https://my.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/

# 船がわかる本

## Page 01
![Page 01の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-02.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

世界遺産｢明治日本の産業革命遺産｣ガイドブック造船編船がわかる本監修・著者◉加藤康子一般財団法人産業遺産国民会議専務理事著者◉国土交通省海事局防衛省海上自衛隊海上保安庁北川弘光公益財団法人笹川平和財団海洋政策研究所客員研究員田村省三株式会社島津興業常務取締役橋本州史長崎大学大学院工学研究科教授

## Page 02
![Page 02の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-03.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

世界遺産「明治日本の産業革命遺産」ガイドブック造船編船がわかる本CONTENTS02発刊にあたって一般財団法人産業遺産国民会議専務理事加藤康子発刊にあたって04帝国主義の波蒸気船の世紀世界を一変させた蒸気機関06揺籃の時代黒船来る大船建造の禁が解かれる国を守る海軍の創設を図る10OPINIONEYES幕末・明治期の造船力13STEP1試行錯誤の挑戦侍の西洋技術との出逢い1日の丸を掲げる近代国家への息吹2ロシア軍艦の遭難事件近代造船技術をもたらす18OPINIONEYES政局を左右した海上交通一般財団法人産業遺産国民会議専務理事加藤康子0220OPINIONEYES日本の海軍力が形成されるまでコラム造船技術の導入推移25STEP2西洋技術の導入志を引き継ぎ、礎を築く3舶用機械修理工場の誕生長崎製鉄所の設立4蒸気機関で大型船を引揚げる小菅修船場の建設5能力増強を図る東洋一の船渠をつくる6藩からカンパニーへ三菱の創業7造船業への本格参入長崎造船所の払い下げコラム受け継がれてきた理念イギリスの近代経営に学ぶ39STEP3産業基盤の確立造船大国日本を目指して8生産規模の拡大産業インフラを整備する9常陸丸の建造国際規格の大型船に挑む10世界水準への到達タービンの国産化に成功11長崎造船所の発展国際社会に肩を並べる48構成資産の価値52造船技術の航跡日本は幕末から明治にかけて非西洋諸国で、先駆けて産業の近代化に取り組み、半世紀余りという極めて短い期間で産業国家としての地位を確立しました。このことは世界史上において特筆すべき出来事であり、人類共通の遺産としてふさわしい普遍的な価値を有しています。日本は四方を海に囲まれた東洋の島国で、19世紀半ばまで2世紀余り続いた徳川幕府の鎖国政策により、西洋科学の情報が制限されていました。侍の科学への挑戦は、鉄製大砲の鋳造や大海原を渡る大型船の建造に挑戦することから始まります。日本の貧弱な海軍力と海運力を憂い、日本は開国と明治維新による大きな変化の痛みを乗り越え、人を育てました。試行錯誤の挑戦から西洋の造船技術を導入し、科学的実験を産業の場に活かして、何度も挫折を繰り返しながら技術のイノベーションに取り組み、海洋国家日本の礎をつくりました。「明治日本の産業革命遺産製鉄・製鋼、造船、石炭産業」における造船産業分野の構成資産群には、現代日本の繁栄の原動力となった先人たちの情熱や知恵が息づいています。この素晴らしい遺産の保全と次世代への継承に向け、本書が一助となることを祈念しています。そして造船技術が、これからも私たちの豊かな暮らしと社会を支え、日本の未来を切り拓いていってほしいと願っています。表紙三菱重工業株式会社長崎造船所

## Page 03
![Page 03の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-04.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

世界遺産｢明治日本の産業革命遺産｣ガイドブック造船編船がわかる本三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵1908（明治41）年三菱長崎造船所第三船渠に入渠中の地洋丸

## Page 04
![Page 04の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-05.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

帝国主義の波蒸気船の世紀世界を一変させた蒸気機関19世紀、蒸気機関の発明によって、世界は一変しました。蒸気機関は人力や畜力、水力、風力に替わる動力として、産業革命の原動力となりました。世界の海上輸送を担う船も、風力で航行させる帆船の時代が終焉に向かい、鉄や鋼で建造した蒸気機関で航行する蒸気船の世紀を迎えました。04気機関は1708年、イギリスのトマス・ニューコメンによっ蒸て石炭採掘に必要な坑内の地下水をくみ上げるために発明されました。それまでは馬力による揚水機が使われていましたが、莫大な労力と費用がかかっていたため、新たな動力源が求められていました。しかし、この段階では汎用的な蒸気機関としては実用に至らず、1765年にジェームズ・ワットが改良することで、工場や交通機関に利用できるようになりました。蒸気機関を船の推進力として初めて実用化したのは、アメリカのロバート・フルトンでした。ワット社製蒸気機関を搭載した外輪船クラモント号を建造し、1807年にハドソン川のオールバニー・ニューヨーク間を航行しました。それまでは川を下るだけでしたが、蒸気力と機械力で川をさかのぼることができることが証明されました。1800年代にはヨーロッパから北アメリカへの移民が盛んで、大西洋横断旅客輸送に蒸気船が利用されるようになりました。帆船で大西洋を渡ろうとすると、まず南下して貿易風に乗り、その後アメリカ東海岸沿いに北上してニューヨークに向かう遠回りのルートを取らなければなりませんでした。帆船は風向きや潮流に大きく左右されますが、蒸気船は自然条件に影響されにくく、大西洋を一気に横断することができました。1838年にシリウス号とグレート・ウェスタン号が蒸気動力だけで大西洋横断に成功すると、蒸気船は大西洋航路で帆船に替わる輸送手段として確立されました。一方、外洋での蒸気船の貨物輸送には、経済的にも技術的にも制約がありました。その最大の理由は当時の蒸気機関の燃料効率の悪さです。大量の石炭を積み込む必要があり、本来貨物を積載すべき船倉をこれに割かねばなりませんでした。航海距離が長くなれば、積み込む燃料の量は膨大になります。さらに外洋を航海するためには、外輪船の構造が制約となりました。外輪船のパドルは波の高い外洋での運用に不利で、積荷によって喫水が変化する貨物船との相性も良くありませんでした。こうしたなか、造船技術の発展によって、蒸気船は全盛期を迎えます。いち早く産業革命が進展したイギリスでは、コークグレート・ブリテン号の進水風景（1843年イギリス）イザムバード・キングダム・ブルネルが設計した世界初の全鉄製の船。スクリュー・プロペラが使われ、船の蒸気機関の利用を加速させました。©ssGreatBritainTrust

## Page 05
![Page 05の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-06.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

揺籃の時技術が確立すると、多量に安価な鉄が生産されるよう代ス高炉05になりました。鉄を薄く延ばして使うことで、木よりも軽く強度のある蒸気船をつくることができるようになり、1854年にはロイズ船級協会が鉄製の船を保険対象に承認しました。スクリュー・プロペラはグラスゴー大学で発明され、1843年に最初の鉄製スクリュー蒸気船グレート・ブリテン号が進水し、翌年からリバプール・ニューヨーク間の大西洋航路に就航しました。イギリス海軍でも1846年に初のスクリュー・フリゲート艦アンフィオン号が進水し、鉄製スクリュー船建造に移行していきました。そして鋼の量産技術が確立すると、1870年代に蒸気機関の効率を高める技術革新が進みました。ボイラーに鋼が使われることで、蒸気圧が上がり、高圧・中圧・低圧の3本のシリンダーで次々に蒸気を膨張させる三段膨張機関が開発され、燃料消費は大幅に減りました。さらに1869年のスエズ運河開通が、蒸気船の普及を加速させました。地中海と紅海を結ぶスエズ運河は、アフリカ大陸南端の喜望峰を回ることなく、ヨーロッパからアジアへの海上航路を劇的に短縮しました。しかし大型帆船は風の一定しない地中海や紅海の航行には向いていませんでした。こうしてインド、東南アジア、中国、日本への航路は、蒸気船の舞台となりました。海上輸送の主役が帆船から蒸気船へと変わった19世紀、産業革命による欧米の工業化は、自国と植民地の間を行き来する貨物と人々の輸送を対象にした海上貿易量を増大させました。欧米列強は蒸気機関などを駆使した圧倒的な技術力と海軍力で、グローバルな貿易活動と植民地の獲得競争を加速させていきました。その波は遠い極東の島国である日本にも打ち寄せてきました。

## Page 06
![Page 06の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-07.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

揺籃の時代黒船来る大船建造の禁が解かれる産業革命を成し遂げた欧米列強の出現により、幕末日本で鎖国政策に幕が閉じられると、海は世界を隔てる壁から世界に通じる道へと大きく変わりました。近代産業国家への飛躍の時を迎えました。3代将軍徳川家光が1635（寛永12）年に大船建造の禁を発令してからというもの、幕府は、大型船の建造を厳しく制限していました。しかし1853（嘉永6）年7月、アメリカ合衆国東インド艦隊の浦賀来航に呼応し、徳川幕府は鎖国令（1639～185（4寛永16～嘉永7）年）を撤廃し、大船建造の禁を解きました。そして貧弱な海軍力を憂い、海防政策のため海軍創設を計画したのです。西洋の知識を吸収し、防衛体制を整えるため、幕府は西の玄関口である長崎の地に海軍伝習所（185（5安政2）年竣工）と長崎鎔鉄所（1860（万延元）年に長崎製鉄所と改称、三菱重工業株式会社長崎造船所の前身）を建設しました。長崎の出島を西洋文明の窓とし、蘭書を通じて、西洋科学を受容してきたことから、オランダに講師派遣を要請しました。オランダ政府57年9月、海軍将校リッダ・ハイセン・ファン・カッテンディーケ、機関将校ヘンドリック・ハルデス一行37人をヤッパン号（のちの咸臨丸）で派遣しました。ハルデスは長崎港西岸の飽の浦に工場用地を選びました。1857（安政4）年、長崎在勤の奉行、オランダ人造営師、通詞らが立ち会って鍬入れをし、186106

## Page 07
![Page 07の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-08.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

揺籃の時代（文久元）年に落成しました。ペリーの浦賀来航より8年が経っ07ていました。長崎製鉄所は19世紀、わが国初の本格的な洋式舶用機械修理工場でした。幕府は日本の船では欧米列強の軍艦に対抗できないことを認識していました。大船建造の禁撤廃と相まって、開国とともに膨れ上がる海運需要と修理の需要に備え、雄藩に対し艦船の建造を強く勧めました。これにより、水戸藩、薩摩藩、佐賀藩、長州藩などの有力な諸藩は洋式軍艦の建造に取り組むことになりました。この機運に乗じ、各藩は競って外国より近代工業知識の吸収に努めました。内治、外交、経済にわたる幕府の政策の行き詰まりによって1867（慶応4）年に大政奉還を迎えますが、ここに日本の近代産業の萌芽は発し、国は新しい時代へと大きく転回したのです。鎖国政策に幕が閉じられると、海は東洋の一国にとり世界を隔てる壁から世界に通じる道へと大きく変貌を遂げ、日本は近代産業国家への飛躍のときを迎えました。横浜港におけるペリー提督の上陸記念式神奈川条約（日米和親条約）が1854（嘉永7）年3月31日に締結されました。黒船（サスケハナ号）と弁才船の比較船の科学館所蔵長崎大学附属図書館所蔵弁才船開国当時の船べざいせん本マストで簡易な構造の弁才船が担っていました。1853（嘉永6）年、4隻の巨大な黒船が江戸湾浦賀沖に現れたとき、当時の日本人が目にしていた弁才船の中でも大きな船は千石船でした。1,000石の米を積める大きさ（積載能力は約150トン）で、排水量は約200トンと推定されます。これに対して、ペリー艦隊サスケハナ号の排水量は3,824トンで、千石船の19倍もあることになります。黒船の出現に大騒ぎする世相を風刺して、「泰平の眠りを覚ます上喜撰、たった四はいで夜も眠れず」という狂歌がつくられたのも無理はありません（上喜撰とは宇治の高級茶）。江戸湾に現れた黒船に、貧弱な海軍力、海運力を憂い、わが国の大型船への挑戦は始まったのです。横浜開港資料館所蔵黒船の内部精密解剖図作画谷井建三ⒸMUSEUMOFMARITIMESCIENCE2003

## Page 08
![Page 08の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-09.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

揺籃の時代国を守る海軍の創設を図る開国直後の日本では、国を守るための大型艦船や蒸気機関、鉄製大砲をつくることは困難を極めました。その試行錯誤の挑戦によって、産業革命を成し遂げた西洋の最新技術の導入と、科学技術を使いこなしつくり出す人材の育成が始まりました。08公益財団法人鍋島報效会所蔵府は戦略として江戸湾と長崎湾の防衛に重きを置いて幕いました。西の要衝である長崎湾を欧米列強より守るため、佐賀藩と福岡藩に長崎警護を隔年交代で命じていました。17世紀から19世紀にかけて、九州の有明海北岸と島原半島および長崎の一部地域においては、幕府より佐賀藩（鍋島家）が統治を任されていました。アヘン戦争で清の敗北が伝えられると、佐賀藩は長崎湾に砲台を築き、欧米列強の軍艦の脅威に備え、他藩に先駆けて西洋科学の情報の入手に努めました。そしてオランダのユーリッヒ・ヒューゲニン陸軍少将の著した『ルイク国立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』を翻訳し、書物の情報や設計図を参考に鉄製大砲の鋳造に挑みました。金属溶解炉の一つである反射炉の建設に、佐賀藩が日本で初めて成功すると、1850年代国内各地で11炉が建設されました。反射炉の遺構は佐賀に現存していないものの、長崎防衛のため佐賀藩が建設した四郎ヶ島台場跡が残っています。九州の沖合には欧米列強の船がたびたび出没しました。江戸は太平洋に守られ、欧米の軍艦が出没する危機には及びませんでしたが、1853（嘉永6）年にアメリカ合衆国東インド艦隊隻の軍艦が江戸湾に侵入し、ついに2世紀余に及ぶ泰平の夢は破られました。幕府は直ちに大船建造の禁を解き、西欧において友好関係にあったオランダの支援で、オランダ海軍が直接教育を行う長崎海軍伝習所を1855（安政2）年に開所し、海軍創設を図りました。長崎海軍伝習所では幕臣や雄藩藩士から選抜された伝習

## Page 09
![Page 09の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-10.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

揺籃の時09代長崎海軍伝習所絵図造船ドックをつくるみえつ三重津海軍所跡の全景佐賀藩は三重津海軍所内に、伝統的な土木施工技術を用いて、有明海の干満差を巧みに利用した先駆的な洋式の乾船渠を築造し、洋式舶用機械を修理しました。また藩士たちが西洋式船舶への理解を深めるため、実践的な教練指導も行いました。佐賀市教育委員会所蔵佐賀市教育委員会所蔵三重津海軍所跡のドライドック側壁木組骨格出島の先に黒煙をはいている黒船は、オランダから提供された木造外輪蒸気船スームビング号（のち観光丸）です。佐賀藩の洋式船建造凌風丸1865（慶応元）年竣工佐賀藩の鍋島直正は西洋技術の導入に積極的に取り組み、藩内に精錬方や蒸気製造局を置き、蒸気で動く船や汽車の模型の製作・実験を行いました。三重津海軍所で建造された凌風丸は、木造外輪蒸気船で藩公の御召船として実際に使われました。公益財団法人鍋島報效会所蔵生たちが、オランダ海軍の教師からオランダ語で軍事技術、汽缶、化学、医学、測量など、西洋の科学技術を学びました。特なべしまなおまさに佐賀藩の藩主鍋島直正は、海軍伝習所に多くの藩士を派遣し、洋式船の操縦技術を習得させました。1859（安政6）年に海軍伝習所が閉所すると、佐賀藩は三重津で士官教育を継続しました。洋船と和船では船の構造も操作も全く異なるため、長崎伝習に参加できなかった藩内の船手や水夫に領内で洋式船の技術教育を行いました。佐賀藩はオランダから電流丸（オランダロッテルダムで1856年竣工）を185（8安政5）年に10万ドルで購入していましたが、洋式船の修船のためには修繕ドックが必要でした。そこで藩の主要港である三重津海軍所の河川敷に伝統的工法で洋式乾船渠を建造しました。船渠（ドック）の建造にあたり、干満差4m、大潮時6mという有明の大きな干満差を利用しました。三重津海軍所の乾船渠は約マイナス1mに設定され、満潮時には河川から水が流入し、ドック内水深は約3.1mにまで高まり、船を船渠内に引き入れる最も適した環境で、電流丸の入渠が可能な水深となりました。そして1865（慶応元）年、薩摩藩の雲行丸に次いで、木造外輪蒸気船凌風丸の建造に成功しました。

## Page 10
![Page 10の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-11.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

OPINIONEYES幕末・明治期の造船力技術は人なり世界的な技術革新の流れに乗る公益財団法人笹川平和財団海洋政策研究所客員研究員北川弘光10千代田形1866（慶応2）年竣工日本で初めて建造された幕府海軍の軍艦です。小野友五郎ら長崎海軍伝習所出身の技術者が設計や建造に携わりました。主機は長崎製鉄所、船体は石川島造船所でつくられました。量産化が計画されていたものの、2番艦以降は建造されませんでした。千代田形の蒸気機関設計図試行錯誤の挑戦幕末期には諸国艦船の日本来航が頻繁となりました。とり（嘉永6）年および翌年の蒸気船を伴うアメリカのペリー艦隊来航は、国防力の格段の差を江戸幕府に認識させ、1854（嘉永7）年、日米和親条約が締結されました。幕府はただちに同年、大船禁止令を解き、まずは洋式船建造に舵を切りました。前後して建造された洋式帆船蒼隼丸（浦賀184（9嘉永2）年）、洋式砲艦鳳凰丸（浦賀185（4嘉永7）年）、昌平丸（鹿児島1855（安政元）年）、旭日丸（石川島1856（安政2）年）、海難ロシア軍艦代船ヘダ号（戸田185（6安政2）年）などの建造経験は、蒸気機関を搭載し外洋航行可能な構造の船体建造技術をもたらしました。18世紀イギリスに発した産業革命は、蒸気機関の開発による動力源の刷新と工場形式の機械工業によって発展しました。1783年フランス人クロード・フランソワ・ドロテ・ジュフロワ・ダバンは世界最初の実用的蒸気船を建造しましたが、1809年アメリカ人ロバート・フルトンが往復動機関駆動の外輪式蒸気船「クラーモント号」を開発し、試運転に成功、特許を取得したことから、後年フルトンのみの名が広く知られるようになりました。蒸気船も石炭を燃料とする外輪式時代には、外洋航行船のほとんどが広義での機帆船でした。幕末期には、蒸気船の運航はすでに知られていたものの、1853（嘉永6）年佐賀藩の田中久重らによる海外文献頼りでの蒸気機関車や蒸気船模型製作、同年ロシアのエフィム・プチャーチンが来航したとき披露された蒸気で走る模型、さらには185（4嘉永7）年マシュー・ペリー来航時の模型蒸気機関車走行実演を通じて、蒸気機関の原理と構造は少なくとも模型レベルでは理解されていました。しかし、機械工業の基盤のない幕末期の日本にあっては、秀抜な手工業をもってしても、実物の蒸気機関の製造、とりわけ精緻な金属加工機械なしでのボイラー製造は至難の業でした。一方、幕府はオランダ寄贈の蒸気船観光丸を練習船とする長崎海軍伝習所開設の際、蒸気機関の製造と修理工場建設の計画を立て、1857（安政4）年にオランダから資材と建設技術者の到着を待って、長崎製鉄所を着工しました。1861（万延2）

## Page 11
![Page 11の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-12.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

年には一応完成し、25馬力の蒸気機関により工作機械約20台を稼働させたものの、機械整備は未完のままに置かれ、長崎製鉄所の機能は不十分でした。このため、石川島建造の日本最初の蒸気軍艦「千代田形」の60馬力蒸気機関は、長崎製鉄所製に製造を託し、当時より優れた設備があった佐賀藩三重津海軍所の技術支援を仰ぎましたが、技術的に難度の高いボイラー製作の遅れなどのトラブルがあり、1866（慶応2）年の竣工となりました。蒸気機関の発達と鋼船への進化スームビング号（観光丸）1852年竣工アムステルダムの国立造船所で建造されたスクーナー型蒸気外輪船（全長66m、排水量730トン）です。1855（安政2）年にオランダ国王ウィレムⅢ世から13代将軍徳川家定へ贈呈されました。長崎海軍伝習所で幕府海軍の練習艦として使われ、勝海舟や榎本武揚らが航海術などを学びました。幕府は製鉄業および機械工業育成が喫緊の課題と認識していたものの、世界の造船、機関、推進器には革新的進歩があり、製鉄業、機械工業の成長を待つ猶予も推進器などの開発の暇もなく、幕府・諸藩は海外からの蒸気船、鋼材、艤装品の輸入を急ぎました。明治期では、1884年実用化段階に入ったパーソンズ蒸気タービンが高速大型船の主機として恰好の技術であったものの、日本の蒸気タービンへの関心は海軍に限られました。往復動機関は負荷変動への適応性の高さと保守の容易さが蒸気タービンを凌駕することもあり、国産蒸気船はすべて往復動機関船となりました。1900年代に入ると、海運力強化の必要があり、東洋汽船は総トン数1万3,454トンの大型貨客船建造を企画、三菱長崎造（明治38）年起工の天洋丸にはパーソンズ式タービンを輸入搭載しました。そして国産タービン船は1908（明治41）年起工の義勇艦櫻丸に始まりました。一方、1892年に液体を燃料とするディーゼル機関が開発されると、その高い汎用性と高効率により、瞬く間に世界に普及し、往復動蒸気機関を駆逐、商船においては蒸気タービンもかたわらに置かれました。日本ではプロペラ実装船は輸入船で始まり、国産船は横須賀造船所1876（明治9）年竣工の清輝丸（443馬力）、長崎造船所同年起工の小菅丸（642馬力）から以降急速に普及しました。船殻構造は、幕末期から明治期中期まで、木船から、鉄骨木皮船、鉄船、鋼骨木皮船、鋼船へと急速に変貌、進化しましひでたつた。明治の海事革命は、幕府では韮山代官江川英龍、盛岡藩たかとう士大島高任ら、諸藩では長州五傑（33ページ参照）など人材に恵まれたことが成功の鍵となりました。しかし日本の製鉄業は造船需要を満たすだけの供給能力はなく、明治期を通じて鋼材輸入が続きました。鳳凰丸1854（安政元）年竣工幕府はペリー来航を受けて浦賀造船所を設置し、浦賀奉行所与力の中島三郎助らに軍艦の建造を命じ、8カ月という早さで国産初の洋式軍艦を建造しました。清輝1876（明治9）年竣工明治維新後、初の国産軍艦として横須賀造船所で建造。バーク型木造スループで897トンと小型ながらも威容を誇り、1878（明治11）年欧州遠航の際には歴訪各国で盛大な歓迎を受け、日本の航海術が世界一流に達したことを示しました。11春洋丸1911（明治44）年竣工三菱長崎造船所で建造。日本における貨客船で1万トンを超え、また国産の三菱製パーソンズ式タービン機関を採用しました。三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵

## Page 12
![Page 12の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-13.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

OPINIONEYES幕末・明治期の造船力製鉄所から造船所へ幕府が起業した造船所は長崎製鉄所をはじめ、浦賀造船所、横浜製鉄所、横須賀製鉄所の4カ所にのぼりました。これらは明治維新後も引き継がれ、官営造船所となりました。幕末はネジ1本から巨大な船体まで、あらゆる鉄製品をつくる工場を「製鉄所」と称していましたが、187（1明治4）年から船をつくる「造船所」、鉄の工作をする「製作所」、そして鉄鉱石から鉄をつくる「製鉄所」と名称を分けるようになりました。雄藩でも幕末、熱心に造船所が設立されました。水戸藩の石川島造船所、加賀藩の七尾軍艦所、佐賀藩の三重津海軍えびすがはな所、薩摩藩の鹿児島造船所、長州藩の恵美須ヶ鼻造船所などがありました。そのうち石川島造船所は石川島平野造船所、七尾軍艦所は川崎造船所として明治期も存続し、日本の近代化を支えました。●横須賀製鉄所横須賀市所蔵横須賀製鉄所1号船渠（手前）と2号船渠（奥）ただまさ1865（慶応元）年、勘定奉行小栗忠順の進言を受けて開設されました。フランス人技師レオンス・ヴェルニーの指導の下、1871（明治4）年に全長137mの1号船渠が完成しました。当時の欧米大型戦艦4,000～5,000トン級に合わせて建造され、この大きさの戦艦の入渠・修理ができました。1903（明治35）年に横須賀海軍工廠となり、数多くの大型軍艦を建造しました。1945（昭和20）年以降は在日アメリカ海軍横須賀基地内で稼働しています。●浦賀造船所●石川島平野造船所12横須賀市所蔵1899（明治32）年竣工の船渠ペリー来航の1853（嘉永6）年に設置され、国産初の洋式軍艦鳳凰丸を建造。アメリカへ向かう咸臨丸の整備が行われました。横須賀製鉄所が建設されると1876（明治9）年に閉鎖。1897（明治30）年この地に浦賀船渠（のちの住友重機械工業株式会社浦賀造船所）が設立され、2003（平成15）年の閉鎖まで約1,000隻の艦船がつくられました。株式会社IHI所蔵1903（明治36）年の造船所全景図官営長崎造船所の初代船渠長だった平野富二が、官営となった石川島造船所の払い下げを受け、1876（明治9）年に設立しました。造船で培った技術をもとに事業を拡大してIHIへと発展を遂げ、三菱、川崎と共に日本の三大重工業の一角を成しています。●川崎造船所●横浜製鉄所出典：『日仏文化交流写真集第1集』駿河台出版社1865（慶応元）年、横須賀製鉄所のための準備を兼ねたパイロット工場として、フランス語の通訳や工業技術の実習指導を行う目的で横浜石川口に整備されました。1879（明治12）年石川島平野造船所に貸与され、1887（明治20）年同社に払い下げられると設備一切が東京に移され、閉鎖されました。川崎重工業株式会社所蔵第一番船の進水式創業者の川崎正蔵は、1878（明治11）年に東京で川崎築地造船所、1881（明治14）年に神戸で川崎兵庫造船所を設立。1886（明治19）年に官営兵庫造船所が払い下げられると、この地に拠点を集約。初代社長に松方正義元首相の三男・松方幸次郎が就任し、日本有数の重工業会社へと発展しました。

## Page 13
![Page 13の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-14.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

石源試行錯誤の挑戦炭の起13STEP1侍の西洋技術との出逢い尚古集成館所蔵島津斉彬愛用の地球儀清の轍は踏まぬ。欧米列強の圧倒的な海軍力による植民地化を恐れ、侍たちは長崎の出島に西洋の軍事技術の情報を求めました。そして蘭書を片手に、大型蒸気船の建造と鉄製大砲の鋳造に挑みました。

## Page 14
![Page 14の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-15.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

114尚古集成館所蔵薩摩藩造船所絵図島津斉彬は1853（嘉永6）年、桜島の瀬戸村漕の浦に造船所を建設しました。昇平丸はここで建造されました。本近海に姿を現した西洋の軍艦は、大型大砲や蒸気機日関を搭載した数千トンクラスで、幕府や諸藩が太刀打ちできるようなものではありませんでした。この差を早く詰めるなりあきら必要を感じていた島津斉彬は、1851（嘉永4）年に薩摩藩主にしゅうせい就任すると、洋式船の建造と大砲の鋳造に情熱を注ぎ、集成かん館という日本初の工場群を建設しました。いちき集成館事業の従事者であった市来四郎によれば、斉彬はてらしまさたかかんしょうろん寺師正容が著した『渙象論』五十余巻と図式数十枚を奉呈させました。正容は1822（文政5）年ごろ、鹿児島で帆柱3本、帆いろは3段の伊呂波丸をつくった人物です。幕府の鎖国政策が続くなか、薩摩藩だけが琉球を通じて中国と貿易を行い、財政の大きな支えとしていました。薩摩の産品や中国からの輸入品は、船で上方や江戸をはじめ、遠くは蝦夷地にまで運ばれていましたが、なかには遭難してロシアまで漂着する船もありまし

## Page 15
![Page 15の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-16.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

TEP1◉試行錯誤の挑15S。181（2文化9）年、薩摩藩船の永寿丸が途中で嵐にあい、戦た日本初の洋式産業群をつくる尚古集成館所蔵島津斉彬1809（文化6）～1858（安政5）年集成館事業を興すなど積極的に西洋技術の導入を進め、薩摩藩よる富国強兵や殖産興業に努めました。母方の従兄弟同士である佐賀藩主の鍋島直正とは、欧米列強の脅威と国防の危機を共有し、連携しながら最新技術の導入にまい進しました。鹿児島市所蔵鹿児島市所蔵旧集成館反射炉跡1857（安政4）年に鋳鉄砲の製造を目指して建設されましたが、実際には青銅の鋳造に使われていました。寺山炭窯跡反射炉の燃料となる木炭を製造するため、1858（安政5）年に築かれました。尚古集成館所蔵昇平丸1854（安政元）年竣工薩摩藩が建造した洋式軍艦で、のちに江戸幕府に献上され、長崎海軍伝習所の練習艦として使用されました。関吉の疎水溝1852（嘉永6）年に築かれ、集成館まで水を引き込み、水車を使って工場の動力源に変えました。鹿児島市所蔵択番目の島ハリムコタン島に漂着しました。正容は生存者の1人だった船頭からロシア船の造船技術と航海術を聞き、数冊の本に書き記しました。洋式船の技術的な知識が、すでに薩摩藩に蓄積されていました。本格的な洋式船建造を目論んでいた斉彬は、琉球大砲船建造届書を幕府に提出し、1853（嘉永6）年に正式な許可を得て堂々と桜島の瀬戸村（現鹿児島市黒神町）で大船の建造に着手しました。その数日後、ペリー率いるアメリカ合衆国東インド艦隊が琉球の那覇を経由して、江戸湾浦賀に来航し、幕府に開国を要求しました。斉彬は海軍・海運力強化の必要性を幕府に訴えました。幕府もこれを受け入れて同（嘉永6）年、大船建造の禁を解除しました。これを受けて琉球大砲船は洋式船に改造され、本格的な洋式軍艦昇平丸として完成しました。あきふみ昇平丸の建造には田原明章が従事しました。明章は1855（安政2）年にまとめた著書『造舶製式』のなかで、洋書「レーキ」と「七種軍艦造法論」からさまざまな知識を得て建造にあたったと記しています。昇平丸の各所には鉄製の鎖や、当時西洋でも出たばかりのマストとヤードを取り付ける鉄製トラス、帆をマストに付けるための鉄製ジャック・ステイが取り付けられていました。またボートには現代と変わらぬ鉄製のクラッチがあり、ボートはオランダ式（フランス式）ではなく、アメリカ・イギリス式の技術を導入していました。日米和親条約の調印後、外国船と区別するための標識が必要となりました。斉彬は幕府海防参与の徳川斉昭らとともに、のぼり日の丸の幟を用いることを進言しました。1855（安政2）年、昇平丸が幕府献上のため江戸へ回航された際、日の丸が船尾部に掲揚されました。これが日の丸を日本の船旗として掲揚した第1号とされています。

## Page 16
![Page 16の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-17.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

216府は1853（嘉永6）年、長州藩に対して江戸湾防備を命幕じました。さらに1854（安政元）年には大船建造を要請しました。しかし極度の財政難に陥っていた長州藩は、消極的な対応しかできませんでした。こうした状況を打破したのたかよしは木戸孝允でした。木戸は相州警衛の任務を機に、浦賀奉行与力の中島三郎助に師事し、洋式造船技術を学びました。中島は国産初の洋式帆走軍艦鳳凰丸を完成させていました。中島は木戸に対して、幕府が伊豆半島の戸田村で、ヘダ号の設計図をもとに同型の船を建造していることから現地へ行くように勧めました。木戸の上申を受け、長州藩は1856（安政3）年、洋式造船技術と運転技術習得のため、戸田村に船大工棟梁の尾崎小右衛門を派遣しました。尾崎は戸田村でスクーナー船（君島形）建造に当たった幕府の船大工棟梁の高崎伝蔵らとともに萩に帰り、恵美須ヶ鼻を造船所の建設場所に選びました。スクーネル打建木屋、蒸気製作木屋、大工居屋、会所などが置かれ、長州藩最初の洋式木造帆船の軍艦建造が進められました。この船は安政3年に進水したことから、その干支にちへいしんまるなみ丙辰丸と命名されました。丙辰丸は全長25m、排水量47トン、2本マストのスクーナー船で、造船に必要な釘やいかりに使われる鉄素材は大板山たたら場（大板山たたら製鉄遺跡）から供給されました。たたら製鉄とは、日本で千年余にわたって受け継がれてきた伝統的な製鉄法です。山や川、海から採れる砂鉄を原料とし、木炭の火力を用いて製錬することで鉄を得ていました。大板山たたら場では、砂鉄を石見国（現在の島根県）から北前船（弁才船）を利用して運んでいました。恵美須ヶ鼻造船所には鍛冶場があり、そこで大板山たたら場の鉄素材を加工しました。完成した丙辰丸は、海軍の練習と国産交易の任務を果たしました。こうしんまる（万延元）年には2隻目の洋式軍艦庚申丸が進水しました。長崎海軍伝習所でオランダの造船技術を学んだ藤井勝之進が設計にあたり、長崎の船大工を招いて建造しました。全長43mで丙辰丸に比べて大型で、3本マストのバーク帆船でした。大砲8門を搭載し、1863（文久3）年に長州藩とイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強4国との間に起きた

## Page 17
![Page 17の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-18.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

TEP1◉試行錯誤の挑戦露艦建造図巻17S長州藩の挑戦公益財団法人東洋文庫所蔵1854（嘉永7）年、日露和親条約の締結交渉のため、ロシア帝国エフィム・プチャーチン提督がディアナ号で来日しました。しかし下田沖で安政大地震に見舞われ、ディアナ号は航行不能となり、沈没しましへだた。プチャーチンは帰国のため戸田村（現在の静岡県沼津市）で洋式船ヘダ号の新造を決めました。設計はロシア人乗員らが担当し、日本側が資材や作業員などを提供し、その支援の代償として完成した船は帰国後に日本側へ譲渡する契約を交わしました。ヘダ号は日本人にとって最初の洋式船建造で、造船技術を実地で習得する貴重な機会を得ました。恵美須ヶ鼻造船所の古絵図大板山たたら製鉄遺跡西洋の製鉄技術が導入される前の日本の伝統的な製鉄技術の遺構です。長州藩だけでなく、三河国田原藩（現在の愛知県渥美半島）の求めに応じて鉄素材を供給していました。下関戦争でアメリカ船を砲撃しましたが、その報復を受けて撃沈されました。長州藩における洋式船建造は、丙辰丸と庚申丸の2隻で途絶えました。それ以降はイギリス商人から10隻ほどの蒸気船を購入しています。わずかな蘭書の知識を頼りに自力での建造が困難であると悟り、欧米列強からの輸入に頼らざるを得なかったようです。撮影：内山英明／一般財団法人産業遺産国民会議所蔵恵美須ヶ鼻造船所跡丙辰丸と庚申丸を建造した地下遺構と防波堤が残っています。国内で唯一確認された洋式木造帆船の造船所跡です。丙辰丸1856（安政3）年竣工長州藩最初の洋式軍艦として使用されました。山口県文書館所蔵萩市所蔵萩反射炉佐賀藩の反射炉の目視情報をベースに模倣し、1856（安政3）年に建設された試作炉です。撮影：内山英明／一般財団法人産業遺産国民会議所蔵

## Page 18
![Page 18の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-19.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

OPINIONEYES蒸気機関をつくる政局を左右した海上交通株式会社島津興業常務取締役田村省三島津斉彬は昇平丸の建造と並行して、蒸気機関の研究と自力による製造を進めていました。1848（嘉永元）年、海外情報みつくりげんぽに最も精通していた蘭学者の箕作阮甫に、オランダ人のフェルダムが書いた蒸気機関の原理と仕組みを説明した専門書の翻訳を依頼しました。『水蒸船説略』として出版されると、斉彬は江戸と鹿児島で藩士らに蒸気機関の製作を命じました。しかし満足な蒸気の張力を得ることができず、1854（安政元）年に技術者たちを長崎に派遣し、オランダの蒸気船を見学させました。その結果、1855（安政2）年に諸大名を江戸・藩邸に招待し、蒸気機関の試運転を披露するまでに至りました。そしておっとせん鹿児島から回航した越通船に、この蒸気機関を搭載しました。うんこうまるこれが日本初の蒸気船で、のちに雲行丸と命名されました。1858（安政5）年、勝海舟とともに鹿児島を訪れた長崎海軍伝習所のオランダ人教官カッテンディーケは、雲行丸について「シリンダーの長さからすれば、その機関は約12馬力のはずであるが、（中略）いろいろの欠点があって、実際はわずかに2～3馬力しか出ない」と指摘しながらも、「一度も実際に蒸気機関を見たこともなく、ただ簡単な図面を頼りに、この種の機関をつくった人の才能の非凡さに、驚かざるを得ない」と評価しました。薩摩藩は軍艦と蒸気船を次々と建造しましたが、1855（安政18尚古集成館所蔵NSBM（オランダ蒸気船会社）製の工作機械斉彬の後を継いだ忠義と後見人の久光は、1863年の薩英戦争で近代化の必要性を認識し、第2期集成館事業として1865（慶応元）年に機械工場をつくりました。

## Page 19
![Page 19の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-20.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

日本初の蒸気船2）年で一応の区切りを迎えます。斉彬死後の1860（万延元）年にイギリスから天祐丸を購入するなど、1867（慶応3）年までの間に合計17隻の艦船を諸外国から購入しています。幕府や諸藩が外国から艦船を輸入する傾向は、すでに佐賀藩が1857（安政4）年と翌年に、飛雲丸と電流丸を相次いで購入したときから始まりました。勝海舟の『海軍歴史』などによれば、1868（明治元）年までに幕府や諸藩は洋式艦船を190隻余り保有し、うち幕府が29隻（31隻とも）、薩摩藩は17隻を外国から購入しています。こうしたなか、薩摩藩ほど艦船を有効に機能させた諸藩はありませんでした。幕末、政局は京都を舞台に動きました。陸路で鹿児島から京都に向かえば約1カ月かかるところ、蒸気船を使えば約1週間で到着します。幕末藩政を動かした島津久光をはじめ、西郷隆盛や大久保利通も蒸気船で京都・大坂と鹿児島を往復し、政局への対応に当たっています。一方、将軍の上洛は陸路で最短1週間のところ、3週間以上かけていました。蒸気船で江戸・京都間を最短4日で往復できたにもかかわらずです。この時間差が薩摩藩に有利に働きました。蒸気船の海上交通は、政局を打開し、これに乗り遅れた者は時代にとり残されていきました。薩摩藩は幕末の国家存亡の危機を乗り越えるため、自力で西洋の科学技術を導入し、在来の技術を応用して独自の近代化を推進しました。その結果、東洋一といわれた工場群の集成館を鹿児島城下に建設して、軍艦や蒸気船を建造し、技術の集積と社会基盤の整備を同時に進めました。海軍力と海運力の充実を図るため、あらゆる資金を運用して育成に努め、日本の主権と独立を守ろうとしました。限界もありましたが、新しい時代を切り開いたそのエネルギーは、長年にわたって培われた薩摩のDNAだったのでしょう。オランダやイギリスの機械技術を輸入雲行丸の蒸気機関図型式は当時舶用として普通に行われたサイド・レバーエンジンでした。鍛造は当時の苦心を物語るものです。汽筒（シリンダー）は黄銅、機械の台は鉄、機関は銅製でした。尚古集成館所蔵尚古集成館所蔵雲行丸1855（安政2）年運用『水蒸船概説』を参考に、西洋人の手を借りず、日本人の手でつくられた最初の蒸気船で、日本造船業の歴史的第一歩でした。『水蒸船説略』箕作阮甫訳1849（嘉永2）年出版第一・二巻は温熱の作用、沸騰、蒸気の性状、水蒸気の膨張、圧縮、水蒸気の管内通過、第三・四巻は機械、缶及びその付属具の構造、回転運動の原理、第五・六巻は舶用推進に用いる機関の装置などが記されています。19旧集成館機械工場1865（慶応元）年竣工。オランダやイギリスから輸入した機械や道具を使って蒸気機関を用い、金属加工や船舶装備品などをつくりました。鹿児島市所蔵鹿児島市所蔵旧鹿児島紡績所紡績技師の宿舎として1867（慶応3）年に建設。洋式帆船の帆布を製作する紡績事業が行われました。

## Page 20
![Page 20の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-21.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

OPINIONEYES東郷平八郎とその時代日本の海軍力が形成されるまで防衛省海上自衛隊幹部学校本名龍児欧米列強のアジア進出に伴い、長い鎖国の眠りからさめた日本は、開国とともに富国強兵・殖産興業による国家としての発展を図っていくこととなりました。その手段の1つとして、海軍力（Seapower）を重視した日本は、急速に海軍力の獲得に努力していきました。当時の主要国における海軍は、帆船の時代から蒸気・鋼鉄艦への移行を終えつつあるところでしたが、鎖国により帆走海軍を持たなかった日本は、イギリスを範として、一挙に蒸気海軍力の保有を目指すこととなります。この蒸気海軍力を獲得するうえでの課題は、大きく3つ、すなわち、艦船が機関のみならず武器も含めて高度化した技術の獲得、それまで艦船の運航が風任せであったのに対し、精緻な運航が可能となったことによる戦略および戦術の確立、20東城鉦太郎画／公益財団法人三笠保存会所蔵日本海海戦「艦橋の図」連合艦隊旗艦三笠艦橋で指揮を執る東郷平八郎。

## Page 21
![Page 21の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-22.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

築地海軍兵学寮国立国会図書館所蔵青年期の東郷平八郎Wikimediacommoms所蔵さらにはこれらを適切に学びとる教育体系の確立ということがありました。ここでは、明治期の日本海軍を代表する人物である「東洋のネルソン」とも称された東郷平八郎の一生を、技術獲得、戦略および戦術の確立、教育体系の確立の視点から振り返ることで、日本の海軍力形成過程を説明します。教育体系を確立し着実に人材を育てる1848（弘化4）年、鹿児島市加治屋町に薩摩藩士東郷吉左衛門の四男として産まれた東郷平八郎は、方正謹直な父によって峻烈な薩摩隼人式教育を受けて育ちます。1863（文久3）年、薩英戦争に父とともに火縄銃を片手に出陣した平八郎は、イギリス軍艦の堂々たる姿を目にするとともに砲火の洗礼を受け、島国日本における海軍力の必要性を痛感し、海軍に身を投じる決意をしたとされます。明治に入り、東郷が海軍に入ったころ、海軍は教育体系の確立に試行錯誤している最中でした。1870（明治3）年、築地に海軍兵学寮が創立されますが、優秀な初級士官はイギリス留学させるとの当時の方針に基づいて留学しています。しかしながら、東郷は正規の海軍学校への入学は許されず、一般の商船学校において航海術を学び、学校所有の練習船でオーストラリアやアフリカへの練習航海の経験を通じて国際性を涵養しました。このことが基礎となって、以後の軍人生活で国際法の研究に取り組んでいます。また、このようにイギリスに学んだ海軍士官は、東郷のような用兵者のみならず、日英同盟の付属規定によって、技術士官にも及んでいます。3年に1人の割合で、当時の造船官の世界的登竜門であったグリニッジ海軍大学校への技術士官の留学が許されました。のちに「軍艦づくりの神様」と呼ばれ、戦艦「長門」、巡洋艦「夕張」の設計を担当し、東大総長も務めた平賀ゆずる譲は、この留学経験者を代表する一人です。一方、国内においても1874（明治７）年にイギリスから教育使節団を招聘したことにより、次第に教育体系が確立されることで、近代海軍力の確保を目指した日本の取り組みは軌道に乗っていきました。これに加えて一般社会においても、日清戦争までに義務教育をはじめとする国内の教育体系が確立されたことで、当時の海軍に求められた高度な技術教育に対応し得る人材が徐々に入隊してくるようになり、日本海軍は、人材という面でも一歩一歩着実に近代海軍らしさを整えていきました。技術の獲得と戦略および戦術の確立殖産興業の政策により、明治初期から産業強靭化が図られ、軍艦の国産化を目指す一方、巡洋艦以上の艦艇建造基盤は成長途上であったため、主としてイギリスから輸入しています。輸入に際しては、建造段階から技術者を監督官としてイギリスの造船所に送り込み、技術を学ばせるとともに、完成が近づくと初代の乗員となる回航要員を英国の造船所に派遣し、機器の取り扱いなどを習得させ、日本への回航を通じて慣熟させていました。東郷も海軍中尉であった1878（明治11）年、軍艦「比叡」の回航業務に任じました。こうした日本海軍の成長過程にあって、清国との戦争の蓋然性が高まっていきましたが、日本海軍にとって、最大の脅威は、「定遠」型戦艦2隻の存在およびその砲力でした。これらの巨艦への対応は、当時は海外の技術に頼るほかなく、軽快21

## Page 22
![Page 22の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-23.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

マハン『海上権力史論』海軍戦略の古典的著作として、世界各国で研究されました。22海軍技術研究所1923（大正12）年東京・築地に設立され、1930（昭和5）年東京・目黒に移転。大水槽では戦艦大和の模型で性能評価が行われ、現在も防衛省施設として使用されています。な巡洋艦3隻「松島」「厳島」「橋立」のいわゆる「三景艦」をフランスに発注するとともに、イギリス製の速射砲を多数、装備することで対抗しています。教育の確立に立脚した技術の獲得により、急速に近代海軍力を確保しつつあった日本海軍に残されていたもう一つの課題は、戦略および戦術の確立でした。このことは、日本海軍のみの課題ではなく、主要国海軍に共通したものでした。帆船時代の戦闘は、近距離での砲戦のあと、艦船を互いに接触させ、船上でのナイフなどの武器を用いたものであり、極論すれば、単に陸上での戦闘を船上に置き換えたものであったことから、1890（明治23）年にアメリカのアルフレッド・セイヤー・マハンが主としてイギリスの海戦史を基に考察した『海上権力史論』を発表するまで、海軍戦略と呼べるものが具体的になかったのです。こうした海軍の近代化の過程において、初めての蒸気艦、艦載砲を搭載した鋼鉄艦同士の本格的な海戦となったのが、日清戦争における黄海海戦（189（4明治27）年9月）でした。黄海海戦においては、清国海軍が、帆船時代からの横列陣形を旧

## Page 23
![Page 23の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-24.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

OPINIONEYES東郷平八郎とその時代戦艦「三笠」の進水式イギリスのヴィッカース造船所に発注し、1902（明治35）年竣工。連合艦隊に編入され、その旗艦になりました。公益財団法人三笠保存会所蔵態依然として用いていたのに対し、日本海軍は、前述した「三景艦」を基幹とした艦隊による縦列陣形を用いた速射砲の威力発揮により、撃破しています。蒸気海軍としては、縦列陣形が有効と考えられ始めていた時期でしたが、縦列陣形をイギリスの検討を土台として独自に検証し、訓練を継続することで新たな戦術として確立しました。この黄海海戦に、巡洋艦「浪速」艦長として参加していた東郷平八郎は、安定した射撃を実施するための円滑な艦隊運動の重要性を認識し、この経験を後年の日露戦争に活かしていきました。日清戦争終結後、新たな脅威となったのは、極東におけるロシアの存在でした。ロシアへの対抗のために、日本海軍は、清国から得た賠償金を財源として、戦艦「三笠」をはじめとする大建艦計画を立案し、実行に移していきます。新型の戦艦をイギリスに発注する一方で、日本国内においても、1900年代に入って経済発展が進み、軍艦を国産する基盤が整い始めました。官営八幡製鐵所の操業開始は、こうした発展を象徴する出来事ですが、国内工業の発展により、イギリスから獲得した技術と相まって、日露戦争開戦のころには、戦艦を除く軍艦は、国産できるようになっています。この過程において、東郷は、神戸小野浜海軍造船所に勤務しており、イギリスでの経験や用兵者としての視点から造船所の業務を監督しています。近代海軍力獲得の努力が結実した日本海海戦戦略および戦術の面では、日清戦争で確立したものに一層の磨きをかけるべく、各国に留学生を派遣しました。特に秋山さねゆき真之を、アメリカの海軍大学校でマハンに師事させるとともに、189（8明治31）年に生起した米西（アメリカ-スペイン）戦争における海戦に観戦武官として派遣することで最新の戦術を確認させています。秋山は、マハンから学びとり、艦船武官の経験から得た戦略および戦術の知見に村上水軍などの日本古来の水軍戦術からの着想を取り入れることで、日本流の戦略及び戦術を確立していきます。これまでに述べてきた一連の近代海軍力獲得の努力が結実したのが、東郷が連合艦隊司令長官としてロシア海軍バルチック艦隊を撃破した日本海海戦（190（5明治38）年5月）であるといえます。ここにおいて、獲得した技術や戦略を実践し、完成の域に至らしめたのは、日清戦争の際と同様に訓練の実施でした。日本海海戦の前に、連合艦隊は、相互に標的を曳航した射撃訓練を繰り返し、その成績を艦隊内で競い合いました。この厳しくも合理的な猛訓練の実施は、海戦当日の整斉とした艦隊運動とこれがもたらした安定した射撃、さらにはチームワークの向上へとつながったと考えられます。このように、日本海軍は、技術の獲得、戦略および戦術の体得、教育体系の確立を英国に範をとることで追求し、訓練などを通じた実践によって極めて短期間に近代海軍力を確保することとなりました。参考文献・池田清『海軍と日本』中公新書1980年・平間洋一『日英同盟』PHP新書2000年・加藤康子『産業遺産』日本経済新聞社1999年・林望『薩摩スチューデント、西へ』光文社2010年23

## Page 24
![Page 24の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-25.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

column造船技術の導入推移長崎港は大陸との通商に利便性の高い自然の良港で、2世紀にもわたる鎖国時代においても、出島を通じて、西洋の科学技術の情報を受容し幕末・維新の中心的雄藩が集う西洋文化や技術の交流の拠点でした。なかでも造船所は、幕末の長崎製鉄所の時代より、西洋の産業革命の波が最初に伝播した交流拠点でした。明治政府が経営した官営時代においても、また三菱の経営傘下に入ったあとも、常に他に先駆けて先進的な技術を導入してきました。長崎造船所には、第一に徳川幕府時代（1857～68年）のオランダ、第二に明治政府の官営時代（1868～87年）のフランス・イギリス、第三に三菱経営時代の初期（1887～1912年）におけるイギリつの技術交流があります。どの時代においても、造船所は常に西洋の産業文化がいち早く入り、伝播をする拠点でした。造船産業に関わる構成資産の相関図1853年ペリー提督江戸湾来航1851年旧集成館1858年三重津海軍所1856年恵美須ヶ鼻造船所1855年長崎海軍伝習所1857年長崎鎔鉄所（徳川幕府）オランダの技術241863年トーマス・グラバー（旧グラバー住宅）1861年長崎製鉄所（徳川幕府）1869年小菅修船場長崎造船所（明治政府）フランスの技術1884年三菱経営（政府から工場を借用）イギリスからの造船技術1887年夕顔丸1890年筑後川丸1898年常陸丸1887年三菱長崎造船所1898年三菱長崎造船所旧木型場1904年三菱長崎造船所占勝閣1905年三菱長崎造船所第三船渠1908年天洋丸1909年三菱長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーン

## Page 25
![Page 25の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-26.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

STEP2西洋技術の導入志を引き継ぎ、礎を築く三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵建設中の長崎製鉄所1860（万延元）年幕末、諸藩の志士は、日本の貧弱な海運力、海軍力を憂えました。大きな軍艦と物資を運ぶ大きな商船の建造が一つの使命として誕生しました。その切実な願いは、やがて日本が開国したとき、また開国後の日本のあり方に影響を与え、明治政府に志として引き継がれていきました。西南雄藩の一つであり、維新の原動力となった土佐藩は、維新により失職した武士を糾合し、カンパニー（会社組織）を設立しました。三菱合資会社という大企業に成長した藩士の結社は長崎で日本の造船業の礎を築いていきました。

## Page 26
![Page 26の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-27.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

3長崎製鉄所の鍛冶職人たちとオランダ人指導員1862（文久2）年ごろ三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵26崎港は大陸との通商に利便性の高い天然の良港で、2長世紀余りにおける鎖国時代においても、西洋への窓として、文化や技術の交流拠点でした。なかでも幕府がアメリカあくのうら合衆国東インド艦隊の浦賀来航に呼応し、飽の浦に建設した長崎製鉄所は、西洋の科学技術が最初に導入される場所でした。19世紀、日本初の本格的な洋式舶用機械修理工場で、蒸気船の燃料炭の供給基地でもありました。幕府は大船建造の禁を解くと、西洋の西の玄関口である長崎湾において、海軍創設を企画し、出島を通して交流のあったオランダに支援を依頼し、オランダ海軍の協力を得て、長崎海軍伝習所と長崎製鉄所を建設しました。幕府はオランダ商人を介して、工場用諸機械道具類を輸入し、建設工師11人を招請しました。オランダ政府は1857（安政4）年9月海軍将校リッダ・ハイセン・ファン・カッティンディッケ、機関将校ヘンドリック・ハルデス一行37人をヤッパン号（のちの咸臨丸）で派遣します。ハルデスは長崎港西岸の黄金島から海岸へかけての浅瀬の比較的埋め立てに都合の良い浦上村淵字飽の浦に、長崎鎔鉄所の工場用地を選びました。1857（安政4）年に長崎在勤の奉行、オランダ人造営師、その他通辞が立ち会い鍬入れをし、1861（万延2）年に落成しました。ここに三菱重工長崎造船所の前身である長崎製鉄所（186（0万延元）年に改称）が誕生しました。設立当初、長崎製鉄所の施設は工場用地が3,840坪で、敷地には鋳物場（蒸気機関6馬力）、鍛冶場（同8馬力）、工作場（同15馬力）、の3工場がありました。蒸気機関3台で合計29馬力、工作機械約20台という小規模なものでした。生産能力は約50馬力の舶用機関を製造し、艦船の小修理を施し得る程度の洋たてがみ式舶用機械修理工場でした。しかし1863（文久3）年に立神軍艦打建所が着工され、それに続いて造船が始まると、次第に生産能力が増強されていきます。ハルデスが訪れた飽の浦は記録によると、海に近い畑地で排水が悪く、彼らがオランダから持参した蒸気機関を使って排水を行い、工場敷地の地固めを行ったそうです。工場の建設

## Page 27
![Page 27の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-28.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

TEP2◉西洋技術の導入資材として煉瓦を焼くため27S長崎製鉄所轆轤盤細工所（飽の浦機械工場）1863（文久3）年に窯をつくり、香焼の赤土を使って焼き方を指導しました。建設施工を担当したのはウイルトン・フェイエノールド造船所で、製鉄所施工記録にスチーム・ハンマーやボイラーそのほかの工作機械類の据付、使用法の指導を行ったことなどがウイルトン・フェイエノールド社史（1823～1954年）に記さオランダとの技術交流長崎製鉄所轆轤盤細工所の設計図三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵1856（安政3）年れています。また、オランダのロッテルダム市公文書館には、幕府の長崎製鉄所時代を偲ぶ約80枚の工場の設計図や機械部品図などの記録が残されています。現在、長崎製鉄所時代の物的証拠は三菱重工長崎造船所史料館（旧木型場）に展示される日本最古の工作機械たてけずりばん「竪削盤」のみです。竪削盤は幕末に、西洋科学揺籃の地である長崎において、長崎製鉄所が日本の重工業を育む萌芽であったことを物語っています。ロッテルダム市公文書館所蔵長崎製鉄所1863（文久3）年三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵竪削盤（三菱重工長崎造船所史料館）1856年、オランダ・ロッテルダムにあるオランダ汽船会社で製造されました。金属加工に用いられる工作機械で、刃物を取りつけた台が上下に往復運動して金属を切削し、平面加工、溝、軸穴加工などを行いました。集成館機械工場の設計図三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵鹿児島紡績所と技師館1872（明治5）年長崎以外にもオランダとの技術交流を物語っている設備が残されています。鹿児島錦江湾を見下ろす磯に、薩摩藩主が飽の浦を模して建設した第2期集成館事業の旧機械工場（1865（慶応元）年竣工）です。ロッテルダム市公文書館所蔵尚古集成館所蔵

## Page 28
![Page 28の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-29.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

428内山英明撮影／一般財団法人産業遺産国民会議所蔵

## Page 29
![Page 29の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-30.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

TEP2◉西洋技術の導入幕29S府が瓦解すると、長崎製鉄所は1868（明治元）年に明治政府の手に移管されました。1871（明治4）年には工部省所管となり、名称を長崎造船所と改称します。その後は長崎製作所（187（2明治5）年）、長崎工作分局（187（7明治10）年）、長崎造船局（188（3明治16）年）と変わりました。明治政府は造船業をてこ入れするため、186（9明治2）年にスコットランド商人トーマス・ブレーク・グラバーから小菅修船所を買収します。小たてわき菅修船所は薩摩藩士の五代友厚や小松帯刀らがグラバーと合弁で建設した日本で初めての近代的な船舶の修理施設です。長崎造船局は、小菅修船場が傘下に入ると約1,000トンの船舶を上架し修理する能力を得ることになりました。小菅修船場が竣工した前年の1868（明治元）年12月、落成式当日の記録では、蒸気動力の曳揚げ機によりグラバー所有の大型船が難なく水面から引き揚げられ、蒸気船の全容を見ようと、黒山の人だかりができたそうです。この盛況な様子を『五代友厚伝』に「壮観にしてその蒸気力の感心になる事、必定の得て尽くすべからず」「西洋人老若男女夥しく、旗章数百、墻上に立ち並び、日章旗も3本ほど立てて最も壮観、午後から野掛けのまま食事を出し、その数、百人を超ゆ」と記されています。蒸気機関で動く近代的なドック小菅修船場の竣工により、日本で初めて船底を含む本格的な修理が可能になりました。蒸気機関の曳揚げ機械内山英明撮影／一般財団法人産業遺産国民会議所蔵曳揚げ小屋コンニャク煉瓦曳揚げ小屋は現存する日本最古の煉瓦造建築です。使用された煉瓦は長崎製鉄所建設のために招聘されたオランダ海軍の機関将校ヘンドリック・ハルデスが日本人に教えたことからハルデス煉瓦、またはその形状からコンニャク煉瓦と呼ばれています。小菅修船場跡日本最古の蒸気機関を動力とする曳揚げ装置を整備した洋式スリップ・ドッグです。船を乗せて引き揚げる台（現存しない）の形状から、そろばんドックとも呼ばれました。内山英明撮影／一般財団法人産業遺産国民会議所蔵

## Page 30
![Page 30の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-31.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

30藩に先駆けて蒸気船雲行丸、洋式船昇平丸の建造に挑他んだ薩摩藩ですが、大海原を航海する軍艦の建造は容易ならざるものがありました。薩摩藩士の五代才助（のちの友厚）は、長崎海軍伝習所へ伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学びました。その後、1862（文久2）年には、幕せんざいまる府艦千歳丸に水夫として乗船し上海に渡航し、藩のために汽船を購入しました。こうしたなか同年9月、神奈川県の生麦で薩摩藩主島津久光の行列を横切った騎馬のイギリス人たちを、薩摩藩士たちが殺傷（1人死亡、2人重傷）するという生麦事件が起こりました。これに伴い1863（文久3）年7月、薩英戦争が勃発しました。薩摩藩はイギリス艦隊に大きな打撃を与えましたが、3隻の汽船を失いました。五代はイギリス海軍の捕虜となり、通辞の支援でイギリス艦を脱出したものの、幕吏や攘夷派から逃れるため、しばらく長崎に潜伏することになりました。長崎でスコットランド商人トーマス・ブレーク・グラバーより世界情勢を耳にした五代は、危機感を抱き1864（元治元）年、薩摩藩に今後の国づくりに関する上申書を提出しました。藩は上申書に応え、イギリス留学の方針を決定し、藩命でイギリス使節団を派遣することにしました。五代は1865（慶応元）年、ありのり寺島宗則や森有礼らとともに、留学生14人を率いてグラバーの持ち船で串木野港よりロンドンに密航しました。欧州各国を訪れた開国論者の五代は、ブラッセルでベルギー商人コント・デ・モンブランと貿易商社を設立し、修船場建うちこすげ設契約を結び、帰国後小松帯刀らと長崎戸町村の内小菅に修理船場の設立を計画しました。しかし当時、藩名義では幕府の許可が下りなかったため、山田宗次郎、若松屋善助の名義で許可を受け、スリップ・ドックをイギリスに注文しました。五代の貿易商社と小松帯刀、グラバーは共同出資で合弁会社を設立し、スコットランドのアバディーンから蒸気動力によるスリップ・ドックを輸入しました。長崎に来航する艦船は年々増加し、次第に大型船の傾向をたどり、その修理工事もようやく繁忙となっていました。しかし船渠（ドック）を持たず、船架（修理する船を載せて陸上に引き揚げる軌道の上に台車をつけた装置）すらありません。1866（慶応2）年、薩摩藩は外国から買い入れた蒸気船の補修が必要となりましたが、薩摩では沖合での小修理しかできませんでした。小松はグラバーらと共同で修船場計画を考え、藩という枠に捉われず、開港の港長崎を選びました。実務にはイギリスから帰国した五代が当たり、長崎の小菅に修船場が建設されました。日本は開国と共に貧弱な海運・海軍力を憂い、開港の港・長崎で、西洋から新しい機械や技術、そして技術者を積極的に受け入れました。明治新政府に政治が移ると、新しい技術の導入は加速しました。日本人技術者は現場で実践と応用を繰り返し、改良を加える知見を持つようになりました。やがてその人材は明治後期、日本を支える人材として大きく育っていきました。長崎港を見下ろすグラバー住宅に設置された砲台全ての船舶の往来が明瞭に観察でき、対岸の長崎製鉄所を一望する丘の上にグラバーは活動の拠点を置きました。長崎大学附属図書館所蔵

## Page 31
![Page 31の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-32.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

TEP3◉産業基盤の確31S立政治変革と尚古集成館所蔵尚古集成館所蔵薩摩スチューデントの渡英1865（元治2）年19人の若き薩摩藩士たちが、グラバーの持ち船で密かにイギリスへと旅立ちました。命がけで密航に臨んだ薩摩スチューデントたちは、広く世界を見聞して新しい文明をもたらし、さまざまな分野で日本の近代化に貢献しました。日本の近代化における転換点薩英戦争1863（文久3）年薩摩藩は鹿児島湾に現れたイギリス艦隊と激しい砲撃戦を展開し、思わぬ苦戦を強いられたイギリス艦隊は横浜に戻りました。その後イギリス公使館で生麦事件の賠償問題に対する講和談判が行われ和解が成立。交渉中に薩摩側がイギリス側に軍艦購入の周旋を依頼したことから、薩英の間に親密な関係が築かれていきました。五代友厚（写真右）1836～1885（天保6～明治18）年グラバーと合弁で長崎に小菅修船場を開設したあと、実業家としての手腕を発揮し、実業界に転じました。大阪の経済発展の基礎を整え、大阪株式取引所や大阪商工会議所の設立に尽力し、関西財界から大阪の父と仰がれました。尚古集成館所蔵近代化の舞台トーマス・ブレーク・グラバーは、長崎開港とともに21歳の若さでジャーディン・マセソン商会のエイジェントとして来日し、ロイド商会や香港上海銀行などの代理店も務めていました。1861（文久元）年に貿易会社であるグラバー商会を設立し、1863（文久3）年に長崎製鉄所を見下ろす南山手の丘の上に旧グラバー住宅を建設しました。グラバーの下には西南雄藩の藩士たちが西洋の最新技術の情報や武器を求め集い、幕末には明治維新の触媒となりました。さらに明治期に入ると、石炭･造船分野でいち早く蒸気動力を導入し、日本の近代化の先駆けとなりました。小菅修船場と高島炭坑の事業化を推進し、のちに三菱の顧問として経営に携わり、明治日本の産業発展に貢献しました｡長崎大学附属図書館所蔵長崎市所蔵旧グラバー住宅トーマス・ブレーク・グラバー1838～1911年グラバーと三菱幹部社員三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵

## Page 32
![Page 32の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-33.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

532営長崎造船所では、船舶の修理能力の増強が図られま官した。明治政府より任命された初代船渠長の平野富二（のちに石川島平野造船所を設立）は、長州ファイブの一人である井上馨と建議し、大型船を建造するため、立神浦に大船渠の開墾に着手しました。しかし1871（明治4）年、立神船渠は難工事により、未完成のまま工部権大丞の山尾庸三に引き継がれます。スコットランドのネピア造船所で修行を積んだ山尾は、1874（明治7）年にフランス人建築技師ワンサン・フロランを雇い入れ、長崎製作所2代目所長に幕末の思想家・吉田松陰の松下村塾最後の塾生で、グラスゴーで造船業を学んだ渡辺嵩蔵を任命しました。フロランは平野が手掛けてきた船渠工事の基本計画を再考し、小菅で船舶の修繕工事を指導したお雇い外国人でイギリス人修船頭ブレイキーが船渠の計画に助言し、計画の見直しを行いました。当初計画した船渠は長さ151.5m、上幅33.3m、潮下深さ6.1mでしたが、実際に建設された船渠、上幅26m、潮下深さ8.2mで大幅に変更されました。渠口部の仮締切が決壊して渠内に海水が流入する事故が発生し、開渠に向けての工程は大幅に遅れました。しかし難工事の末1879（明治12）年、東洋一の船渠の開渠に成功しました。開渠式には工部卿となった井上馨が臨席しました。幕府の下での長崎製鉄所の修船事業は、小規模なものに過ぎませんでした。明治政府は小菅修船場をグラバーから購入することにより、蒸気船を曳揚げ上架で修理する技術を得ました。そして立神船渠の開渠によって、艦船を本格的に修理できるようになりました。長崎は地の利を得て、外国船の入渠数が増えました。不凍港を持たず船渠設備を所有していなかったロシアのウラジオ艦隊は、艦艇の修理のため、たびたび立神に入渠しました。立神船渠は明治政府が当時東洋一の船渠を築造した証左です。これに続く第二船渠も蒸気動力によって築渠されましたが、1905（明治38）年に開渠した第三船渠は中央発電所の建設後、電化の象徴として築渠されました。設計は立神船渠に習い、立地の選定や構造なども類似しています。第三船渠は今も日本の最先端の艦艇修理技術を駆使し、未来に向かって稼働しています。立神船渠1879（明治12）年竣工三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵

## Page 33
![Page 33の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-34.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

TEP2◉西洋技術の導33S1,000トンの入約海洋国家日本の未来をリード長州ファイブ明治における官営期の長崎造船所の歴史は、日本で大型船を造船したいと願う長州五傑（長州ファイブ）の海を渡った志にさかのぼります。薩摩スチューデントより一足早く、造船王国イギリスに密航した5人の若者がいました。1863（文久3）年、伊藤博文、井上馨、山尾庸三、遠藤謹助、井上勝は「生きた器械になる」と意を決し、国禁を犯して、横浜からジャーディン・マセソン商会の準備した船でイギリスに密航しました。彼らは留学先で大英帝国の近代造船技術を見聞し、造船業と製鉄業に海洋国家日本の未来を託し帰国しました。明治新政府において、伊藤博文は総理大臣、井上馨は外務大臣、山尾庸三は工部卿、井上勝は鉄道庁長官、遠藤謹助は造幣局長になりました。長州ファイブは明治政府の中枢で明治日本の産業革命を主導しました。萩博物館所蔵修理能力を誇る1881（明治14）年建造中の小菅丸長崎造船所は小菅修船場が傘下に入ると約1,000トンの船舶を上架し修理する能力を得ました。船舶修理のほか木造汽船の建造も行い、活況を呈していました。小菅丸は鉱山局発注の木造汽船で、完成まで7年を要しました。三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵1884（明治17）年の小菅修船場の図面1887年（明治20）年に三菱へ払い下げられたあとも1953（昭和28）年まで稼働しました。三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵

## Page 34
![Page 34の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-35.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

6三菱の起源1870（明治3）年、土佐藩出身の岩崎彌太郎（前列左から2人目）が海運事業を興したことに始まります。34崎造船所は産業形成期において、幕府、明治政府、三長菱と主体を変えながら、背後の崖を切り崩し、前面の海を埋め立て拡張していきました。どの時代においても、西洋の最先端技術を導入し、科学的実験を産業の場に活かし、技術のイノベーションに取り組み、日本の産業をけん引してきました。日本の船舶技術は幕府がオランダ海軍に依頼し建設した洋式舶用機械修理工場に始まりましたが、近代的な造船業の基礎が築かれたのは1887（明治20）年、造船所が三菱へ払い下げになってからのことです。そこで三菱が誕生し、造船業に参入するまでの経緯を見てみましょう。土佐藩は倒幕の中心となった西南雄藩の一つで、幕末には土佐の産品を取引する開成館と称する商館を長崎などで経営していましたが、明治になると藩政改革の一環として大阪の開成館を閉鎖しました。土佐藩士で開成館に勤務していた岩崎彌太郎は、藩の承認を得て権利、負債一切を引き継ぎ、自ら海運業を営むことになりました。1870（明治3）年11月、社名つくもを九十九商会に改め、これが三菱の創業となりました。当時の持船は汽船6隻、曳船2隻で、そのほか社船、帆船、客船を合わせると11隻にのぼりました。民間会社の形式をとったとはいえ、実質はまだ藩の事業の継続で、彌太郎自身も土佐藩少参事の職にあり、社員のほとんどが旧藩士や同郷の縁故のものばかりでした。187（1明治4）年、廃藩置県が実施され、九十九商会の人々は職も禄も失いました。彌太（明治5）年、失職しこいちろうた士族を糾合して会社を組織し、幹部の川田小一郎、石川しちざいみつかわ七財、中川亀之助の3人の名前にちなんで、三川商会と改名しました。そして旧土佐藩士族の政治結社は、1873（明治6）年に三菱商会と改称して、彌太郎は自ら社主となり経営に乗り

## Page 35
![Page 35の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-36.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

TEP3◉産業基盤の確立35S三菱社章の変遷左から山内家の家紋、九十九商会の旗章、三菱の社章、岩崎家の家紋出し、1875（明治8）年には三菱汽船会社と社名を改めました。三菱の社章となっている三角菱は、九十九商会の時代から彌太郎らの汽船が採用した旗印で、土佐藩主山内家の家紋と岩崎家の三階菱を合成したものです。スリーダイヤの原型であり、社名を三菱と定めるきっかけになりました。三菱は政府系の日本国郵便蒸気船会社をはじめ国内企業自ら人をつくる三菱商会として海運業に乗り出した当初の彌太郎は、荷主その他の顧客に対するサービス第一という方針を掲げました。部下一同にその趣旨を徹底し、実行させるための苦労を次のように述べています。「元来会社は廃藩置県によって扶持を失った土佐藩士の同志的糾合によって成立したのであるから、社内には当然土佐人、それも主として下層武士層の者が多かった。したがって上級武士ほどではないが、気位は高く顧客に頭を下げるのが下手である」彌太郎はある日、石川七財に小判の絵を描いた扇子を与え、「客に頭を下げると思うな、この扇子にお辞儀をするつもりでやれ」と激励したという話が伝えられています。武士の権柄を捨てて商人になり切れというのが考えでした。そのため洋服の着用を禁じ和服に角帯を締めさせ、前垂れ姿で客に応対させました。あるとき、福沢諭吉が日本橋南茅場町の三菱事務所に立ち寄ると、店の正面に大きな「おかめ」の面が掲げてあり、社員はみな前垂れをかけて働いていました。ちまたの廻船問屋と変わりなく、政府の日本国郵便蒸気船会社の官員とも大違いです。すっかり感心した福沢は塾生に「殊に店の前に、おかめの面を掲げ店内に愛敬を重んじさせているのは近頃の社長にはできぬことだ」と大いにほめました。このおかめの面は現在も三菱の金曜会の宝物として三菱UFJ銀行丸の内支店の金庫に大切に保管されています。と激しい競争を展開しました。またアメリカの太平洋郵船会社と沿岸航路や上海航路で、イギリスのP&O汽船会社と上海航路で激しく争いました。彌太郎がこうした大手強豪と闘うことができたのは、西南戦争や台湾出征などの軍需に対応し、政府が購入した船舶を貸与され、軍隊と軍事品の輸送を引き受けることができたからです。おかめの面株式会社三菱UFJ銀行所蔵実業学校の開設明治期はなかなか教育も普及しておらず、外国人との貿易には英語や洋式簿記などが必要でしたが、学校卒業者でも経済学の知識や実務には暗く、事業経営には多くの困難が伴っていました。彌太郎は「自分の必要えいたいばしとする人物は自らつくるのだ」と言って、1875（明治8）年に東京永代橋で船員を養成する三菱商船学校（現在の東京海洋大学海洋工学部）、1878（明治11）年に東京神田錦町で幹部候補生を育てる三菱商業学校など、いろいろな教育機関を開設しました。長崎造船所では1899（明治32）年に工場のキーマンを育てる工業予備学校が設立され、義務教育を終了した10歳以上の生徒を対象に5年間教育し、技能とともに英語、数学、製図、造船工学、機械工学といった知識を習得させました。三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵三菱工業予備学校の卒業記念（左）と授業風景三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵

## Page 36
![Page 36の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-37.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

7崎彌太郎の時代は、まだ日本に船舶の技術が育ってい岩ませんでした。老朽船や海難修理など船舶の修理は、官営の横須賀製鉄所や長崎製鉄所に委託するか、あるいは上海やイギリスに回航して修理しなければなりませんでした。明治初期の日本は、洋式船舶の修理技術も人材も、工場設備も諸外国に遅れをとり、造船に必要な原材料も艤装品もほとんどが輸入品で、専門的知識と製造責任者は外国人技術者に依存していました。大型船舶の複雑な修理は外国人商人が独占し、修繕工事は日数も思うに任せず、増大する費用は海運会社の社業に支障をきたしていました。三菱が日本の造船業の担い手になった背景には、イギリスのパートナーとしての存在があります。海運業を営んでいた彌太郎は、イギリスの事業家と戦略的互恵関係を構築しました。当時イギリス海軍は七つの海を制する海軍力と、世界一の造船技術を保有しており、三菱に最先端の技術を提供しました。彌太郎は1875（明治8）年、銀10万ドルをボイド商会と共同飽の浦機械工場1885年（明治18年）ごろ長崎造船所の工場全体配置図三菱の経営が始まった1884（明治17）年当時の配置です。三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵36三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵御払下願1887（明治20）年4月、岩崎彌之助は大蔵大臣松方正義に長崎造船所の払下げを申請し、同年6月代金45万9,000円で許可を受け名実共に三菱所有となりました。三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵

## Page 37
![Page 37の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-38.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

TEP2◉西洋技術、横浜に造船業を開業し、三菱製鉄所と称しました。の導入出資して37Sボイド商会が機械類を上海から移し、イギリス人技師が運営しました。三菱製鉄所の設備能力は微々たるもので、新造船は小蒸気船にとどまりましたが、民間の造船所として先陣を切りました。自社船舶の修理を手初めに社外船に事業を拡大しました。三菱製鉄所では汽艇鷹号（7総トン）を建造し、三菱が新船建造に進出した始まりでした。なお日本で最初の民間造船所で朝夕に鳴らした汽笛は、横浜市民に標準時を知らせる時報として親しまれました。一方、明治政府は国力をつけるため、日本に工業を興そうと官営工場を次々につくりました。その殖産興業政策において、1880（明治13）年に工場払下概則を公布し、民間の経済力を増強するため、国策で興した官営工場を民間に払い下げました。彌太郎は官営長崎造船所の経営を民間に委ねる方針を知り、長崎造船局の貸与を願い出ました。長崎は横須賀に次ぐ規模の造船所で、長崎港は外国船の出入りも多い交通の要衝で西の玄関口でした。彌太郎はすでに高島炭坑を経営していたことから、長崎の地元事情にも精通していました。そして何よりも彌太郎は国の将来を先見し、長崎で造船所を経営する判断を下したのです。1884（明治17）年、三菱は長崎造船局を工部省より借り受け、名称を長崎造船所と改め、その土地、建物、機械設備一切を借用しました。職員42人、工員766人を引き継ぐとともに、従業員（職員、工員、雇外人を含む）、機械設備の一部を横浜の三菱製鉄所から長崎造船所に移し、能力の増強を図りました。さらに三菱は1885（明治18）年、海運業に関する資産一切を日本郵船会社に譲渡し、造船、鉱山、銀行などの業務に専念しました。そして1887（明治20）年、長崎造船所御払下願を提出し、施設を買い受けて長崎で造船業に乗り出すことになりました。長崎造船所の所長は、高島炭坑をはじめとする九州の各炭坑、三菱支店、造船所全経営責任を担っており、幹部は飽の浦に出勤しました。当初は小菅修船場と立神第一船渠における外国船の修理が中心でしたが、1887（明治20）年に高島炭坑用の貨客船夕顔丸を建造しました。長崎造船所初の鉄製汽船で、日本で初めて軟鋼製ボイラーを装備していました。夕顔丸を皮切りに、三菱は造船と造機の両面で、日本の重工業をリードしていくことになります。長崎造船所初の鉄製汽船三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵進水時（上）と終航時の夕顔丸三菱高島炭坑社向け貨客船で、1887（明治20）年に竣工しました。長崎と高島・端島炭坑を結ぶ連絡船として1962（昭和37）年まで75年間就航していました。三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵

## Page 38
![Page 38の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-39.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

column受け継がれてきた理念イギリスの近代経営に学ぶ岩崎彌太郎（1870〜1885）岩崎彌之助（1885〜1893）岩崎久彌（1893〜1916）岩崎小彌太（1916〜1945）社長名（在任期間）区分創業期育成期急成長期三菱完成期一般事項明治維新直後西南戦争日清・日露戦争第一次大戦38三菱関連事項社名海運会社・高島炭坑長崎造船所借受外国人技術者の登用九十九商会三川商会三菱商会郵船汽船三菱会社長崎造船所買収国内技術者の育成三菱社常陸丸建造・電化工場設備近代化・大型化主力艦建造蒸気タービン製造三菱合資会社各事業の飛躍的発展建艦技術の充実三菱の資本形成と多角化三菱合資会社三菱社（株）三菱本社三菱は岩崎彌太郎に始まり、彌之助（彌太郎の弟）、久彌（彌太郎の長男）、小彌太（彌之助の長男）の岩崎家4代社長の下、日本の基幹産業である造船業の土台を築きました。彌太郎の時代は、武士出身者が中心となって、イギリスから近代経営を学びました。1875（明治8）年に日本で初めて経理システムに商業簿記を採用し、イギリス人パートナーから近代企業経営の概念を受け入れました。三菱は日本で初めて1877（明治10）年に洋式の複式簿記を採用し、有形固定資産の耐用年数を定め毎期減価償却する、定額法償却の概念を取り入れました。1884（明治17）年には会計組織の中に複式簿記を取り入れ、帳簿および貸借対照表ならびに損益計算書などを作成しました。経理事務はイギリス人W.H.デバインが担当し、英文で記録していました。イギリスの事業パートナーより学ぶ企業経営の哲学は、三菱経営の基礎となりました。三菱商業学校を設立し経営事務を行う人材を育成すると、2代目彌之助の時代、三菱は明治政府の後押しの下、技術者を育成し西洋技術を吸収。海運業を切り離して三菱社を発足し、事業の柱を海から陸へと移して諸事業を多角的に展開していきました。3代目久彌の時代には、育った人材とインフラの整備により大きく技術が開花しました。造船所には電力がもたらされ、諸設備が近代化され、大型船の建造技術を確立しました。この時代、日本は純国産の三菱製品を自力で製造することができるようになりました。そして4代目小彌太の時代、三菱は国家経済の一翼を担い、海へ、陸へ、空へと事業が多角化し巨大資本の財閥へと発展しました。1930年代には経営の根本理念が「三綱領」として記され、その精神や価値観は今日においても脈々と息づいています。三綱領所期奉公とは期するところは社会への貢献、処事光明とは公明正大であることを心がけること、立業貿易とはグローバルな視野に立つことを示しています。三菱商事株式会社所蔵

## Page 39
![Page 39の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-40.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

STEP3産業基盤の確立造船大国日本を目指して三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵建設中の戦艦日清戦争と日露戦争を通して、日本の貧弱な海運力、海軍力を増強する機運が高まりました。大型船や軍艦を国内で製造するため、海軍工廠と民間造船所では生産基盤となる電力、水、通信施設などの産業インフラの整備が進みました。こうしたなか、イギリスの最新技術を積極的に導入した長崎造船所が、日本の造船業をけん引する担い手となりました。

## Page 40
![Page 40の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-41.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

840本の造船工業史を語る上で、近代造船の基礎を築いた日（明治28）年に始まります。明治政府は日清戦争後、造船業を日本の重要産業に位置付け、帝国議会で航海奨励法および造船奨励法が可決されました。法律は3月に公布され、4月に船舶検査法公布、9月に造船規程公布、10月に特定航路助成実施と、国策として相次ぐ政府の造船、海運への保護政策が実施されました。三菱に限らず国内の船会社は航路新設、大型船舶建造に踏み切りました。日清、日露の2つの戦争のなか、時代は日本の貧弱な海運力、海軍力の増強を宿望し、海軍工廠ならびに民間の造船所は巨船や軍艦を国内で製造するため、生産基盤の整備を急ぎ、電力、水、通信施設などの産業インフラを整備しました。三菱長崎造船所の歴史における最も重要な局面も、この1895（明治28）年以降に起きています。3代目社長岩崎久彌は189（3明治26）年、資本金500万円で会社を組織し、三菱合資会社の経営形態をつくりました。三菱が近代造船業としての土台を築いたのは合資会社設立後10年余の期間です。それまでの三菱社は鉱山、土地家屋、造船所、各支店の財産を三菱合資会社に譲渡し、機械設備、造船施設の拡張、組織の刷新を図りました。三菱長崎造船所は1896（明治29）年当時、生産性は極めて低く、修船と組立工場の主な部品や材料は、ほとんどイギリスからの輸入に依存していました。この時代の三菱は需要に応え、生産規模を拡大し、工場の電化を経て西洋からの最新飽の浦造機工場1898（明治31）年ころ三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵

## Page 41
![Page 41の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-42.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

TEP3◉産、産業システムを構築しました。また1897業基盤の確立設備や技術を導入し41Sしょうだへいごろう（明治30）年、所長に着任した荘田平五郎の下、会計制度のイノベーションを図り、工業会計ならびに原価計算組織が整備されました。三菱の高島炭坑から出炭された石炭は香港・上海市場に輸出され、外貨獲得に貢献しました。三菱合資会社時代、三菱はイギリスから最先端の技術を導入しました。その一方で国産製品を世に出すことを目標に、三菱の伝統的な産業文化の下、技術力を向上させました。この時代、長崎造船所は日本の造船産業史に残る画期的な記録を残し、近代造船業の基礎を築いた目覚ましい成長を遂げました。長崎造船所に起こった大きな変化は3つあげられます。第一に1897（明治30）年の工場の電化、第二に1898（明治31）年ひたちまるの国産最大の貨客船常陸丸の建造、第三に190（8明治41）年の長崎造船所の各時代の工場の機能と敷地面積三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵常陸丸が竣工した1898（明治31）年の長崎造船所工場パーソンズタービンのライセンス生産です。三菱は潤沢な資金で造船王国イギリスから最新設備を輸入し、1896（明治29）年まだ電気など十分な産業インフラが整わないなか、国産商船としては画期的な6,000トンの大型貨客船常陸丸を起工し1898（明治31）年に竣工しました。そして電力と水が生産現場にもたらされ、産業がシステムとして構築されました。1904（明治37）年には、まだ発明されて日が浅い蒸気タービンのライセンス契約をパーソンズ社と結び、1908年（明治41）に国産初の蒸気タービンが完成しました。三菱重工長崎造船所の本工場内の資産の構成部分（第三船渠、ジャイアント・カンチレバークレーン、旧木型場、占勝閣）は、いずれも三菱合資会社時代にイギリスから積極的に導入した技術を反映しています。長崎製鉄所（設立時）三菱経営開始時年代工場の機能工場の敷地面積1861年鋳物場、鍛冶場、工作場、轆轤（万延2）場、製缶場鋳物場、鍛冶場、工作場、木型場、組1884年立場、轆轤場、製缶場、銅工場、ポン（明治17）プ場、倉庫、小菅修船場、第一船渠三菱合資会社1897年鋳物場、鍛冶場、工作場、木型場、組立場、轆轤場、製缶場、銅工（電化時）（明治30）場、ポンプ場、倉庫、小菅修船場、第一船渠、第二船渠、中央発電所1万2,690㎡11万9,300㎡15万800㎡1909（明治42）年の長崎造船所全体の工場配置図船体寸法が次第に大きくなり、修船・造船の需要が膨らむなか1895（明治28）年に立神船渠延長工事竣工、1896（明治29）年には飽の浦に第二船渠が竣工しました。立神造船工場、飽の浦機械工場、事務所の拡張と長崎造船所は大きく発展しました。ものづくりの現場を変革した電力三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵産業システムが確立するのは事業現場に電力と水がもたらされたときです。1897（明治30）年、三菱は飽の浦に中央発電所を新設しました。自家発電により工場全般に点灯し、1901（明治34）年には生産規模の拡大に伴い、中央発電所を増強するとともに、立神発電所を新設し工場を電化しました。1900（明治33）年には水道を設けて工場および防火用水を供給する工場用水の貯水池を建設し、機械その他の危険個所に安全装置を設置すると、造船所内で安定的な電力とインフラの整備が急速に進みました。1907（明治40）年に三菱は労働環境も整備し、所内においても工員徽章を制定し、盗難予防、機密保持に備えました。三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵1909（明治42）年中央発電所内部

## Page 42
![Page 42の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-43.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

942常陸丸1898（明治31）年竣工三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵1898（明治31）年の夏、三菱は日本郵船の貨客船常陸丸を建造し、日本の造船史を塗り替えました。三菱では1896（明治29）年に第二船渠も開渠し、修理船の実績も一段と増していましたが、その飛躍の予兆は1895（明治28）年の須磨丸の建造にありました。日清戦争の戦時下で材料入手が困難ななか、三菱は当時すままる国内最大の貨客船須磨丸（1592総トン、主機835馬力、三連成機関）を竣工しました。当時の三菱は蒸気キャプスタンなどの施設もなく、入渠の際には曳船のため数百人の人夫を使い、鋼板も多くは手動で切断していました。法的整備が整ったとはいえ、三菱にとって大型船舶の建造は大きな挑戦でした。1897（明治30）年の電化以降、工場に明かりが点灯したあとも、飽の浦には十分な電力は行きわたらず、蒸気動力すら部分的にしか稼働していませんでした。作業員には作業服もなく、履ぞうりわらじろうそく物は草履や草鞋で、夜間はすべて蝋燭と石油ランプの灯明下で作業していました。飽の浦と立神は回路船便で連絡され、作業員の多くは手作業で船をつくっていました。三菱は灯明の明かりのなか、総力を上げて6,000総トンの大型船舶の建造に挑んだのです。常陸丸は欧州航路に就航する初めての船舶で、6,172総トン、速力14.18ノット、主機は当時日本最大の三連成機関2基3,847馬力で蒸気圧力200ポンド、両面円ボイラーを装備しまし

## Page 43
![Page 43の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-44.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

TEP3◉産業基盤の確立た（国内初）。三菱は常陸丸の船価を日本郵船がイギリスに発43S注した同型船と同一価格とし、技術者を先進国に派遣して新技術の習得に努めました。しかし、国際規格を満たす審査は容易ではありませんでした。審査はすんなりと許可が下りず、国際規格に合致している船舶第1号として認められるため、イギリスのロイド船級協会が派遣したロバートソンという検査官とリベットの打ち方について事の是非を争いました。そしてロバートソン検査官の指摘に対応するため、60万本余りのリベットを打検し、打ち直して再検査に臨み、イギリス産の貨客船と遜色がないと、ロイド国産初の三連成蒸気機関三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵三連成蒸気機関蒸気の持つエネルギーでシリンダーのピストンに往復運動を起こし、さらにピストンの往復運動を回転運動に変えるのが三連成蒸気機関の原理です。蒸気機関車と同じく往復動機関の原点と言えます。に認められることに成功しました。黒船の来航から45年、日本で初めて国際規格を満たす船を日本郵船に納入することができました。当時1,000総トン級の建造経験しかない三菱が、電力が十分でない時代に一躍6,000総トン級の巨船を完成したことは奇跡に近く、日本の造船史上特筆すべき挑戦でした。常陸丸の建造以降、産業インフラの整備をし、造船所の規模は急速に拡大しました。三菱は工場の電化に伴い、イギリスよりジャイアント・カンチレバークレーンを含む、造船施設や設備を購入し、木造の工場も鉄骨と煉瓦造に強化しました。長崎造船所建造船の主な蒸気往復動主機船名船種竣工年総トン数往復蒸気機関馬力夕顔丸貨客船1887206二連成330筑後川丸貨客船1890610三連成520須磨丸貨客船18951,592三連成835常陸丸貨客船18986,172三連成3,847阿波丸貨客船18996,309三連成4,080加賀丸貨客船19016,301三連成5,365若松丸貨客船19022,778四連成2,259日光丸貨客船19035,539三連成6,694白露駆逐艦1906381排水トン三連成6,0001853（嘉永6）年、アメリカ合衆国東インド艦隊が煙を吐きながら浦賀に来航した際、2隻には蒸気往復機関が搭載されていました。当時西洋の蒸気船の舶用動力は蒸気往復機関でした。官営時代の蒸気往復機関は、いずれも小出力の単筒あるいは二連成機関（シリンダーが2個あり、1回膨張させた蒸気をもう1回、次のシリンダーに入れて膨張させ、ピストンを働かす方式の機関）から始まりました。三菱の造船業の飛躍は、1888（明治21）年の大阪商船から貨客船筑後川丸、木曽川丸、信濃川丸の3隻を受注したことに始まります。三菱による長崎造船所の経営開始から6年後の1890（明治23）年、筑後川丸用に520馬力の日本初の三連成機関を製造しました。当時の長崎造船所では修船事業が主軸で、大型船舶を本格的に建造するには造船設備が不備であったため、三菱はこの3隻建造のために造船工場を新設しました。三菱初の造船業への大規模生産設備投資です。筑後川丸は610総トンですが、鋼船汽船であるだけでなく、主機も国産初の三連成機関（520馬力）で、造船業界に画期的功績を残しました。そして1895（明治28）年には日本最大835馬力三連成機関（須磨丸用）を完成し、その記録を更新。次いで1898（明治31）年の常陸丸用主機は三連成機関で出力3,847馬力であり、形式、馬力共に欧米の造船所に遜色がない技術力でした。当時は艦艇も蒸気往復機関を主機に使用しました。1906（明治39）年長崎造船所建造の駆逐艦白露の主機は出力6,000馬力の三連成機関でした。また1908（明治41）年建造の商船北野丸の三連成機関は出力8,935馬力でした。三菱は造機部門で次々と記録を塗り替えていきました。筑後川丸の進水1890（明治23）年鋼船汽船で国産初の三連成機関を搭載していました。三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵

## Page 44
![Page 44の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-45.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

10菱が歴史を変える技術力を本格的に習得したのは、イ三ギリスのパーソンズ社との舶用蒸気タービンの独占ライセンス契約による製造販売権の獲得にあります。チャールズ・アルジャーノン・パーソンズ博士は、1884年に蒸気タービンを発明し、1897年にはポーツマスのヴィクトリア女王の観艦式で蒸気タービンを搭載した実験艇タービニア号のデモンストレーションを行いました。パーソンズ博士の発明した蒸気タービンは、鉱山の排水のために最初の実用的な蒸気機関を建造したトーマス・ニューコメンの蒸気機関を改良し普及させたジェームス・ワットとともに、世界を変えた産業革命の一つとして世界の産業史に記録されています。パーソンズ博士がニューカッスルで海軍艦艇用舶用蒸気タービンの専用工場を建設すると、三菱は時を待たずして1904（明治37）年、舶用および陸用の蒸気タービンのライセンス契約を締結しました。加えて1906（明治39）年、陸用タービンの発電機のライセンス契約を締結し、陸用・舶用タービンを一手に国内で独占製造販売することになりました。以来、長崎造船所に外国人技術者を受け入れ、技術者を現地に派遣し、技441909（明治42）年のタービン工場三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵

## Page 45
![Page 45の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-46.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

TEP3◉産業基盤の確45S立国産初の陸用蒸気タービン術を習得させました。三菱はパーソンズ社よりタービンを輸入し、まずは自社製品に使用をすることから始めました。特筆すべきは、タービンの輸入と自社製品製造までの期間が短いことにあります。三菱は陸用・舶用タービンのライセンス契約締結後、わずか4年で製造技術を習得し、自社生産にこぎつけたことです。そのころ、三菱は東洋汽船よりサンフンシスコ線の改善にあたり、客船天洋丸、地洋丸、春洋丸の3隻を受注しました。三菱は主機として舶用パーソンズ蒸気タービンを輸入して、天洋丸と地洋丸に搭載しました。両船は1908（明治41）年に相次いで竣工しました。いずれも1万3,400総トン、1万9,000馬力、速力20.6ノット、日本初のタービン汽船で世界有数の豪華客船でした。そのあと1911（明治44）年に竣工した春洋丸では主機を国産化しました。国産タービン第1号は、帝国海事協会の義捐金で建造した義勇艦桜丸（190（8明治41）年竣工）でした。有事の際、補助巡洋艦として転用するため、海軍が開発し、三菱で製造されました。海軍技術将校だった宮原二郎が発明した宮原式水管ボイラーを使用し、3,200総トン、9,000馬力、速力は21.3ノットの快速でした。また東洋汽船の紀洋丸（1910（明治43）年竣工）は1万820重量トン、日本初の国産大型油槽船です。いずれも日本舶用機械分野での新記録を樹立しています。なお、英国海軍最強の戦艦といわれるドレッドノード（1905年竣工）はパーソンズ社製タービンを搭載したことで名高いのですが、やはぎ国内でも最上、山風、矢矧、金剛、霧島、日向など、日本海軍の艦艇にもパーソンズの蒸気タービンが多く搭載されていました。三菱は国産舶用パーソンズタービンを製造し、艦艇の修理建造技術を保有する数少ない民間企業でした。三菱が大型艦艇を本格的に建造する能力を装えるのは、1915（大正4）年の霧島建造以降になります。日露戦争で日本海軍が日本海海戦に勝利したとき、国内の艦艇はほとんどが外国建造艦でした。その後、大型艦艇の国産化を目指し、イギリスの建艦技術をいち早く取り入れ、日本は海軍工廠で国内生産を開始しました。民間企業である三菱は、のちの時代、民間企業でありながら海軍工廠に匹敵する建艦能力を装備しました。進水前の天洋丸1907（明治40）年造船史に残る1万総トンを超えた日本初の大型客船で、パーソンズ社製の蒸気タービンを搭載していました。炭鉱でも導入された陸用蒸気タービン三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵霧島タービンローター1913（大正2）年製造中三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵現在の長崎造船所のタービン工場三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵撮影：内山英明／一般財団法人産業遺産国民会議所蔵陸用タービンの発電機は1906（明治39）年、パーソンズ社から輸入し、出力500kWのものを長崎造船所発電所へ据え付けました。国産蒸気タービン発電機第1号は1908（明治41）年、500kWタービン発電機で、同様に造船所の自家発電に使用しました。引き続き同年、同容量機4号をつくり、三なまずた菱佐渡鉱山、新入炭鉱に各1台、鯰台を納めました。長崎造船所の中央発電所用として1920（大正9）年まで使用されました。三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵長崎県所蔵

## Page 46
![Page 46の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-47.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

111910（明治43）年日英博覧会での三菱ブース46三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵長崎造船所の模型三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵菱は民間事業者として西洋の事業パートナーと連携し、三家族的労務管理の上に近代経営体制を確立し、組織力で産業の担い手を社内に育成しました。常陸丸建造、電化、パーソンズ社とのタービンのライセンス契約以降、パートナーの協力も得ながら建造能力を蓄え、大規模な試験場を社内に建設し、社内で特許を競争させ、科学の発見を短期間で製造の現場に活かしました。日露戦争中はもちろん、戦後の不況時においても長崎造船所はなお活発に拡張しました。1905（明治38）年、三菱は八軒山を崩して第三船渠を建造しました。身投鼻を崩して木材置き場と製材工場を建築し、第二・第三船渠を隔離する山に隧道をつくって渠頭を連絡し、立神に木工場と木材乾燥場を設け、飽の浦と立神を連絡する鉄道を敷設して汽車を走らせました。また飽の浦の海岸をさらに埋め立て製缶工場、水の浦を買収して新事務所と製図場、平戸小屋（当時海軍の貯炭場）を譲り受けて電気工場、浦上には新たな製鋼場を建設しました。さらに、立神にはガントリークレーン、飽の浦に大型電動旋回起重機を導入しました。日英同盟が190（2明治35）年に締結されて以降、イギリス海軍は日本で大型船を設計できる人材を育成しました。特に軍艦の設計では積極的に人事交流が行われました。長崎造船所は明治後期には、設計から施工まで全ての部材を一つの組

## Page 47
![Page 47の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-48.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

TEP3◉産、組み立てができるようになり、初めて近代造船業業基盤の確立織で供給し47Sとして国際社会に肩を並べることができました。三菱は進取の気性に富む創業者の精神を受け継ぎ、家族的労務管理の上に近代的な経営体制を確立し、産業の担い手を社内に育成しました。イギリスの事業パートナーからの技術導入を積極的に行うとともに、純国産三菱式技術の開発を目指しました。西洋の産業技術を三菱の産業文化の下に応用と実践を繰り返し、産業力で日本をけん引しました。明治日本の船腹量は1893（明治26）年の約11万トン（680隻）設計から施工まで造船技術の自立造船設計風景1909（明治42）年撮影から、日清戦争後の1895（明治28）年には約2倍の約21万トン（827隻）に増加しました。さらに1907（明治40）年の船腹量は約107万トンとなり、当時世界の約3％を占め、世界第6位の海運国に発展しました（いずれも帆船を除く）。そして第1次世界大戦後の日本の建造能力はイギリス、アメリカに次ぐ世界第3位となり、船舶の国産比率が日清戦争前の約3割から約9割にまで高まりました。日本の造船業は明治末ころに設計技術と建造技術が一人前といえる状況に近づき、近代化の礎となりました。船型試験場1908（明治41）年撮影三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵木工場1909（明治42）年撮影鍛冶場1909（明治42）年撮影三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵電機工場1909（明治42）年撮影機械工場1909（明治42）年撮影三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵

## Page 48
![Page 48の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-49.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

構成資産の価値100年の歳月を経て今なお稼働を続ける48加藤康子撮影・所蔵ジャイアント・カンチレバークレーンからの長崎港の眺め明治日本の産業革命遺産を構成する8つの長崎の資産のうち、占勝閣、旧木型場、第三船渠、ジャイアント・カンチレバークレーンの4つは三菱重工業長崎造船所内に立地しています。対岸には同社所有の通称そろばんドックとして親しまれている小菅修船場があります。沖合には日本で初めて蒸気動力が導入された高島炭坑と、遠望軍艦シルエットに見える端島炭坑があり、いずれも三菱の経営傘下にありました。また対岸の斜面が切り開かれた小高い丘の上には、スコットランド商人グラバーの邸宅があります。長崎は三菱の経営と深く関わってきました。ここでは100年の歳月を経て今なお長崎造船所で稼働を続けるジャイアント・カンチレバークレーンと第三船渠の歴史的な価値を読み解きます。

## Page 49
![Page 49の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-50.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

構成資産の価値4920世紀初頭に建設された世界で最古の現役稼働ジャイアント・カンチレバークレーン1909（明治42）年に設置された150トンの吊上げ能力を有するジャイアント・カンチレバークレーンは、同型として日本に初めて建設された当時最新式の電動起重機です。スコットランドのアップルビー社（のちのサー・ウイリアム・アロール社）で製造されました。三菱合資会社時代、造船所の設備電化に伴い導入されました。当時最新鋭の機種で大型舶用装備品の荷重に耐え、電気モーターで駆動しています。組立施工はスコットランドのマザーウェルブリッジ社が実施しました。今なお当時の吊り上げ能力を維持し、蒸気タービンなどの出荷に現役で使用されています。現在のクレーンは最初の位置から150m東、水の浦岸壁に1961（昭和36）年に移設されました。1960～63（昭和35～38）年に三菱長崎造船所は機械部門、特に三菱ウエスチングハウス式大型発電用タービンの生産に対応するため、タービン工場を拡張することとなりました。海面を埋め立てるとともに、クレーンは飽の浦から離れた水の浦岸壁横の海上に移設されました。移設位置はタービンなどの重量物の運搬台車路が設置できる位置を選定。クレーンは解体し、150トン海上クレーンなどで移設。支持岩盤が深いため、海底より下の岩盤に直径4mの円柱形の基礎を4本設置し、その上部の地上レベルにクレーン本体基礎を鉄骨コンクリート構造で建設しました。スコットランド文化庁アドバイザーでサーウイリアムアローズコレクション研究の第一人者であるブライアン・ニューマン博士の調査によると、ジャイアント・カンチレバークレーンの同型機は当時、世界に50基設置されていました。起重機はそれぞれ特徴があり、現在世界に残っているのは数少なく、本機は世界的に希少価値が高いと評価されました。日本には本機を含め1913（大正2）年までに同型が5基（3基は現存）導入されました。世界で同型は11基が現存していますが、本機はスコットランドが国外に輸出し設置した最初の事例で、稼働している世界最古のものです。1928（昭和3）年に出版された三菱長崎造船所史の表紙にも描かれ、造船所の誇りでもありました。現在も世紀を超え、長崎湾のスカイラインに異彩を放っています。電動起重機1905～12年の7年間、世界で製造されたジャイアント・カンチレバークレーンは15基ありました。日本では長崎と横浜のほか、横須賀、呉、佐世保の3つの海軍工廠に、全5基が導入されました。民間造船所で当時商船を製造していたのは三菱長崎造船所と川崎造船所だけでした。三菱長崎造船所のクレーンはイギリス以外で初めて外国へ出荷され、日本国内で最初に設置されました。民間でありながら当時最新の機器を導入した三菱の産業資本力と、いち早く電化が進み、工場設備が近代化され、大型船の建造・修理設備が整備されていました。横浜には当時のクレーンが現存していますが、現在も稼働しているのは、長崎造船所と佐世保重工業のジャイアント・カンチレバークレーンのみです。三菱長崎造船所では、現在も重機類の船積みの荷役用途でクレーンを日常的に利用しています。三菱重工業株式会社長崎造船所所蔵1913（大正2）年ごろの長崎造船所ジャイアント・カンチレバークレーン日本で1913（大正2）年までに設置された電動起重機設置年など設置場所定格荷重製造メーカー1909（明治42）年設置・現存三菱長崎造船所150トン／20トンApplebys（イギリス）1908（明治41）年製造1910（明治43）年設置・解体1909（明治42）年製造1911（明治44）年設置・解体呉海軍工廠横須賀海軍工廠200トン／30トン200トン／30トン1913（大正2）年設置・現存佐世保海軍工廠250トン／30トン1913（大正2）年設置・現存横浜港50トンCOWANGS（イギリス）CowangsSheldon（イギリス）COWANGS（イギリス）CowangsSheldon（イギリス）WILLIAM（イギリス）WilliamArrol（イギリス）COWANGS（イギリス）CowangsSheldon（イギリス）

## Page 50
![Page 50の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-51.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

電化による急速な大型化を実現第三船渠加藤康子撮影・所蔵50加藤康子撮影・所蔵撮影：内山英明／一般財団法人産業遺産国民会議所蔵三船渠は、明治後期における船舶の急速な大型化と設第備電化の中で建造されました。1901～0（5明治34～38）年にかけ、入り江の地形を利用して背後の崖を切り崩し、固い岩盤の上に石を組み込み、前面の海を埋め立て、両舷が崖となっている地形に築渠されました。第三船渠の竣工に合わせて、渠頭部分に飽の浦に通じる隧道をつくり、造船所構内通行の利便性も大幅に改善されました。国内でも数少ない現役の産業施設で、山が迫る限られた土地において、船舶の大型化に合わせて竣工後現在に至るまで、194（3昭和18）年、195（7昭和32）年、196（0昭和35）年の3回にわたって拡張されてきました。作業動線の生産効率と利便性が高く、現在も船の修繕に使用されています。

## Page 51
![Page 51の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-52.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

構成資産の価51値明治日本のドックの進化表1乾船渠の規模比較船渠竣工年築渠場所動力船渠長さ船渠幅船渠深さ三重津海軍所1863（文久3）年早津江川人力60m21m3.8m横須賀第一船渠1871（明治4）年横須賀本港蒸気123m25m8.4m三菱長崎造船所第一船渠1879（明治12）年長崎港蒸気129m26m8.2m横須賀第二船渠1884（明治17）年横須賀本港蒸気157m29m10.3m呉第一船渠1891（明治24）年呉港蒸気131m23m10.8m佐世保第一船渠1895（明治18）年佐世保港蒸気141m30m11.8m三菱長崎造船所第二船渠1896（明治29）年長崎港蒸気112m20m9.4m呉第二船渠1898（明治31）年呉港蒸気158m38m12.4m舞鶴第一船渠1904（明治37）年舞鶴東港電気207m26m12.1m三菱長崎造船所第三船渠1905（明治38）年長崎港電気222m27m12.3m横須賀第四船渠1906（明治39）年横須賀本港電気220m26m10.5m呉造船用船渠1912（大正元）年呉港電気309m45m10.1m表2第1次世界大戦直後の修船渠の分布（商船用）明治期、予算も施工技術も限られるなか、船渠（ドック）が築造された地形は共通しています。自然の地域名イギリス＊アメリカ日本フランス＊スウェーデンノルウェードイツオランダベルギースペインポルトガルイタリアロシア中国などアジア他の欧州とエジプト中南米合計乾船渠30758583622201513126191010586浮き船渠38892513431852102103240船架240805207549168132623323590入江は築渠に有利で、渠口に水深が確保でき、岩盤が浅く、陸側は崖のため、船渠築造の仮締切工事に適していました。欧州の船渠は河川の河口の軟弱な地盤に建造されていますが、明治日本の船渠の大半は岩盤を掘削し建造しています。三重津海軍所が筑後川流域に構築した日本で最初の乾船渠（ドライドック）ですが、三菱長崎造船所のその規模と対比しても、日本の産業化のスピードがわかります（表1）。明治期、長崎造船所では第一船渠（1879（明治12）年）、第二船渠（1896（明治29）年）、第三船渠（1905（明治38）年）と順次開渠しました。全国的に見ると、主な大型乾船渠は横須賀を始まりとして、呉、佐世保、舞鶴など海軍工廠を中心に開渠されていきました。日本の乾船渠の数は、1919（大正8）年時点でイギリス（植民地を含む）に次いで多く、フランスを上回っており、当時の日本の造船設備の急速な充実ぶりが伺われます（表2）。修繕ドックは一般的に乾船渠（陸地に適宜海水を出し入れできるような掘割をつくり、船を入れてから排水して修理する）、浮き船渠（水を入れて船渠を沈め、船を載せたのち、排水して浮き上がらせ修理する）、船架（船を台車に載せて陸上に引き揚げて修理する）の3種類があります。日本では外国に比べて乾船渠の比率が浮き船渠、船架より多いのが特徴です。船渠を建設する港などは入江になっている場所が多く、また丘陵に囲まれて船渠を築造するのに適した範囲は、地盤が比較的浅いことから、大型の乾船渠が多く築造されたと考えられます。船架は船の引き揚げと滑り降ろしのため、船架前面に静穏で広い海域が必要となります。また浮き船渠は、接岸できる水深の深い岸壁が必要となります。三菱は明治期に3基の乾船渠の開渠と共に東洋一の造船所に成長を遂げました。第三船渠は蒸気機関を利用した第一・第二船渠とは異なり、開渠時にシーメンス社製（イギリス製）の電気モーターが設置されました。三菱の造船所が電化による急速な産業化を経て産業力をいち早く充実させたことを示出典：広井勇「築港（下）」第三版、123-124頁、1919年発行表中＊の国には植民地を含むしています。竣工時に設置された電気モーターと排水ポンプは4台のうち3台が100年の歳月を経て今もなお現役です。造船工業力のなかった日本が、大型船舶の修船と造船技術を獲得した明治日本の産業革命の道程を物語っています。面影を残すドック大型タンカー日章丸の進水式1962（昭和37）年、佐世保重工業第4ドック（1941（昭和16）年竣工の佐世保海軍工廠旧第7船渠）で行われました。佐世保重工業株式会社所蔵明治時代に建造された民間事業者の大型乾船渠で、現在でも乾船渠として使用されている船渠は、三菱重工業長崎造船所第三船渠と函館どつく株式会社一号船渠だけです。函館どつく一号船渠はコンクリートブロック造りの船渠で、1903（明治36）年に竣工しました。また1935（昭和10）年に三菱と合併した横浜船渠には、1897（明治30）年竣工の二号船渠、1899（明治32）年竣工の一号船渠がありますが、いずも稼働を停止し、ドックヤードガーデンなどに用途を変え、商業施設の一部として保全されています（重要文化財）。民間造船所の工場設備で、現在文化財として登録されている他の船渠にドックヤードガーデン（旧横浜船渠第2号ドック）海軍技師・恒川柳作の設計により、1895（明治28）年に着工、1896（明治29）年に竣工。1973（昭和48）年に民間商用ドックとしての役割を終えたあと、1993（平成5）年に横浜ランドマークタワーの敷地内に復元され、コミュニケーションスペースとして利用されています。は、川崎造船所の第一船渠があるものの、1995（平成7）年の阪神・淡路大震災で破損し、ドライ機能が保全できていません。さらには浦賀造船所の川間船渠、浦賀船渠もありますが、いずれも閉鎖されています。海軍工廠が前身であった横須賀（1～5号）、呉（3号船渠）、舞鶴（10号、2号）、佐世保重工業（6基）は現在も稼働しています。明治時代、日本が貧弱な海軍力を憂い、海軍力増強のために建造し、今も比較的新規の設備投資をせず築渠した乾船渠を維持しています。これらの資産は、急速な産業化を代表する民間資本の産業力とは異なった質のものであるため、明治日本の産業革命遺産の構成資産には含まれていません。

## Page 52
![Page 52の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-53.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

造船技術の航跡日本の造船技術は20世紀以降、どのように発達してきたのでしょうか。その軌跡をたどりながら、オピニオンに歴史的意義を解説していただきました。産業技術の革新をもたらした海軍工廠防衛省海上自衛隊幹部学校本名龍児52旧呉鎮守府庁舎（現在の海上自衛隊呉地方総監部第一庁舎）先進技術の獲得のための研究開発に注力本海軍の技術獲得にかかる一連の努力は、一貫して日日本の近代化と産業技術のイノベーションを牽引し、貢献してきました。この貢献による産物には、現代にも伝わるものがあります。その過程をたどってみましょう。日本の海軍力形成および発展に大きく寄与した日英同盟も、日露戦争終結から約20年後に終焉を迎えます。その後の新たな世界秩序形成のために開催された1921（大正10）年のワシントン会議においては、各国の主力艦保有数に制限を求めるいわゆる「ワシントン軍縮条約」が締結され、各国とも兵力の整備にあっては、「量より質」が求められることとなりました。また、新たな技術という点では、第一次世界大戦中にイギリスが実用化した音波探知機であるソーナーや通信電子機器の萌芽があり、技術獲得のための研究開発に一層、注力することとなります。日本海軍にあっては、それまで造船、航空機、搭載武器の分野で別個に保有していた研究所を統合し、1923（大正12）年に海軍技術研究所として発足させることで、中央における技術獲得のための研究開発態勢を強化しました。当時は、国産の戦艦を建造できるようになっており、造船技術は欧米に追

## Page 53
![Page 53の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-54.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

船技術の航跡民間造船所との連携53造資料提供：大和ミュージアム戦艦大和1941（昭和16）年竣工史上唯一46センチ砲を搭載した6万5,000トンの世界最大の戦艦で、呉海軍工廠で建造されました。3万枚もの設計図を調べ、リベット609万72本、溶接全長34万7,564m、水圧試験の区画数1682という数値をもとに、各工場別・各職区別に工数予定をグラフ化する工程管理が行われ、生産能率を高めました。2番艦武蔵は三菱長崎造船所、3番艦信濃（空母）は横須賀海軍工廠で建造されました。いつく一方、通信機器などは欧米に一日の長があり、日英同盟の終焉に伴い、ドイツとの技術上の連携を強化していきます。これに対し、地方には海軍省の出先機関であった横須賀、呉、舞鶴、佐世保の各鎮守府傘下に海軍工廠が従来から置かれ、造船や修理、実験に係る部門が存在し、現場での造修整備に任じていましたが、中央・地方の連携強化が一層図られました。資料提供：大和ミュージアム軍艦の造船は、海軍工廠のみで行われたのではなく、民間の造船所でも行われていましたが、このことはさまざまなスピンオンおよびスピンオフの場となりました。現代においては、軍事技術の獲得に際して、民生分野への軍事技術の応用をスピンオフ、軍事技術にも応用可能な民生技術の展開をスピンオン、民生にも軍事にも用いることができる技術をデュアルユースと整理しており、この視点から述べていきます。日本海軍が建造した最後の戦艦となった大和型を例にとれば、「大和」は一番艦として、海軍技術研究所やその上部機関である艦政本部との連携の必要性から、呉海軍工廠で建造されていますが、二番艦「武蔵」は三菱長崎造船所で建造されています。ここでは、両艦の建造過程を見ることで、海軍工廠の造船技術向上への貢献や海軍工廠と民間造船所との呉海軍工廠でブロック建造された水上機母艦千歳連携を紹介します。呉海軍工廠は、「大和」建造時に船体を部分単位で建造し、接合させるブロック工法を採用するとともに、部品共通化などの生産管理上の工夫を取り入れています。これらは当時の日本の造船技術向上に寄与したと言えます。三菱長崎造船所でつくられた「武蔵」にあっては、建造にあたり、海軍側と会社側の連携という課題がありましたが、当時の「武蔵」に求められた秘密保持の厳格さは、従来の民間造船所で建造された軍艦の比ではなく、技術上の連携に加えて、長崎の民間造船所において、民間の技術者や工員も含めてどのように秘密保持を徹底させるかが課題でした。そのため、

## Page 54
![Page 54の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-55.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

54海軍側からより多くの監督官を派出し、技術上の連携はもとより、秘密保持を徹底させることにも目を光らせることで緊密な連携を図っていたとされています。また、そのような厳正な秘密保持態勢の中にあっても、三菱長崎造船所からも「大和」建造中の呉海軍工廠に技術者を派遣し、建造状況を見学させることで、海軍からの技術の獲得を図っていました。同型艦である「大和」と「武蔵」においても、こうした建造過程の差異や時期により、異なっている点が幾つかあったと言われていますが、これを示す艦の居住性に関する興味深いエピソードがあります。「大和」「武蔵」共に、居住性は良かったと言われていますが、同時期に両艦に乗艦した連合艦隊司令部参謀の中には、「武蔵」の方が、より快適であったとの証言が残されています。その要因としては、客船を手掛けていた民間造船所が居住区画の内装に長けていたことや入手できる調度品の質が高かったことなどが考えられます。戦後の技術との融合大和型戦艦の建造を例にスピンオンおよびスピンオフを通じた海軍と民間の連携を見ましたが、戦後においては、これらの戦前から培われてきた生産管理方式、工法、技術が、戦後の技術と融合し、世界最大のタンカーを数多く建造するなど、我が国が戦後約10年で世界一の造船国へ発展する要因の一つとなったといえます。海軍が残した技術上の遺産として、現代にも伝わっているものは多く存在しています。ここでは、現代にも伝わるスピンオフの例を艦船の主要な構成要素（船体、機関、通信電子、武器）別に紹介します。艦船の骨格をなす船体においては、大和型戦艦で採用された球状船首（バルパスバウとは造波抵抗を打ち消すために、喫水線下の船首に設けた球状の突起のこと）が戦後も大型タンカーなどに採用され、海軍工廠の施設と人員の一部を引き継いだ石川島播磨重工（当時）によって、海軍からの技術が直接的に受け継がれています。また、同様にブロック工法およびこれに関連した早期艤装技術と溶接技術も、同社によって戦後の造船技術に引き継がれました。艦船の原動力である機関の分野においては、ディーゼルエンジンにかかる技術が船舶のみならず自動車などにも引き継がれています。当初、日本海軍は大和型戦艦にディーゼルエンジンを搭載する方向で研究開発していましたが、性能が要10分の1戦艦「大和」バルバスバウ求を満たさず、蒸気タービンエンジンを採用しています。しかしながら、小艦艇にディーゼルエンジンを採用することは実現しており、これらの技術は、戦後も受け継がれました。海軍技術研究所では、レーダーの研究開発に力を入れておりましたが、従事していた技術士官の多くは、戦後、電子機器メーカーに就職しており、海軍のレーダー技術は、レーダーのみならず、ラジオやテレビなどを含めた多くの分野で活かされました。意外なことには、武器に関する海軍の技術は、より身近な生活に活かされています。戦艦主砲の旋回部に用いられた技術は、ホテル・ニューオータニの回転展望レストランに応用されました。また、艦上戦闘機に搭載された武器の開発を担当した技術士官は、戦後、その経験を活かすとともに、担当していた機器の作動に着想を得て、初期の胃カメラを医師との共同により開発しています。さらに軍艦において、距離を測定するために用いられた測距儀や潜水艦潜望鏡の技術は、NIKONのレンズに活かされています。このように、海軍が民間との連携において、スピンオンとスピンオフを通じて獲得した技術は、現代にも伝わるものが多くあり、明治以降の日本海軍の充実とこれによる産業の強靭化の成果は、脈々と受け継がれているものといえます。今後も、防衛と民生の双方に活用可能なデュアルユース技術獲得のための産官学の連携を通じて、防衛装備品の充実、防衛産業の強靱化への努力が継続され、ひいては日本全体での技術のイノベーションを下支えしていくことが期待されます。参考文献・千田武志『呉海軍工廠の形成』錦正社2018年・丸古玲子『呉本海軍、空襲、大和。ふるさと11人のインタビュー』ちょうちょう人間2018年・中川靖造『海軍技術研究所』日本経済新聞社1987年・吉村昭『戦艦武蔵』新潮社1973年資料提供：大和ミュージアム

## Page 55
![Page 55の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-56.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

船技術の航跡海上保安庁の役割と船艇55造造船技術の航跡上保安庁は国土交通省の外局として設置されており、海「海上の安全及び治安の確保を図ること」を任務としています。この任務を果たすため、広大なわが国周辺海域を舞台に、国内の関係機関のみならず、国外の海上保安機関などとも連携・協力体制の強化を図りつつ、治安の確保、海難救助、海洋環境の保全、自然災害への対応、海洋調査、海洋情報の収集・管理・提供、船舶交通の安全の確保等、多種多様な業務を行っています。海を守る安全と治安を確保する海上保安庁海上保安庁所蔵巡視船海洋秩序の維持、海難救助、海洋汚染や海上災害の防止、海洋汚染の監視取締り、海上交通の安全確保を任務としています。わが国にとって「海」は国境であり、海上輸送の交通路であり、また水産資源を生み漁業などの活動の場となっているだけでなく、海を仕事場としない国民にとっても、マリンレジャーを楽しむ憩いの場として昔から親しまれてきました。海上保安庁は、このような海の安全・安心を実現するために、昼夜を分かたず、日々あらゆる現場で業務を遂行しています。海上保安庁では、2020（令和2）年度末現在、477隻の船艇と87機の航空機を保有しています。船艇については、巡視船艇、測量船、灯台見回り船などに分類されており、巡視船艇（382隻）は全国に132カ所ある海上保安部署などに配備され、海洋秩序の維持、海難救助、海上災害の防止、海洋汚染の監視取締り、海上交通の安全確保に従事しています。また、測量船（15隻）は海底地形の測量、海流や潮流の観測、海洋汚染の調査などに、灯台見回り船（6隻）は灯台、灯浮標、電波標識などの航路標識の維持管理にそれぞれ従事しています。課題と今後の抱負海上保安庁が直面する多岐にわたる重大な事態は年々多様化しています。尖閣諸島周辺海域においては中国海警局に所属する船舶をほぼ毎日確認し、領海侵入も繰り返され、中国海警局に所属する船舶の大型化、武装化、増強も進んでいます。日本海の大和堆周辺海域では、北朝鮮漁船や中国漁船による違法操業が後を絶たず、北朝鮮公船も同海域で確認されております。沿岸部では、遭難した北朝鮮漁船の漂着や北朝鮮からのものと思料される漂流・漂着木造船も数多く確認されています。さらには外国の海洋調査船による、わが国の同意を得ない海洋調査活動が繰り返されているほか、自然災害が激甚化するなど、わが国周辺海域は、大変厳しい情勢が続いています。これらの情勢変化に対応するために、海上保安庁では2016（平成28）年に関係閣僚会議で決定された「海上保安体制強化に関する方針」に基づき、大型巡視船等の増強整備などを進めているところです。海上保安庁が発足した日（1948（昭和23）年5月1日）、海上保安庁初代長官の大久保武雄は、「海上保安庁の精神は“正義と仁愛”である」と職員に訓示しました。正義とは海上治安維持によって立つ精神であり、仁愛とは人命保護と航行安全の象徴で、この正義仁愛という言葉は今日まで脈々と引き継がれています。今後もこの精神をしっかり守り、国民の安全・安心をこれからも守り抜くという断固とした決意をもって、引き続き日本の海を守っていきます。大久保武雄初代長官の書海上保安庁所蔵

## Page 56
![Page 56の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-57.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

造船技術の航跡日本造船業の現況社会に貢献していく重要な使命長崎大学大学院工学研究科教授橋本州史56先進技術の獲得のための研究開発に注力面を海に囲まれた日本は、エネルギー資源や衣食住四のもととなる原材料のほとんどを海外から輸入する一方、輸出により経済発展の原資を得ており、この輸出入のほぼ100％を海上輸送が担っています。さらに、日本の輸出入貨物の約7割を日本商船隊が輸送しています。外航海運は国際的な総合物流ネットワークを形成しており、海運は日本の主要ライフラインです。その海上輸送を日本の造船業が支えてきました。日本の造船業は、わが国にとって必要不可欠な海上輸送に供する良質な船舶を安定的に供給し、舶用工業をはじめとする裾野の広い産業として地域の経済・雇用にも貢献している産業です。日本の近代造船業は、明治期に欧米列強に追いつくことを目標に開花し、数々の製造業を生む母体として貢献し、太平洋戦争後の高度成長期には復興のトップランナーとして技術的にも経営的にも大きな成功を収めましたが、国際的な競争環境が激変し、産業や企業の持続可能性の観点で新たなステージに立っています。足もとでは、韓国・中国の建造量が国策による産業振興もあり顕著に増加していますが、日本の繁栄を支える国際物流が世界でも突出して海上輸送に依存していることを十分に認識し、日本の海運とこれに高品質・高機能の船舶を供給する造船業・舶用工業を維持・発展させることが、広義の安全保証の視点からも極めて重要です。造船業（船舶海洋産業）は、海洋国家日本のライフラインを維持し、地域経済を支え、社会問題の解決を通じて社会に貢献していく重要な使命を持つ日本に不可欠な産業群です。足許の課題として、地球環境対策のための温室効果ガス（GHG）削減、船舶機器の高度デジタル化、海洋開発分野への挑戦、

## Page 57
![Page 57の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-58.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

船技術の航跡熾烈な国際競争57造日本の海事クラスターの構成造船業は海運業や船用工業と共に日本の海事クラスターの中心的存在海洋再生可能エネルギー急拡大へ向けた浮体式洋上風力発電装置の開発など目白押しです。造船業・舶用工業が安定的な事業基盤を確保し、高性能・高品質の船舶海洋製品を供給できる国内体制を再構築するための体制整備（企業間連携・協業・統合の促進、技術開発、営業力強化、人材育成など）を最優先で進め、国際競争力を最構築することが国家的課題と中核的海事産業船舶管理船舶修繕港湾管理港・ターミナル海運業造船業船用工業水運管理（水路情報提供など）水運サービス（水運施設管理など）船源港湾運送卸売・小売製紙・パルプ穀物関連産業鉄鋼自動車石油して極めて重要です。中核的海事産業以外家電電力・ガス船舶関連部品・部材供給倉庫・物流商社非鉄金属その他公務法務金融海事クラスターの形成損害補償大学、商船高専など教育機関人材派遣ブローカー・コンサルタント製造業の海外生産が進行するなかで、造船業の多くは国内隣接産業など（そのほとんどが地方圏）に生産拠点を維持し、約1,000の事海上自衛隊海上保安庁海洋土木海洋開発業所で約8万人の雇用を提供しています。特に、瀬戸内および漁業、水産マリンレジャー調査研究北部九州では、造船業が地域の主要製造業として地域経済の中核的な役割を担っています。また舶用工業は、船舶の設備や機器を製造し、これに付帯するサービスを提供しており、高度な技術水準ともに高品質や充実したアフターサービスにより、日本の造船業の発展を支えています。日本では、造船業・舶用工業および海運業を中心に、金融、世界経済の拡大に伴い、海上荷動き量と新造船市場は中商社、教育機関、倉庫・物流、損害保険などの関連分野が密長期的に拡大するとみられますが、世界の造船マーケットで接に関連した「海事クラスター」を形成しています。このようなは韓国・中国が建造シェアを急速に伸ばしています。韓国・層の厚い産業集積は世界にも類がなく、個々の企業活動で生中国とも国策による巨大な造船グループの統合がなされ、グじる効果の総和を上回る相乗的な経済効果や雇用効果を創ループ別建造シェアが全世界の2割前後を占める巨大な造船出しており、海事クラスター全体の付加価値額は、GDPの約企業が中韓それぞれに誕生し、これまでとは造船業界の競争1％となっています。の様相が大きく変わることが想定されます。（百万総トン）10073年10月第一次オイルショック2018年韓国：24％中国：40％日本：25％欧州：4％2019年（1-9月）韓国：34％中国：35％日本：24％欧州：3％78年末第二次オイルショック08年9月リーマンショックその他80年3月第一次造舶設備削減欧州韓国5085年9月プラザ合意97年7月アジア通貨危機中国日本88年3月第二次造舶設備削減019731983199320032013（年）新造船建造量の推移世界最大の建造量を誇るイギリスを日本が抜いたのは1956（昭和31）年、その座は2000（平成12）年まで続きました。出典：IHSMarkit

## Page 58
![Page 58の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-59.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

造船技術の航跡58日本の主要造船所分布今治造船今治工場あいえす造船（今治市）多度津造船（仲多度郡多度津町）南日本造船下ノ江事業所（臼杵市）南日本造船大在工場（大分市）岩城造船（越智郡上島町）しまなみ造船（今治市）今治造船西条工場今治造船丸亀事業本部ジャパンマリンユナイテッド津事業所ジャパンマリンユナイテッド呉事業所三井E&S玉野艦船工場ジャパンマリンユナイテッド有明事業所ジャパンマリンユナイテッド舞鶴事業所内海造船因島工場（尾道市）今治造船広島工場（三原市）尾道造船尾道造船所内海造船瀬戸田工場（尾道市）川崎重工業坂出工場四国ドック（高松市）JMUアムテック（相生市）名村造船所伊万里事業所佐世保重工業川崎重工業神戸造船所常石造船（福山市）三菱重工業下関造船所三菱重工業長崎造船所三菱重工業神戸造船所新来島豊橋造船大島造船所（西海市）MES-KHI由良（日高郡由良町）新来島広島どっく（東広島市）新笠戸ドック（下松市）新来島波止浜どっく（今治市）新来島どっく大西工場（今治市）佐伯重工業（佐伯市）新高知重工（高知市）サノヤス造船（倉敷市）

## Page 59
![Page 59の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-60.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

造船技術の航治造船（株）跡今59新潟造船函館どつく函館造船所函館どつく室蘭製作所三井E&S造船千葉事業所（市原市）三菱重工業横浜製作所北日本造船（八戸市）ジャパンマリンユナイテッド横浜事業所住友重機械マリンエンジニアリング（横須賀市）瀬戸内、北部九州を中心に造船所群を形成主要造船所（グループ企業含む建造量が多い造船所を抽出）・今治工場・丸亀事業本部・西条工場・広島工場・多度津造船（株）・岩城造船（株）・（株）新笠戸ドック・あいえす造船（株）・しまなみ造船（株）・（株）南日本造船ジャパンマリンユナイテッド（株）・津事業所・有明事業所・舞鶴事業所・横浜事業所・呉事業所・JMUアムテック（修繕）（株）大島造船所（株）名村造船所・伊万里事業所・函館どつく（株）・佐世保重工業（株）三井E&S造船（株）・玉野艦船工場・千葉事業所・四国ドック（株）・新潟造船・MES-KHI由良（修繕）（株）新来島どっく・大西工場・（株）新来島波止浜どっく・（株）新来島広島どっく・（株）新来島豊橋造船・新高知重工（株）サノヤス造船（株）三菱重工業（株）・神戸造船所・長崎造船所・下関造船所・横浜製作所（修繕）常石造船（株）尾道造船（株）・尾道造船所・佐伯重工業（株）川崎重工業（株）・神戸造船所・坂出工場・MES-KHI由良（修繕）住友重機械マリンエンジニアリング（株）内海造船（株）・因島工場・瀬戸田工場

## Page 60
![Page 60の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-61.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

造船技術の航跡物流における船の役割日本の暮らしと産業を支え続ける日本の貿易に占める海上輸送の割合（重量ベース）海上輸送約9億トン99.6％出典：財務省貿易統計、海事局調べ日本商船隊による輸出入貨物の輸送比率60世界を結ぶ海上物流ルート安定的な海上輸送の確保は日本の発展に極めて重要です。※日本の代表的な輸出入品目の経路を簡略化したもので、地図の経路は実際の航路ではありません。「SHIPPINGNOW2019-2020」をもとに作成外国の船会社36.9％3億3,089万トン日本商船隊63.1％5億6,669万トンエネルギー資源の輸入ルート工業原料の輸入ルート生活物資の輸入ルート日本の相手国別貿易額は東アジア地域内で約50％を占める出典：海事局調べ、2019年近代国家の礎を支えた造船業本の船腹量は1907（明治40）年に約107万総トンとなり、日当時の世界の約3％を占め、世界第6位の海運国に発展しました。長い鎖国が終止符を打った後わずか40年ほどで、日本は世界の一流海運国に伍する地位を確立しました。造船分野も第一次大戦後の日本の建造能力はアメリカ、イギリスに次ぐ世界第3位となり、船舶の国産比率が日清戦争前の約3割から約9割にまで高まりました。日本のあらゆる産業の中で、最も早く世界と肩を並べ、近代国家日本の礎となったのが海運業、そしてそれを支える造船業だったのでした。しかし第二次大戦中に日本商船隊は実に8割の船舶を失い、戦前630万トンだった船腹量は終戦直後には134万トン、800隻にまで減少しました。敗戦後、GHQは日本企業の戦争協力に対する制裁措置の一環として、日本海運の弱体化政策として日本政府に対して戦時補償債務打ち切り、補助税策の禁止を指令してきました。そのため、海運会社や造船会社は再建もままならない有様でした。しかし朝鮮戦争による周辺事態の変化、1951（昭和26）年のサンフランシスコ講和条約をもって、ようやく戦後の海運再建が実現することになりました。高度経済成長時代に建造量は世界一計画造船は造船業・海運業の再建とその後の外洋航路再建と高度経済成長を支える重要な鍵となり、1955（昭和30）年ころから先進諸国を中心に工業生産が拡大しました。海運市況も上昇すると、日本海運は活況を呈し、船舶の大量建造も行われるようになりました。1956（昭和31）年、日本の建造量は初の世界一となり、高度経済成長時代には「造船業は日本のお家芸」と言われるまでになりました。1960（昭和35）年ころには、先進国間の貿易量の増大、世界

## Page 61
![Page 61の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-62.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

船技術の航跡豊富な船種が建造される61造的な石油輸送需要の増大などによって、世界の海運市況も活況を呈し始め、日本の造船業も世界的なレベルに達し、高経済船の建造や、大型タンカーが建造されるようになりました。そして1963（昭和38）年に25％だった世界における日本の竣工量シェアは、1968（昭和43）年にはついに50％を超えるまでに拡大しました。1980年代になると、オイルショック以後の海運不況が深刻化し、1986（昭和61）年には海運造船合理化審議会が船舶の過剰を理由として造船業の大幅合理化を提言するに至り、1987三菱造船株式会社所蔵（昭和62）年の第43次計画造船をもって、事実上計画造船は終了しました。同時期、海運業の集約体制も終焉し、海運各社は国際競争の中で独自の経営方針を決定するようになりました。その間、国際定期航路でも海上コンテナ輸送の出現により国際定期航路の輸送は飛躍的にスピードアップ、さらに陸上輸送との連携で海陸一貫輸送を実現。定期航路の輸送効率化に大きく貢献することとなりました。コンテナ船の投入、そして石油代替エネルギーの中心となる液化天然ガス輸送のためのLNG船の投入をはじめ、時代に応じ、産業や国民生活からの要請に応える豊富な船種が建造され、船舶は石油をはじめとするエネルギー原料から工業原料、穀物、木材、工業製品まで、日本の暮らしと産業を担う膨大な物資輸送を支え続けています。（国土交通省海事局）大型化した原油タンカー記録に残る最大サイズの原油タンカーは、1979（昭和54）年竣工のシーワイズ・ジャイアント（のちにノック・ネヴィス）（56万4,763載荷重量トン、全長458.45m、2010年解体）がありますが、第一次石油危機で原油タンカーの大型化は終了しました。原油タンカーの船体構造としては、シングルハル（一重船殻構造）が採用されてきましたが、その後、座礁・衝突・折損等による大規模油流出事故を契機に、海洋汚染防止の観点から1992（平成4）年発効の改正MARPOL条約によって、1996（平成8）年以降に建造される原油タンカーはダブルハル（二重船殻構造）が義務づけられました。長足の進歩を遂げたコンテナ船海上輸送方法を大きく変革した代表的な手法が、コンテナ船による雑貨類の輸送であり、本格的に開始されたのが1966（昭和41）年の米国シーランド社による北米・ヨーロッパ間への定期航路の開設です。1968（昭和43）年に日本で初めて建造されたコンテナ専用船は、積載能力752TEU※1（全長187.0m）の箱根丸で、その後、サイズも性能も長足の進歩を遂げ、現在では2万TEU超（全長400m程度）のコンテナ船の建造が続いています。RO-RO※2方式の自動車専用船もほぼ同時期に建造が開始されましたが、現在では最大積載能力は6,400台レベルに達し、世界最大レベルの自動車輸出国となった日本の自動車輸送を担っています。※1.TEU：コンテナ船の積載能力を示す単位で、20フィートコンテナの1個分を1TEUと表す。※2.RO-RO：貨物を積んだトラックやシャーシ（荷台）ごと輸送する船舶のこと。三菱造船株式会社所蔵三菱造船株式会社所蔵三菱造船株式会社所蔵三菱造船株式会社所蔵エネルギー転換を加速させたLNG船第一次石油危機によりエネルギー転換が進み、LNG船、LPG船などの液化ガス輸送船の需要が増加しましたが、日本の造船業界は迅速に技術開発・建造体制を整え、高性能な輸送船を安定供給しています。日本は、世界最大のLNG（液化天然ガス）輸入国で、この全量が海上輸送ですので、今後もLNG船の果たす役割は非常に大きなものがあります。

## Page 62
![Page 62の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-63.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

造船技術の航跡海洋立国の実現に向けて資源開発に活かされるテクノロジー日本周辺海域に賦存が期待される鉱物資源の分布状況海底熱水鉱床コバルトリッチクラストレアアース泥領海・排他的経済水域（EEZ）など海底熱水鉱床銅、鉛、亜鉛、金、銀などのレアメタルが沈殿。（独）石油天然ガス・金属鉱物資源機構所蔵62燃焼する人工のメタンハイドレート「燃える氷」と称される。MH21-S研究開発コンソーシアム所蔵資料提供：（独）石油天然ガス・金属鉱物資源機構“海のジパング”を目指す挑戦方を海で囲まれた日本は、広大な領海と排他的経済水四域（EEZ：ExclusiveEconomicZone）を有しています。これらを合わせた水域面積は国土面積の約12倍に相当する約447万㎢に達し、世界第6位の広さを誇っています。貿易の大部分を海上輸送が支えており、安定的な海上輸送の確保や日本周辺海域においての安全確保は極めて重要な課題です。さらに日本の領海やEEZ、大陸棚では石油、天然ガス、そしてまだ世界のどの国も実用化できていないメタンハイドレートなどのエネルギー・鉱物資源の存在が確認されています。日本は次世代の資源大国になる可能性を秘めているのです。これからの日本が持続的な発展を続けていくためには、いかに海域の権益を確保し、海洋資源を有効活用していくかが新たな課題となっています。日本の海に眠るエネルギー・鉱物資源を回収して利用するには、さまざまな技術や工夫が必要となります。造船業をはじめとする日本の海事産業は、これまでに培った技術やノウハウを活かして、海のドローン、探査船、掘削船、大水深海域対応型掘削プラットフォーム、浮体式石油生産貯蔵積出設備など、多様な要素技術とそれらを統合した高度なシステムの構築を進めています。海洋資源の開発はプロジェクトをまとめるエンジニアリング力が成否を決めるケースが多いため、技術力や経営力のある企業群にとって実力を発揮できる分野でもあり、日本の海事産業がさらなる成長を遂げるための新たな市場として注目を集めています。13世紀のイタリアの商人であったマルコ・ポーロは、世界有数の金銀銅の産出国だった日本を“黄金の国ジパング”と呼びました。しかし現在では資源のほぼ100％を輸入に頼っています。将来、日本が海洋資源大国“海のジパング”になることを目指して、海洋エネルギー・鉱物資源を低コスト・高効率で調査・開発するイノベーションが加速しています。海を守り、海を活かす「海洋立国」日本の実現に向けた挑戦が始まっています。

## Page 63
![Page 63の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-64.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

船技術の航跡レアアース泥63造東京大学大学院工学系研究科システム創成学専攻所蔵海底熱水鉱床日本周辺海域では、沖縄海域および伊豆・小笠原期域において、水深500～2,000メートルの海底に多くの海底熱水鉱床の兆候が発見されており、日本は有望鉱床の発見とその資源量把握のための調査を進めています。2017年には（独）石油天然ガス・金属鉱物資源機構が、世界で初めて水深1,600メートルの海底で掘削・集積した海底熱水鉱床の鉱石を水中ポンプおよび揚鉱管を用いて海水とともに、連続的に洋上に揚げる「採鉱・揚鉱パイロット試験」を沖縄近海で実施し成功しました。日本の排他的経済水域内にあたる南鳥島周辺の海底の泥から、超高濃度のレアアースが見つかっています。南鳥島周辺海域における航海調査の結果、ハイブリッド自動車のモーターなどに使われているジスプロシウムで世界需要の約730年分、テルビウムが約420年分など、レアアースが計1,600万トン超あると推計されています。地球深部探査船「ちきゅう」を用いて深海底からレアアース泥を採取する実証試験が始まろうとしています。（独）石油天然ガス・金属鉱物資源機構所蔵メタンハイドレートメタンハイドレートとは、水分子がつくるカゴの中にメタンの分子が閉じ込められた構造の結晶で、海底面下で氷状に固まっている物質のことで、火を点けると燃えるために「燃える氷」とも呼ばれています。北海道周辺の日本海、オホーツク海、太平洋や、本州から四国、九州西岸に至る太平洋側の大陸斜面などに確認されています。地球深部探査船「ちきゅう」を使って、愛知県～三重県沖合の東部南海トラフ海域の地層から天然ガスを取り出すことに成功しています。MH21-S研究開発コンソーシアム所蔵コバルトリッチクラスト（独）石油天然ガス・金属鉱物資源機構は、2020年7月に南鳥島南方の排他的経済水域内において、世界で初めてコバルトリッチクラストの掘削試験を実施、成功しました。掘削試験は海洋資源調査船「白嶺」を使って、三菱造船（株）、住友金属鉱山（株）および三菱重工業（株）からなるコンソーシアムが中心となって、産学官の連携体制で実施されました。（独）石油天然ガス・金属鉱物資源機構所蔵画像提供：海洋研究開発機構マンガン団塊船から発する音波を用いた複数の海底観測データを結合し、広い海底のどこにマンガン団塊が分布するのかを地図上に示すとともに、その面積を正確に算出することのできる新しい探査手法を世界で初めて確立。海底が音波を反射する様子を解析することで、深海底に広大な密集域が分布することがわかりました。マンガン団塊は直径2～15センチの鉄・マンガン酸化物の塊で、銅やニッケル、コバルトなどの有用金属を含んでいます。

## Page 64
![Page 64の画像](https://img01.ebook5.net/meijiindustrialrevolution/KPpzUR/contents/image/book/medium/image-01.jpg)

【ページ内のテキスト情報】

令和元年度文化庁文化芸術振興費補助金世界遺産「明治日本の産業革命遺産」ガイドブック造船編船がわかる本2020年3月2日初版2021年3月31日第2版発行◉｢明治日本の産業革命遺産｣人材育成事業実行委員会〒164-0001東京都中野区中野5-28-1-201TEL◉03-5318-0511URL◉http://sangyoisankokuminkaigi.com/監修・著者◉加藤康子一般財団法人産業遺産国民会議専務理事著者◉国土交通省海事局防衛省海上自衛隊海上保安庁北川弘光公益財団法人笹川平和財団海洋政策研究所客員研究員田村省三株式会社島津興業常務取締役橋本州史長崎大学大学院工学研究科教授編集・デザイン・印刷◉株式会社日活アド・エイジェンシー本書掲載の写真および図版・記事の無断転載を禁じます。

