参加。釡石で洋式木炭高炉による初出銑に成功した安政4年12月1日(新暦では1858年1月15日)は「鉄の記念日」に制定され、「日本近代製鉄の父」と称えらあにれています。また小坂・阿仁・佐渡などの鉱山を開拓し、金銀銅の精錬にも画期的な成果を収め、1890(明治23)年日本鉱業会の初代会長に就任しました。

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近代製鉄への道を切り拓いた橋野鉄鉱山釜石には橋野をはじめ7カ所13基の高炉が立ち並び、日本最大級の製鉄コンビナートが形成されました。マニファクチャーの手工業から大量生産への転換点となり、日本の近代製鉄への道を切り拓きました。●鉄ができるまで画像:『紙本両鉄鉱山御山内並高炉之図』新日鐵住金株式会社棒線事業部釜石製鐵所所蔵[採掘]高炉場から約2.6km離れた山中の砕石場で、鉄槌やくさびを使い露天掘りで磁鉄鉱を採掘します。[種砕き]種焼き窯(焙焼炉)で磁鉄鉱を焼いて不純物を除き、大きさをそろえます。18[運搬]採鉱された磁鉄鉱をコダスやカマスに入れ、牛や人力で運び出します。原料を使いこなす工夫焙焼で磁鉄鉱の還元性を改善する一口に鉄鉱石と言っても、いろいろな種類があります。釜じてっこう石の鉄鉱石は「磁鉄鉱」と呼ばれ、欧州ではスウェーデンなどで限定的にしか使われていない鉱種でした。一方、イせきてっこうかつてっこうギリスをはじめとする欧州全般では、「赤鉄鉱」「褐鉄鉱(加熱りょうてっこうすると多孔質赤鉄鉱になる)」「菱鉄鉱(加熱すると多孔質磁鉄鉱になる)」などの還元しやすい鉱種が使われていました。ヒューゲニンの書には、磁鉄鉱は還元しにくいものの良質な鋳鉄生産に適していると記されていて、大島高任は釜石の磁鉄鉱が理想的であることに目ざとく気づきました。ばいしょうさらに還元しにくい磁鉄鉱は焙焼が必要であることも注記されており、これも見逃しませんでした。たたらでは焙焼により製鉄しやすくなることが知られており、医学の知識を持つ大島高任は、高炉の使用原料は人間と同じく消化の良いものが必要という医食同源の理解の下、焙焼による鉱石の還元性改善を重視しました。焙焼炉の設計もヒューゲニンの書を参考にしていますが、橋野ではたたらで行われていた方法に近い

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[湯出し]高炉から溶けた銑鉄を砂場に流し出します。STEP1◉試行錯誤の挑戦[連続操業]30〜50日間、この行程を繰り返します。●代表的な鉄鉱石[投入]木炭と磁鉄鉱を高炉の上に運び投入します。新日鐵住金株式会社所蔵磁鉄鉱(黒い部分)を含んだ鉱石がんしょうマグマ(岩漿)活動が石灰岩と接触して生成された釜石の磁鉄鉱原石(黒色が磁鉄鉱、茶色はザクロ石などスカルン鉱物)。鉄の含有率が極めて高く、磁性があります。たたらの原料である砂鉄も磁鉄かこうがん鉱の小さな粒子ですが、花崗岩などの火成岩の風化層を粉砕・選鉱かんななが(鉄穴流し)したり、風化層が川や海岸に流れ出したものを採取・選鉱して、磁鉄鉱の精鉱として使われていました。19[冷却]固まった銑鉄を池に浸して冷やします。新日鐵住金株式会社所蔵赤鉄鉱38億~19億年前に海中で鉄分が沈殿して生成され、縞状鉄鉱層として世界的に楯状地に分布しています。19世紀半ば北米五大湖周辺で大鉱山が発見されると、製鉄の中心地はイギリスからアメリカへと移り、1960年代以降オーストラリアやブラジルの大鉱山から日本へ鉱石が輸入されると、日本が世界の鉄鋼業をリードしました。[計量]重さを測り、製品として出荷します。ピット状の炉がつくられ、種焼き窯と呼ばれました。その後、官営釜石製鐵所では焙焼が軽視されたため、操業失敗の原因の一つとなりました。また払い下げ後の釜石鉱山田中製鐵所でも、高炉操業は48回も失敗を繰り返しましたが、49回目に焙焼鉱石を使うことによって軌道に乗りました。そしてコークス高炉復旧のとき焙焼炉を新設しました。西洋と異なる使用原料を、地域に合ったものに使いこなす工夫は、その後も日本の強みとして発揮されていきました。1886(明治19)年東北地方の地質図ドイツの地質学者H.E.ナウマンによって作成。日本の鉄鉱石埋蔵量は何千万tで、世界全体の埋蔵量の何千億tに比べてあまりにも少なく、品質も恵まれていません。しかし、その中でも釜石エリアには磁鉄鉱が比較的豊富に埋蔵されていました。

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column貪欲に学んだ幕末の先駆者たち江戸末期に国を挙げて日本を守るため、反射炉や高炉の建設をリードしたのは、蘭学者や下級武士でした。1774(安永3)年に医学書『解体新書』が翻訳されて以来、西洋の科学知識が蘭学者を中心に普及していきました。特にヒューゲニンの書を西洋技術輸入の教科書として利用できた背景には、1837(天保8)年から10年のせいみかいそう歳月をかけて発行された日本初の体系的な化学書『舎密開宗』の存在が大きく、元素や化合物、化学反応が日本語化されました。翻訳ようあんした宇田川榕菴は、さらに原著に記されているとおり実験を重ね、考察を加えながら書籍化したと言われています。また医学や砲術の新たな知識を蘭学に求めた学者や技術者の間には、幕藩体制の中でも身分階級の垣根を乗り越えて学び合い、競い合うネットワークが形成されました。ヒューゲニン書の完訳だけでも3種類、部分訳を含めると相当数の翻訳が行われ、江戸や大坂の蘭学塾、韮山の江川邸や藩校、私塾が拠点となり、多くの人材に学ぶ機会を提供していました。こうした蘭学の蓄積と人的なネットワークによって、200年以上を費やして確立された西洋の反射炉・高炉技術を、わずか数年でキャッチアップできたのです。さらに長州藩や薩摩藩などでは、幕府の禁制を犯して若い藩士たちを秘かにイギリスへ渡航させ、西洋の最新知識や技術の修得を試みました。幕府もまたオランダやロシア、イギリス、フランスへと留学生たちを次々と送り出しました。産業革命による西洋の繁栄ぶりを目の当たりにした若者たちは、幕藩体制の枠を超えて日本人という意識に目覚め、産業国家日本を志すようになり、明治日本の産業革命を主導していったのでした。●江戸時代後期における反射炉と高炉の分布20高炉(遺構が現存するもの)高炉(遺構の状態が不完全なもの)反射炉(遺構が現存するもの)反射炉(遺構の状態が不完全なもの)箱館奉行所(古武井)肥前藩(佐賀)長州藩(萩)島原藩(佐田)薩摩藩(鹿児島・旧集成館)鳥取藩(六尾)岡山藩(大多羅)●明治日本の礎を築いた幕末留学生幕府(韮山)盛岡藩(釡石)仙台藩(東磐井)水戸藩(那珂湊)幕府(江戸・滝野川)長州五傑(長州ファイブ)1863(文久3)年、「生きた機械になる」という決意で国禁を犯し、命を賭してロンドンへ渡った長州ファイブと呼ばれる5人の青年がいました。彼らは帰国の途につくと、植民地支配から日本を守るため、産業経済を基盤とした新しい国づくりを決意。明治政府で(写真右から)伊藤博文は総理大臣、山尾庸三は工部卿、井上勝は鉄道庁長官、遠藤謹助は造幣局長、井上馨は外務大臣となりました。げんぼく『銕砲全書』伊東玄朴・池田才八・杉谷雍介訳肥前藩の蘭方医・伊東玄朴と門人・杉谷雍介らが1849(嘉永2)年、江戸でヒューゲニンの『ルイク国立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』を翻訳。杉谷は帰藩後に大砲製造を実地で手がけ、1857(安政4)年には幕府の要請で韮山反射炉の技術指導に派遣されました。松下村塾吉田松陰が主宰した私塾。国の自立には工学実学学習と実践の重要性を提唱し、西洋の実地学習の意義を説きました。公益財団法人鍋島報效会所蔵/佐賀県立図書館寄託萩城下町旧藩体制下で攘夷を強く進め伝統技術による軍備強化に努めていましたが、馬関戦争を契機に西洋技術の導入についての政策が形成されました。明治日本の産業革命の出発点の新旧史跡が共存し、完全に保全されている貴重な街並みです。

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STEP2西洋技術の直接導入日本の近代製鉄の礎を築く新日鐵住金株式会社棒線事業部釜石製鐵所所蔵1880(明治13)年釜石で官営製鐵所が操業日本の近代化を急ぐ明治政府は、鉄鉱石塊鉱と還元剤である木炭、添加剤の石灰石を同一地域で入手できる釜石に着目しました。官営釜石製鐵所は当時世界最新鋭のイギリスの技術を全面的に導入したものの、財政難に加え、操業トラブルが続いたことから、わずか2年余りで廃止されてしまいます。しかし大島高任が釜石に灯した高炉技術を受け継ぎ、民間の釜石鉱山田中製鐵所として日本人自らの手で事業再生を果たし、最終的には産業革命の本命技術であるコークス高炉・錬鉄生産を実現しました。

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column官と民の試み明治時代の前半期には、釜石以外にも民間や官業で近代製鉄への試みが行われていました。旺盛な国内の鋼材需要に応える製鉄・製鋼技術の確立が模索されていました。なかおさか中小坂村鉄鉱山(明治10年ごろ)官営釜石製鐵所の開発とほぼ同時期に、中小坂(現在の群馬県下仁田町)で民間資本によって鉄鋼業が起こされていました。蒸気機関で送風する熱風炉を備えた高炉と、錬鉄生産のためのパドル炉で構成され、近代製鉄技術を小規模ながらも日本で初めて実現していました。工部省は1878(明治11)年にこの製鉄所を買収して官業化し、工廠はその錬鉄を用い、るつぼによる製鋼の試験操業に成功し、以後の工廠による製鋼所確立の端緒となりましたが、中小坂は採算性や原燃料確保の不安から、1882(明治15)年に廃業となりました。宮内庁書陵部提供/群馬県立文書館所蔵24奥出雲町教育委員会所蔵広島鉄山の角炉たたらに高炉技術の利点を取り入れて生産効率を高めるとともに、中国山地一帯のたたら産業の衰退救済ため、1875(明治8)年に官業化されました。個々のたたらの集合体の総称で単一事業所ではありませんでした。砂鉄を木炭で還元して連続操業が可能な角炉が開発され1893(明治26)年に操業を開始しました。たたらの炉高を高めるなどの改ひとよ造によって一定の効果(例えば出銑比2t/d、木炭比1.5t/鉄t、一代100日の例もある)をあげましたが、粉鉱製錬法たたらの特徴を結局は全て否定することになり、高炉の採用が不可避であることを実証したことになりました。一方たたらの玉鋼はリンが低かったため、低リンの包丁鉄とともに、工廠用の錬鉄に相当する高級鋼の製鋼用素材鉄として活おばなふゆきち用されました。広島鉄山で技術開発に取り組んでいた小花冬吉は、のちに官営八幡製鐵所の製銑技師となりました。写真は伝統的なたたらの近代化に向け明治期に考案された角炉で、1935(昭和10)年から1945(昭和20)年まで操業したものです。わかせんにん和賀仙人製鐵所実業家の雨宮敬次郎が和賀仙人(現在の岩手県北上市)に鉱山を開発し、野呂景義の設計と指導の下、1900(明治33)年に和賀仙人製鐵所で12t木炭高炉の操業に成功しました。日本では希少な低リンの赤鉄鉱を産出していたため、良質な銑鉄が生産できました。1903(明治36)年の内国勧業博覧会や翌年のセントルイス万国博覧会で2等賞を獲得し、陸海軍工廠に納入していました。釜石とともに民営の製鉄所として日本における原料立地の近代製鉄技術が成り立つことを実証し、先駆的な役割を果たしました。国立国会図書館所蔵

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STEP3産業化の達成期錬鉄から溶鋼の時代へ新日鐵住金株式会社八幡製鐵所所蔵1900(明治33)年建設中の東田第一高炉伊藤博文侯爵、井上馨伯爵、九州財界の重鎮・麻生太吉(麻生太郎財務大臣の曾祖父)ら明治日本の産業革命を主導した人々が一堂に会しました。鋼材国産化の使命を担い、官営八幡製鐵所が1901(明治34)年に創業しました。鋼の時代の国際競争力を持つ銑鋼一貫製鉄所として、ドイツの最新技術と釜石の経験を活かしましたが、やはり操業トラブルに悪戦苦闘しました。八幡でもまた先人たちの努力と英知を結集し、困難を乗り越えて操業の安定化を実現しました。これにより、日本は幕末からわずか50年余りで、非西洋諸国で唯一、産業革命をけん引した西洋の製鉄・製鋼技術の導入に成功したのでした。

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526世紀後半、欧米では「錬鉄の時代」から「溶鋼の時代」19に転換していきました。この変化に敏感だったのが日本の陸海軍で、明治10年代(1877~86年)から積極的に製鋼技術の導入に取り組んでいました。政府は海軍製鋼所の設立を帝国議会に提議しましたが、否決されました。しかし農商務省による製鐵所新設の検討は認められ、1892(明治25)年から相次いで調査組織が設立され、具体的な検討が進められていきました。農商務省への移管の背景には、大型船の建造や鉄道の建設が急ピッチで進み、輸入鋼材が急増し、国家財政を圧迫していた事情がありました。日清戦争による鉄国産化の重要性の認識がさらに強くなり、製鐵所設立建議案が1895(明治28)年、第8回帝国議会で可決されました。さらに翌年、製鐵所設立予算案が協賛されるとともに、製鐵所官制が公布され、農商務省所管製鐵所が発足しました。製鐵所は立地箇所にちなんで後日、官営八幡製鐵所と通称されるようになりました。最高技術責任者の技監には、設立計画を起案した東京帝国大学教授の野呂景義がふさわしいと考えられていました。しかし東京市水道鉄管事件に巻き込まれたため、技監人事は白紙に戻され、大島高任の長男で銅製錬の専門家であった大島道太郎が任命されました。立地は防御、輸送、原料供給、工場用水、労働力、資材調達、製品販売の観点から検討されました。なかでも石炭の確保が重視され、筑豊エリアに近く、海に面したのどかな村であった八幡に建設することを1896(明治29)年に決定しました。原燃料を安定的に確保するため、鉄鉱石は低リンの赤鉄鉱を産出あかたにする赤谷鉄山(新潟県)の採掘権を三菱から買収しましたが、開発が操業には間に合わない事態が予想されました。そのこだいやろ大冶鉄山を傘下に収める清国政府から磁鉄鉱売却の打診ふたせがあり、購入契約を締結しました。石炭は筑豊二瀬の炭田を買収しましたが、その決定の遅れがコークス炉発注の遅れとなり、適質なコークスを製造できない一因となりました。製鐵所の建設にあたっては、製鋼法の選択が根本的な技術課題となりました。当時の欧米では技術革新が日進月歩だったからです。1856年に発明されたベッセマー転炉は、極めて効率良く溶鋼を生産する画期的な技術革新でした。続いて1865年には平炉の発明で多様な鋼の大量生産が可能となり、1885年以降の溶鋼生産は錬鉄を上回るようになりました。溶鋼からつくられた鋼材は、リンが低い限りにおいては錬鉄に比べて強度がほぼ2倍のうえ、均質であることから、構造材料としての特性に極めて優れていたためでした。それまで銑鉄は原料立地、鋼の生産・加工は消費地立地で別々の離れた場所で行われていましたが、1880年代になるとドイツで銑鋼一貫製鉄所が建設され始めました。そこで官営八幡製鐵所ではベッセマー転炉と平炉を併設した銑鋼一貫方式が採用されました。1899(明治32)年旧本事務所周辺の様子初代本事務所は、中央にドームを持つ左右対称形の赤煉瓦建造物で、長官室や技監室、外国人顧問技師室などが置かれました。新日鐵住金株式会社八幡製鐵所所蔵

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ドイツ技術の導入秘話もっと知りたい!製鉄・製鋼技術の歩み⇒P33-34をチェックSTEP3◉産業化の達成期1896(明治29)年海外鉄鋼視察団を派遣新日鐵住金株式会社所蔵後列左から香村小録(釜石鉱山田中製鐵所技師長)、小花冬吉(官営八幡製鐵所技師)、前列左から安永義章(同技師)、大島道太郎(同技監)、高山甚太郎(同技師)初代技監の大島道太郎は、製鐵所の実行計画の策定と設備機器を調達するため、アメリカ、イギリス、フランス、ベルギー、ドイツ各国の製鉄関連施設を視察し、ドイツでは母校のフライベルク鉱山学校に立ち寄りました。フライベルク鉱山学校には1873(明治6)~1914(大正3)年の間、44人もの日本人学者・技術者が留学し、鉄冶金学の世界的権威であったアドルフ・レーデブーア教授にも学び、野呂景義や今泉嘉一郎ら、のちに製鐵所の立ち上げに関わる人材が輩出されました。欧米を視察し、米独両国の鉄鋼業が進んでいることを目の当たりにした大島道太郎は、少品種大量生産のアメリカに対し、日本の需要構造によく似た多品種大量生産のドイツを技術導入元として選び、恩師レーデブーア教授に相談したうえ、師の働きによりGHH(グーテホフヌンクスヒュッテ)社と交渉することができました。鉄鋼メーカーは鋼材を生産・販売することによって収益を確保する事業体であり、製鉄所建設の計画策定や操業技術の供与といったソフト販売だけでは多くの対価を期待できないため、貴重な人材を派遣してまでライバルを育てる技術輸出を行う動機は本来ありません。GHH社は日本への協力について積極的ではありませんでしたが、製鉄所建設に必要な中核設備を製作できる機械メーカーでもあったため、収益機会は設備機器や建屋の販売によって十分確保できると判断したものと思われます。こうした欧米視察によって、製鐵所の設立案は変更されました。当初案では銑鉄生産4万t、鋼材生産6万t、投資予算409万円で、鋼材生産の中には錬鉄も含まれていました。これに対して、大島技監の計画原案つなしろうに基づいて、和田維四郎製鐵所長官は、①設立案検討時より急速に鋼材需要が拡大していること、②技術進歩により転炉と平炉による鋼材で従来の錬鉄材を代替できるため、錬鉄製造設備は設置しないこと、③輸入鋼材に打ち勝つためには規模によるコスト低減が重要で、複雑な工程を必要とする兵器用鋼材は当面るつぼ鋼鋼材にとどめ、製鐵所は一般鋼材の生産に集中すべきと考え、生産規模は銑鉄生産24万t、鋼材生産18万tと見直しました。実行上2期に分けて、まず前期分として銑鉄生産12万t、鋼材生産9万tの設備を建設するため、予算は当初の倍を超える規模が必要となりました。この和田長官の意見書に基づく追加予算案を議会は協賛し、総投資額1,057万円の製鐵所を建設することに修正されました。27工場建築の原点新日鐵住金株式会社八幡製鐵所所蔵1900(明治33)年修繕工場製鐵所で使用する機械の修繕、部材の製作加工などを行う目的で、GHH社の設計と鋼材を用いて建設された鉄骨建造物。鋼材生産量の増大に伴って3回増築され、海外の技術導入から国産化に至る技術の発展過程を示しています。1900(明治33)年旧鍛冶工場製鐵所建設に必要な鍛造品の製造を行う目的で、修繕工場と同様、GHH社の設計と鋼材を用いて建設された鉄骨建造物。製鐵所の拡張工事により増築され、1917(大正6)年に現在地へ移築されました。新日鐵住金株式会社八幡製鐵所所蔵北九州市所蔵

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6281901(明治34)年2月、第一高炉の火入れが行われ、製鐵所は操業を開始しました。操業にあたってドイツ人技師を独自に雇い入れるとともに、技術者をドイツのGHH社や釜石の田中製鐵所から迎えました。ただし製鋼以降の工程は未完成で、作業の習熟を目的とする試製の位置づけで始まりました。製鋼や圧延の設備がある程度完成した同年11月、農商務大臣の主催で要人を集めて作業開始式が執り行われました。操業開始後は数々の初期トラブルに見舞われました。ドイツの最新技術を導入したものの、当初コークス炉がなく、使用した鉄鉱石や石炭の質も西洋のものと異なっていました。高炉の操業は高コストで、製鋼以降の工程も不調で鋼材が思うように製造できませんでした。生産量が目標の半分に満たない状態が続くなか、鋼材の製品化は思うに任せず、資金予算が不足する事態が見込まれました。そのため最もコストのかかる高炉を1902(明治35)年7月に停止し、銑鉄在庫と購入した釜石銑を使って平炉と圧延工場で生産を続けました。1904(明治37)年2月に日露戦争が始まり、4月に高炉の第2次火入れを行いましたが、わずか17日で操業を休止しました。この事態に対して、製鐵所は鉄冶金分野の第一人者であった野呂景義に、第2次火入れの失敗の対策と第3次火入れの指すすむ揮を嘱託しました。野呂は教え子でもある製鐵所の服部漸技師の報告書などに基づいて、高炉の部分的な改造や三池炭を調合したコークスの製造などの対策を実行しました。そして7月に第3次火入れを行った結果、第一高炉は安定的な操業を維持することが可能となりました。さらに1905(明治38)年には、炉体の小型化と形状を変更した第二高炉が順調に立ち上がり、優れた操業成績を残しました。西洋とは異なる性質の鉄鉱石や石炭を活かす方針のもと、日本人技術者の手で設計の見直しと改造によって高炉の操業は安定化し、鋼材の生産も設備機器の充実によって、次第に軌道に乗りました。第一高炉の初期操業の不調や火入れの失敗について、海外技術の導入における国内資源との適合化の観点から考察すると次のような問題を指摘することができます。一つはコークスの問題です。本格的なコークス炉の発注遅れや、大型高炉に必要とされるコークスのサイズや強度に関する認識をおろそかにし、そのための選炭・炭種別配合などの製造技術を軽視す

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1910(明治43)年官営八幡製鐵所の全景英知を結集し、自主技術を確立新日鐵住金株式会社八幡製鐵所所蔵『熔鉱炉調査概報』野呂景義炉内の温度をより高温に保つため、高炉の形状を改良し、操業方法の改善を行うとともに、本格的なコークス炉を竣工するなど、日本人技術者たちの英知を結集して、最新のドイツ技術を使いこなす日本独自の生産技術を創造しました。STEP3◉産業化の達成期るなど、いくつもの食い違いがありました。もう一つは鉄鉱石の問題です。製鐵所は赤鉄鉱と磁鉄鉱を併用する計画でしたが、赤谷鉱山の赤鉄鉱を確保できれば焼鉱は不要となるため、焼鉱炉の導入をいったん取りやめました。しかし1906(明治39)年からの第1期拡張工事で焼鉱炉を設置しました。赤谷鉱山の開発を断念し、磁鉄鉱である中国の大冶鉄鉱石を主原料としたことが影響したものと思われます。新日鐵住金株式会社八幡製鐵所所蔵銑鋼一貫製鉄所という技術的に高度で大規模複合的なプラントをドイツから調達し、その技術を直訳的に導入することにはかなりの無理がありました。しかし、急速に拡大する鋼材需要を前にして追加投資も可能となり、また何よりも日本人の人材が育っていたことが、さまざまなトラブルに見舞われながらも、日本人自らの手で克服していくことを可能にしました。新日鐵住金株式会社八幡製鐵所所蔵おんががわ1910(明治43)年遠賀川水源地ポンプ室製鐵所第一期拡張工事に伴う工業用水を確保するため、八幡から11.4km離れた遠賀川沿いに設置された取水・送水施設。外観は明治建築の典型的な煉瓦建造物ですが、動力を蒸気から電気に替え、ポンプも一新して、現在も重要設備として稼働しています。野呂景義1854(嘉永7)~1923(大正12)年日本最初の工学博士。ロンドン大学、フライベルク鉱山学校に留学し、鉄冶金学を修めました。帰国後に東京帝国大学教授と農商務省技師に就任。製鉄事業の調査、官立製鉄所設立の計画に従事し、釜石鉱山田中製鐵所のコークス高炉挑戦の操業指導や錬鉄試製、ならびに官営八幡製鐵所の高炉改良にもあたりました。1915(大正4)年日本鉄鋼協会を創立し初代会長に就任するなど、草創期の日本鉄鋼界に大きく貢献しました。日本の風土に合わせた改善の担い手を育てる近代の生産技術は、より専門的な技術知識と高度な技能を持つ現場の担い手を必要とします。官営八幡製鐵所では、鉄づくりの現場で働く技能集団としての職工を育成するため、1910(明治43)年に幼年職工養成所を設置しました。所長は東田第一高炉改善の現場を指揮し、のちに技監となる服部漸が兼務し、教授陣には現場第一線の幹部技術者を動員、製鉄技術の教科書もつくられました。さらに日常作業を円滑に遂行するため、鉄鋼用語の統一的な手引書『独英和・英独和製鉄用語字彙』が1916(大正5)年に完成しました。これによって鉄鋼の技術と科学への理解がさらに深まり、技師だけでなく職工も日本の風土に合わせた改善の担い手となり、自主技術を確立していきました。製鐵所の拡張旺盛な鋼材需要に応える鋼材を生産することは品質や数量などを含めた総合的な生産管理が求められます。銑鉄は基本的には1種類ですが、製鋼は6種類、圧延は形状まで含めると100種類を超え、鋼種×形状では数百種類にも及びます。さらに加熱炉やボイラーなどへの熱エネルギー、照明やクレーン、工作機械を動かすための発電、冷却や洗浄のための工業用水の確保など、鋼材生産を支える間接的な技術も求められます。官営八幡製鐵所は高炉操業が安定化すると1910(明治43)年には鋼材年間生産量が当初案の6万tに対し15万tを超え、総合的な生産管理体制を整えながら拡張工事を続け、旺盛な国内需要に応えていきました。29

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世界遺産としての価値日本と西洋の技術が独創的に融合30治日本の産業革命遺産に登録されている製鉄・製鋼に明関する資産群には、西洋の産業革命技術を導入するために乗り越えなければならなかった課題を克服していった軌跡が刻まれています。木炭高炉法による製鉄技術(溶銑の時代)を経て転炉・平炉法による製鋼技術(溶鋼の時代)に至るまで、西洋が500年の歳月をかけて培った産業革命技術を、日本はわずか50年余りで導入することに成功しました。19世紀後半、非西洋世界で唯一、西洋の製鉄・製鋼技術が極めて短期間に移植されたことは歴史上、稀有な出来事でした。産業革命当時のイギリスには、富の蓄積と巨大な鉄製品の需要がありました。そして高炉操業に適した鉄鉱石と石炭を欧州で最も多く保有し、製鉄・製鋼技術の発明に挑戦する人材に満ちていました。一方、日本は鉄鉱石、石炭共に乏しく、民間資本も限定的で、産業革命をけん引した技術の成立条件として必ずしも恵まれていませんでした。しかし外来文化を柔軟に受け入れる伝統と風土がありました。日本の鉄づくりは、古代にも中国大陸や朝鮮半島から輸入された鉄の効用を知り、その技術を導入しようとした歴史があります。このときは大陸で使われていた塊鉱石が日本に乏しかったため、たちまち枯渇し、代わりに粉鉱石である砂鉄を用いた独自の製鉄技術たたらが開発されました。還元しにくい磁鉄鉱を粉状で使うことで還元しやすくするという独創技術を生み出しました。人類は古来より異なる文明技術の交流と融合によって発展してきました。明治日本の産業革命遺産に登録されている製鉄・製鋼に関する資産群もまた、そのことを示す普遍的な価値を持っています。西洋固有の科学技術と、たたらなどの日本伝統の匠の技が融合することで、西洋の延長線上にない独自技術が醸成され、日本の近代製鉄の礎が築かれました。その結果、191(0明治43)年には日本国内の銑鉄の67%、鋼材の91%を生産できるようになり、日英博覧会ではメイドインジャパンの鋼材が評価され、世界から産業国家として認知されました。近代製鉄技術によって日本は、産業国家としての発展を加速させました。1901(明治34)年に官営八幡製鐵所で生産が始まった鉄道レールは、鉄鉱石のリンが高いことで強度の確MadeinJapanものづくり日本が世界に認知された新日鐵住金株式会社八幡製鐵所所蔵1910(明治43)年ロンドンの日英博覧会に出展官営八幡製鐵所が出展し、日本の製鉄・製鋼技術の水準の高さを示すことで、日本が産業国家として欧米諸国に認知されるようになりました。

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保に苦しみましたが、独自の傾動式平炉などの製鋼技術を開発しました。これにより、品質が向上するとともに自給率が高まり、1930(昭和5)年100%国産化を達成しました。また1909(明治42)年に八幡の鉄を用いて製鐵所自身の設計による鋼構造の工場建屋が所内に完成すると、国産鋼材による鉄骨建造物の建設が普及し始めました。1914(大正3)年竣工の東京駅では鉄骨の半分以上、1936(昭和11)年竣工の国会議事堂の全ての鉄骨鋼材が、官営八幡製鐵所で生産されました。しかし鉄鋼生産量の欧米との差は余りにも大きく、1930(昭和5)年時点でアメリカの5%程度、イギリスやドイツの20~30%程度に過ぎませんでした。生産量が増加するにつれて、欧米に比べ質量共に不利な鉄鉱石と石炭の使用という資源制約の壁が立ちはだかりました。これに対して、砂鉄を原料とする角炉の開発、砂鉄の団鉱化による高炉使用(室蘭)、硫酸焼鉱や砂鉄などの焼結鉱原料の利用など、西洋にない粉鉱石の実用化に向けてさまざまな技術的な挑戦が行われました。第2次世界大戦後、それら日本の技術的な挑戦が花開きます。まず自由な貿易が可能となると、リンが低く、高純度のBIF鉱石を海外から大量に輸入できるようになりました。これら良質の鉄鉱石の産出元で従来利用できず放置されていた粉鉱石を、日本は独自技術で焼き固め、自溶性焼結鉱として高炉原料に活用する道を切り拓きました。こうして製造された銑鉄はリンが低く廉価で、溶銑を大量使用するLD転炉が、スクラップ大量使用の平炉に劣らない高品質鋼の効率的で経済的な生産を実現しました。日本の鉄鋼生産技術は、自溶性焼結鉱を大量に使用する高炉とLD転炉を基軸にした製鋼プロセスからなる臨海型銑鋼一貫製鉄という世界の鉄鋼生産を革新する新しいスタンダードを築き上げました。そして21世紀においても、世界の持続可能な製鉄・製鋼の発展を支え続けています。鉄が日本人の心を一つに結んだ株式会社大林組/鉄道博物館所蔵1911(明治44)年東京駅駅舎の建設工事鉄骨が組み上がった状態。鉄骨は官営八幡製鐵所製のほか、イギリスやアメリカからの輸入鋼材が使われ、使用量は約3,500tにのぼりました。京都鉄道博物館所蔵1927(昭和2)年国会議事堂の鉄骨組立全景1920(大正9)年に着工され、17年の歳月をかけて完成。鉄骨構造の設計施工は官営八幡製鐵所のかげやまひとし景山齊が責任者となり、9,800tにのぼる膨大な鋼材を供給しました。1911(明治44)年官営八幡製鐵所製造のレール当初は製造面においてトラブルが絶えず、品質も良くはありませんでしたが、1910(明治43)年ごろから質量共に生産が安定し始めました。このレールは国産品質の向上を示しています。出典:『帝国議会議事堂建築報告書』(昭和11年・大蔵省営繕管財局編纂)世界遺産としての価値31GHH銘(左)とYAWATA銘の鋼材撮影:内山英明/一般財団法人産業遺産国民会議所蔵

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製鉄・製鋼技術の歩み製鉄とは何か?鉄鉱石から銑鉄をつくる技術地球上にある鉄は、金属鉄は隕石のみで、主に酸素と結合した化合物の鉱石として存在しています。そのため鉄づくりは鉄鉱石に含まれている酸素を取り除くことから始まります。この酸素を除去することを還元といいます。還元反応は木炭やコークスが燃焼して生成される一酸化炭素や高温下での炭素の働きによって行われています。このように鉄鉱石から金属鉄をつくり出す技術を製鉄と呼んでいます。出典:VannoccioBiringuccio『DeLaPirotechnia』塊鉄炉(古代〜中世)400℃以上に熱すれば、鉄を固体のまま還元することができます。高温の塊となった鉄を炉から取り出し、ハンマーで叩いて炭や脈石などの不純物を取り除きながら鍛打成形して、武器や農具をつくっていました。直接製鉄法と呼ばれ、日本では伝統的な製鉄技術たたらがこれに相当します。32コークス高炉(近代)木炭高炉の増産で森林が枯渇し、その打開策としてイギリスで18世紀に開発されました。コークスの高い強度と火力で高炉は大型化し、生産性が改善されました。さらに送風機の開発、熱風炉の発明で産業革命が必要とする銑鉄の旺盛な需要を支えました。日本では西洋のような良いコークスにできる石炭が乏しく、当初の技術導入に苦労しました。出典:C.ネトー著、野呂景義訳『涅氏冶金学』(文部省編輯局)出典:DenisDiderot『L'Encyclopédie』木炭高炉(中世)14世紀ごろに現在のドイツ・ライン川流域で開発されました。水力(水車)を利用して、ふいごで空気を高炉内に強く送風できると高温になり、金属鉄生成からさらに還元が促進され、浸炭して溶融銑鉄が製造できました。溶銑は比重が大きいため、高炉最下部に穴を開ければ流し出すことができ、連続操業が可能となり、生産性が高まりました。日本では橋野鉄鉱山や官営釜石製鐵所で技術導入されました。鉄と鋼の基礎知識銑鉄用溶解炉煙突屋根のぞき窓(方窓)反射炉(18世紀後半)15世紀に発明された当初は木炭を燃料にして青銅の鋳造を主体に発展しました。鉄の溶融温度が銅とスズの合金金属より高いため、長らく銑鉄には使えませんでした。しかし木炭から石炭へと転換することで火力が高まることで銑鉄の溶融が可能になり、18世紀後半イギリスでは蒸気機関のシリンダーや大砲など大型鋳物製品に適した鋳鉄がつくれるようになりました。空気の流れ熱の流れ溶解室(填所)出湯口(注孔)地表面幕末から明治にかけて日本の覚醒に寄与した西洋の製鉄・製鋼技術は、どのように発達してきたのでしょうか。その歩みを見てみましょう。反射炉の断面図

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鉄と鋼の基礎知識製鋼とは何か?鋼をつくる技術鉄は炭素の含有量によって性質が変化し、硬さと粘り強さ(強靭さ)を兼ね備えるつくり込みができます。産業革命期にはパドル炉が発明され、石炭の高火力で溶融した銑鉄をかき混ぜて、空気で酸化除去し、炭素含有量の低い鉄を製造できるようになりました。このパドル鉄が産業革命期の鉄の主体になりました。パドル鉄は炭素含有量による現在の区分では低炭素鋼に相当する鋼ですが、現代の鋼と異なり完全に溶融できなかったため、均質性に限界があります。しかし1740年、るつぼ炉が発明されると、工具鋼などの高炭素高級鋼ができるようになり、19世紀半ばにはパドル炉よりさらに高温の溶鋼状態で効率的に精錬する転炉、平炉の技術が開発され、錬鉄よりも強靭な鋼を大量につくり出せるようになりました。九州大学総合研究博物館所蔵パドル炉の模型パドル炉(1784年)反射炉に窓を設置し、その窓からパドル(櫂)を入れて溶融銑鉄を人手で撹拌(パドリング)すると溶銑の炭素が減り、粘り強い半溶融状の錬鉄がつくれるようになりました。溶鋼用溶解炉新日鐵住金株式会社所蔵るつぼ炉(18世紀後半)イギリス・シェフィールドでの溶鋼用るつぼ炉操業の様子です。錬鉄などをコークスと共にるつぼ炉の中で加熱することで溶融した鋼をつくり、鋳型に鋳造しています。明治期の東京海軍造兵廠ではシェフィールドにも倣いコークス溶鋼炉を築造しました。海軍技師であった向井哲吉は、のちに官営八幡製鐵所の特殊鋼(るつぼ鋼)技術の指導者になりました。平炉(1865年)ウィリアムとフレデリックのシーメンス兄弟が開発した蓄熱切替法を、エミールとピエールのマルチン父子が反射炉の高温化に応用し、くず鉄と一部銑鉄を原料とした製鋼炉として、シーメンス・マルチン平炉を開発しました。転炉に比べて設備費が安く、反応がゆっくり進むことから操業しやすい一方、反応時間に約10時間(1960年代には約3時間まで短縮)も要したため、1960年代以降、現代製鋼法のLD転炉の普及とともに姿を消していきました。なおLDとは最初に工業化した2工場の頭文字です。出典:齋藤大吉著『金属合金及其加工法中巻』(丸善)新日鐵住金株式会社八幡製鐵所所蔵ベッセマー転炉(1856年)傾動可能な筒型の炉(転炉)に、高炉でつくられた溶銑を入れ、下部から空気を吹き込んで銑鉄中の炭素やケイ素を燃焼させて脱炭します。パドル炉では燃料として莫大な木炭や石炭を必要としていたのに対して、ヘンリー・ベッセマーが発明した転炉は空気を酸化剤として溶銑中の炭素やケイ素を燃焼させるだけ。精錬時間は約20分と速く、完全に溶融した鋼鉄を均質に効率良くつくることができました。ただし銑鉄中のリンや硫黄は除去できない欠点があり、銑鉄中のリンや硫黄は制限されました。欧州では低リン鉱石が乏しいなか、当初イギリス主体で生産していましたが、低リン鉱石が豊富なアメリカで積極的に採用され、19世紀後半にはアメリカが世界の製鉄中心地となりました。さらに20世紀後半、空気を酸素に変えたLD転炉に発展しました。33鉄とは何か?鋼とは何か?炭素含有量で呼び名が違う種類銑鉄CastIron鋼Steel炭素含有量2.1%以上0.02~2.1%近世までIron(鉄)とSteel(鋼)の区別はなく、鉄と呼んでいました。現代の金属学では、炭素含有量の違いによって純鉄、鋼、銑鉄(鋳鉄)と区分しています。鉄の歴史を検討するときには、鋼と鉄の呼称が時代によって違っていることがあるので注意が必要です。鋳鉄銑鉄を溶かし、鋳型に入れて固めた鉄。炭素含有量が2.1%以上と多いため、硬くて脆いものの、複雑な形状をつくりやすい特性があります。現在も自動車のエンジン部品などに広く使われています。錬鉄パドル炉から取り出した半溶融錬鉄を繰り返し鍛錬することにより炭素や不純物を除いた低炭素鋼。炭素含有量が約0.2%と極めて少なく、軟らかく粘りがあります。鍛錬では不純物の完全除去はできないので均質性に劣ります。鋼現代の工業用鉄類の分類では、固溶炭素量が0.02~2.1%の軟鋼から焼き入れ可能な硬鋼までの鉄の総称として用いています。炭素のほかにマンガン、クロム、ニッケル、ケイ素などの合金元素量で鋼の性質が決まります。合金添加が盛んになったのは産業革命以降です。昔は硬く焼き入れが可能な高炭素鋼の呼称で、軟鋼は鉄と呼ばれていました。

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日本古来の製鉄技術たたらけら砂鉄(粉鉱石)をたたら炉で木炭を用いて還元し、直接鋼をつくる鉧ずく押し法と、主に銑をつくる銑押し法の2通りの製法で、鉧(鋼)、銑(銑たまはがねぶけら鉄)をつくり分けていました。鉧は玉鋼、歩鉧などの集合魂(右下図)で、鉧から取り出した玉鋼は叩いたり延ばしたり鍛えて、焼きを入れて硬くすることができ、日本刀などに用いられました。銑は鋳物とさげがねしてそのまま使用されるだけでなく、大鍛冶炉で左下鉄(炭素固溶量約1%)にされ、歩鉧を加えて加熱鍛打し、炭素含有量をさらに約0.2%まで減らした包丁鉄にされ、釘や農工具などの道具素材に用いられていました。西洋の塊鉄炉はルッペ(鉧相当)製造が主で銑鉄は捨てられていましたが、たたらでは銑鉄は捨てらることなく活用されました。異なる材質の玉鋼と包丁鉄を鍛接して優れた刀をつくるなど、鉄の個性を徹底的に活かしてきました。●たたら吹きでできる鉄素材砂鉄木炭銑押し法鉧押し法たたら銑鉧銑鉧大鍛冶場鋳物銑左下鉄包丁鉄歩鉧玉鋼玉鋼歩鉧(大鍛冶用素材)玉鋼ノロ・木炭大割下銑34島根県安来市和鋼博物館所蔵鉧押し法でできた鉧鉧塊の製造を目的とした操業法ですが、銑が同時に生成します。塊の構成は不均一で玉鋼、歩鉧(比較的低炭素の鋼)や銑鉄の不均一集合体で、これを鉧割りして用途別に選別されます。和鉄の鉄素材ができるまで画像:『先大津阿川村山砂鉄洗取之図』東京大学工学・情報理工学図書館工3号館図書室所蔵鉧の構造かんななが砂鉄採取(鉄穴流し)土砂混じりの濁水を水路へ流して軽い土砂と分離し、重い砂鉄を採取しました。木炭生産山奥から木を切り出し、製鉄場に近い場所で木炭を焼きました。砂鉄は約28km、木炭は約12kmより遠くから運ぶと輸送費用が高くなり採算が合わないため、「こがすみね七里に炭三里」と言われました。鉄と鋼の基礎知識産業革命をきっかけに、日本の鉄づくりは古来のたたらから、世界最高水準の最先端技術力を誇るまでに変貌を遂げました。鉄素材生産(たたら炉)鉧押しでは6人が3日間3交替で天秤ふいごを踏んで空気を送り、たたら炉の様子を見ながら原料の量や挿入間隔、送風量を変えていました。鉄素材生産(大鍛冶炉)銑鉄を下げ場で左下鉄にしたのち、本場で左下鉄に歩鉧をつち加えて再度木炭で加熱し、鎚で叩いて不純物の除去や炭素含有量の調整を行い、包丁鉄(割鉄ともいう低炭素鋼)にしました。鉄素材生産(針金製造)大鍛冶でつくった包丁鉄(割鉄)を加熱して叩き延ばします(左)。さらに冷やしたまま引き延ばして針金を製造しました(右)。

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現代の鉄づくり鉄と鋼の基礎知識高炉は鉄鉱石を還元して溶銑(溶けた銑鉄)をつくる装置です。それでは一体どのように鉄鉱石から銑鉄が生まれるのかを説明してみましょう。まず高炉の頂炉部から鉄鉱石類とコークスを交互に層状に入れ、下部の送風羽口から熱風を吹き込みます。熱風によりコークスが燃焼しガス化して、一酸化炭素の還元ガスを発生させます。還元ガスは上昇気流となって炉内を吹き昇り、炉内を下降する鉄鉱石から酸素を奪い取っていきます。溶けた鉄分はコークスの炭素と接触して、さらに還元され、炭素を約4%含む溶銑となって炉底に溜まります。銑鉄は出銑口から取り出され、ラグビーボールのような形をしたドーピードカーで、転炉へと運ばれていきます。画像:新日鐵住金株式会社所蔵●銑鉄ができるまで鉄鉱石塊鉱石粉鉱石石灰石石炭焼結機コークス炉ダイナミックで繊細な現代の製鉄・製鋼プロセス高炉で生産された溶銑は、転炉で成分を精錬して溶鋼をつくり、ある一定形状の鋼片として冷却し固めていきます。たとえ微小であっても鋼片に介在物が含まれていると、優れた品質の鋼材をつくることができません。トン単位のダイナミックな鉄づくりには、ミクロン単位を制御してつくり込んでいく繊細な技術が共存しています。銑鉄を製鋼工場へ運ぶ高炉焼結鉱コークス高炉現在使われている鉄鉱石はオーストラリアやブラジルなどから輸入され、高炉直接使用の塊鉱石は少量で、5㎜以下の粉状の粉鉱石が主体となっています。産地も性質もばらばらな粉鉱石の配合をしてブレンドし、焼き固めて還元しやすい焼結鉱に事前処理しています。高度経済成長期、それまで主原料だった塊鉱石から、粉鉱石を人工の塊鉱石として使えるようにしたのは、西洋技術と融合し発展した日本の技術でした。35転炉高炉からの銑鉄を転炉に入れ、炭素成分を調整し不純物を取り除き、必要に応じて合金元素を添加して、粘り強い鋼材となる溶鋼をつくります。19世紀半ば溶銑に含まれる炭素やケイ素を燃やして脱炭するベッセマー転炉を原型として、現代は酸素吹き込み転炉へ改革され、効率的なLD転炉の製鋼技術に進化を遂げました。連続鋳造溶鋼は固められて鋼片となり、さまざまな鋼材の半製品となります。連続鋳造では溶鋼が固まる前に介在物を取り除きます。微細な介在物を除去することで、曲げても割れない加工性に優れた鋼材を生み出すことができます。圧延圧延はうどん粉を麺棒で薄く平らに延ばす原理と似ています。加熱した鋼片をロールで上下にはさんで押し延ばし、最終的に1.2㎜まで薄くする熱間圧延では船やビルに使われる厚板などがつくられます。熱間圧延後、さらに常温で1㎜以下に薄くする冷間圧延では、クルマの車体や飲料缶に使われる薄板などがつくられています。鉄鋼製品鉄は強いものの、“重くて、硬い”というイメージを持っているかもしれません。しかし“軽くて、軟らかい”鉄もあり、用途に応じて多種多様な性質や形状の鉄鋼製品がつくられています。鉄は変幻自在に姿を変え、私たちの社会や暮らしを支えています。

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現代の私たちの暮らしと社会を支え続ける鉄鉄は現在、最も広く利用されている“金属の王様”です。金属素材は自動車やビル、鉄道、船舶、橋梁などに使われている材料の約半分を占めています。その金属素材のうち95%を鉄が占めています。まさに鉄は空気や水のようになくてはならない存在です。今までも、これからもずっと、私たちの暮らしと社会を支え続けていきます。船舶耐食性に優れた厚鋼板が原油タンカーに使われ、油漏れを防ぎ海洋環境を守っています。橋梁吊橋の命であるメインケーブルに超高強度ワイヤ(鋼線)が使われています。明石海峡大橋では直径約5mmのワイヤ総延長が約30万km(地球7周半相当)に達しました。パイプライン天然ガスや都市ガスを届けるエネルギー動脈に高機能鋼管が使われています。新日鉄住金エンジニアリング株式会社所蔵36貯蔵タンクLNGなどのエネルギーを溜める貯蔵タンクに高機能鋼材が使われています。新日鐵住金株式会社所蔵新日鐵住金株式会社所蔵海底油田・ガス田開発掘削・生産設備に強靱な高張力厚鋼板が使われ、エネルギーを安定供給しています。新日鐵住金株式会社所蔵火力発電所高温高圧に耐える高機能鋼材が発電所設備に使われ、電力を安定供給しています。鉄と鋼の基礎知識ありとあらゆるところで、鉄は活躍しています。家電快適な暮らしに欠かせない各種家電製品に薄鋼板が多く使われています。

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鉄と鋼の基礎知識缶詰・缶飲料スチール缶は旬のおいしさのまま中身を長期間保存でき、使用後は製鋼原料として何度でもリサイクルされています。鉄道レールや台車、車輪、車軸に高機能鋼材が使われ、安全運行を足元から支えています。高層ビル地震に強く、溶接性を向上させた厚鋼材が、高層大型化が進む建物づくりを支えています。37新日鐵住金株式会社所蔵護岸堤防や岸壁の基礎構造に鋼板や鋼管が使われ、豪雨や津波の災害から街を守っています。新日鉄住金エンジニアリング株式会社所蔵スタジアム軽くて強い鋼材が広く美しい大空間のフィールドを生み出しています。東京スカイツリー®縦・横・斜めに立体的に張り巡らされた最高水準の設計強度を誇る鋼管が、高さ634mの世界最大の自立式電波塔を支えています。株式会社大林組所蔵自動車車体や部品の安全性と軽量化を両立する高張力鋼板が、環境にやさしい魅力ある車づくりに貢献しています。

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もっと強くしなやかに、未来を切り拓く鉄現在の鉄鋼材料の最高強度は、鋼の理想強度の4分の1~5分の1程度と言われています。鉄は無限の可能性を秘めた金属なのです。鉄鋼メーカーでは鉄が本来持っている機能を十分に引き出すための研究開発が進められています。これからも鉄はもっと強くしなやかに、多彩な魅力を放ちながら、宇宙や海洋の利用、エネルギー革命、都市機能の高度化などを促し、フロンティアが切り拓かれていくことでしょう。次世代エネルギー源を生み出す超伝導コイル用導体世界7極(日・欧・米・露・中・韓・印)が参加する国際熱核融合実験炉の主要機器である超伝導コイル用導体。核融合実用化への道を切り拓くため、英知が結集されています。新日鉄住金エンジニアリング株式会社所蔵大型ヘリカル装置海水中に含まれる物質から無限のエネルギーを取り出す核融合は、世界の研究者たちが長年追い求めてきた技術。夢の実現に向けて日本で研究が続けられています。38撮影:西澤丞/撮影地:核融合科学研究所鉄と鋼の基礎知識鉄はさらに進化を続けていきます。しかおい水素ファーム®地産地消型の水素社会構築に向けて、北海道十勝地区では家畜ふん尿由来の水素を活用した水素サプライチェーンの実証(環境省委託事業)が行われています。水素インフラの構築に向け鉄の技術が貢献しています。日鉄住金パイプライン&エンジニアリング株式会社所蔵

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鉄と鋼の基礎知識大海原に乗り出す砕氷LNG船北極海は未発見天然ガス資源の30%、石油資源の13%が存在すると言われる資源の宝庫。北極圏エネルギー資源へのアクセスの重要性を増すなか、砕氷LNG船によるエネルギー輸送が始まります。株式会社商船三井所蔵宇宙科学を究める宇宙開発鉄づくりをはじめ日本のものづくりを結集した宇宙探査技術力の駆使によって、宇宙科学の発展を促すミッションの成功に期待が寄せられています。海洋研究開発機構所蔵海底に広がるコバルトリッチクラストレアメタルやレアアースは鉄に加えることで強度を高めたり、さびにくくする働きがあります。そのレアメタルやレアアースが、小笠原諸島・南鳥島周辺の海底に広く分布していることがわかりました。日本のものづくりを支える資源として期待されています。39KAGRA超高真空ダクト重力波による時空のひずみを観測する望遠鏡KAGRAで、アインシュタインの予言から100年あまり実現されなかった重力波の観測を可能にし、新しい天文学の道を切り拓いていきます。東京大学宇宙線研究所重力波観測研究施設所蔵JAXA所蔵新たなシンボルをつくる東京駅前常盤橋プロジェクト2027年完成を目指し、JR東京駅北側に高さ約390mに及ぶ日本一の高層ビルが建設されます。東京駅周辺の街並みは世界的な金融集積地域に変貌を遂げようとしています。リニア中央新幹線2027年品川・名古屋間の開業を目指して、トンネルやターミナル駅などの建設工事が始まっています。東海旅客鉄道株式会社所蔵三菱地所株式会社所蔵

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平成29年度文化庁文化芸術振興費補助金世界遺産「明治日本の産業革命遺産」ガイドブック製鉄・製鋼編鉄がわかる本2017年11月20日発行発行◉「明治日本の産業革命遺産」人材育成事業実行委員会〒160-0008東京都新宿区三栄町26-3TEL◉03-3357-6210URL◉https://sangyoisankokuminkaigi.com/監修◉加藤康子内閣官房産業遺産の世界遺産登録推進室著者◉稲角忠弘菅和彦編集・デザイン・印刷◉株式会社日活アド・エイジェンシー本書掲載の写真および図版・記事の無断転載を禁じます。

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