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# cop30_100people_JP

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いがり猪ひろみち狩弘道株式会社富岡アグリファーム取締役昭和18年（1943）、富岡町生まれ。富岡町の農家に生まれ、高校卒業後すぐに就農。震災まで家業として農業を営む。苦労したもん震災後、福島第一原発の事故により6年間避難生活を送る。2017年の避難解除を機に農業法人立ち上げを決意して自宅も再建。4人の仲間とともに「株式会社富岡アグリファーム」をスタートし、富岡町の農業再生を目指す。上今げ年たはい相よ当ねな収穫量を農業は富岡町の基幹産業だけども、原発事故で全町民が避難して誰も営農する人がいなくなりました。私自身も知人を頼って転々とし、いわきに新しい家を建てたりもしながら避難先で生活をしていましたが、6年かけてようやく避難指示解除されてね。多くの税金をかけて、あれだけの農地を除染して、それを見過ごすよりも農業法人立ち上げようと。それなら私もやりますって仲間がいたから。今なら大きな補助もあるから、それが終わる前にいろんなことをクリアして、雇用も生んで、若手に受け継ぐことができる農業をやろうと。ちゃんと計画立てて、5年目にはしっかりとした収入あげっぺと言って始まったわけです。昨年2回目の収穫だったけど、荒れ放題で地力が落ちていた農地だから、今は勉強だという感じでやってます。今年は相当な収穫量上げたいよね。苦労した分だけ報いのあるような農業経営をして、若い人に農業ってのは良いなって思ってもらえるようにしたい。黙って過ごしても人生、苦労して過ごしても人生。せっかくだから命ある限り、人のため、自分のためにやっぱりやりましょうよと思っている。震災や原発事故の痛みは消えないけど、その厳しさを仲間と越えていきたいですね。ん3地域の神社「王塚神社」も10年ぶりに再建。秋に行った社殿竣工祭では神楽も披露された

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いざわ伊しろう澤史朗双葉町長思いを忘れない犠復牲興にのなたっめた、人の昭和33年（1958）、双葉町生まれ。麻布獣医科大学獣医学部卒業。1989年、イザワ動物病院を開院。2003年から2011年まで町議会議員を務め、2011年11月に双葉町議会副議長となる。2013年3月10日、双葉町長選に立候補し、初当選。現在は、いわき市内に置かれた町役場いわき事務所で町政を執る。双葉町の復興は、2017年からスタート。「住民の帰還は難しい」とされていた帰還困難区域であっても、要件を満たせば避難指示が解除されることになったからです。震災の翌日、東京電力福島第一原発の水素爆発で、全町避難がはじまって10年。現在も町域のうち約95％が帰還困難区域に指定されています。現在はいわき事務所で、2022年の特定復興再生拠点の解除に向けて準備を進めています。中間貯蔵施設の受け入れ決定が、震災後の取り組みで一番大変でした。現在は町民の皆さんも、「双葉町と大熊町で除染廃棄物を受け入れるしかなかった」と、ある程度納得されている方が増えています。しかし避難生活が継続するなか、さらに追い打ちをかけるように、先祖伝来の土地、家屋、財産まで手放さなくてはならなくなったわけで、その心中は察してあまりあります。町民の皆さんの悲しみと苦しみに満ちた表情は、今でも忘れることはできません。国民の皆さんには、犠牲になった人たちがいるからこそ、復興が進んでいることをご理解いただきたい。今後環境省をはじめ国には、減量化と無害化・無毒化した放射性物質への取り組みをしっかり進めてほしいですね。い52020年10月1日、レストランやフードコート、貸し会議室を備えた双葉町産業交流センターが開所

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いまいずみ今ひさよ泉冨代よりあい処華昭和23年（1948）、田村市生まれ。18歳で都路村役場（現・田村市都路町）職員に。退職後2009年まで特別養護老人ホーム施設長を務め、引退後、趣味で手芸を始める。震災後は村民に手芸を教える活動などを経て2014年、市内都路に「よりあい処華」を開設。友だちになれる場所に通ううちに会話が生まれ震災時は夫も息子も役所の職員でしたので、私と嫁と孫2人で転々と避難しました。怖くて眠れない夜もいっぱいあって、泣いて過ごしていた気がします。5回目の移転で一戸建てを借りて、ようやく家族で落ち着くことができました。落ち着くと、習った手芸を活かして何かできないかと考え、仮設住宅で手芸を教える活動をずいぶんやりましたね。「何したら良いか分からない」というおばあちゃんの言葉が忘れられなくて、みやこじ2年間、毎月2回欠かさず通いました。都路に帰れることになり、寄り合う場所が必要だなと思って始めたのが「よりあい処華」です。「認知症予防になるからまた来て」って声をかけて、通ううちに会話が生まれて友だちになる。子どもたちがおばあちゃんたちと手芸をしたり、ボランティアの社会人や学生さんとの交流もたくさんある。中学生がボランティアさんに「都路は私たちが守るので安心してください」って挨拶してくれたことを思い出すと今も胸いっぱいになります。3年くらいのつもりがもう6年。やめるのはもったいないって言われ、私たちもそう思うようになった。ここが無かったら皆どうしてたかなって思うこともあるし、できる限りは続けていきたいですね。に7「よりあい処華」で、つるしびな作りを学ぶ子どもたち。地域の人たちが「先生」となり、交流を深めている

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よワ「りイ地魅ン域力づへ的くのなり恩えんどうしゅうぶん地で返遠藤秀文域し株式会社ふたば代表取締役社長・技術士（建設部門）にを昭和46年（1971）、富岡町生まれ。」大学進学で上京後、大手建設コンサルタント会社に就職し20数カ国で胸ODA（政府開発援助）に関わる。2007年に帰郷し父が立ち上げた双葉測量設計㈱に入社。2013年に社長就任。に一般社団法人とみおかワインドメーヌ代表理事。執っている父とようやく衛星電話がつながった時の第一声でした。私の父、故遠藤勝也は2013年までの16年間、富岡町長を務めました。自宅、社屋のほか多くを失いましたが、あの非常事態では海外での仕事経験がなんとかなる」と意外に冷静でした。2013年には地域の課題解決に幅広く使った各種調査や建設コンサルティング、まちづくり等をしています。一度は人がいなくなった町をつくり直すのは、世界で初めての経験。形成されて地域に求心力が生まれます。今、大切なのは「震災前より魅力的な地域にしたい」という視点を持ち続けることだと思います。2019年にブドウを初収穫。試験醸造で2020年に誕生した若いワインは、海の幸に合うフレッシュさがある「会社はどうするんだ」。それが震災の3日後、避難所で陣頭指揮をに9「地域に育てられた会社だから、恩返しをしなければ」という父の言葉に背を押され、4月11日に業務再開。半分に減った社員とふるさとの復旧・復興に努めました。役に立ちました。先遣隊が異国に乗り込む時はトランク一つ。「パソコンさえあれば取り組むため、社名を「ふたば」に変更。現在はドローン、3Dスキャナーなどをコミュニティ再生の一助になればと、本業とは別に2016年から「ワインづくり」も始めました。ブドウの木は長寿で、百年以上も実を収穫できる上に、美しい景観が

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電気の自給自足できくち菊よしひろ池吉浩株式会社ACDC代表取締役昭和37年（1962）、桑折町生まれ。大学卒業後、愛知県のゼネコンでエンジニアをしていたが、父が病に倒れたため30歳で帰郷、家業を継ぐ。2003年に社長就任。電気工事の他、再生可能エネルギーに広く関わる。スマートコミュニティは「地域の電気は遠くの人に委ねられている」。これまでの電気は大手の電力会社が供給していて、電力会社の電力系統が止まると使えなくなります。当社は、電気工事のプロフェッショナルとして、地域に関わってきましたので、東日本大震災の後は停電や漏電で大忙しに。そのような時「自宅に太陽光発電があるのに電気が使えない」という声が聞こえました。太陽光発電の電気は直流なので、安定した電圧・周波数で交流出力するにはパワコンでの調整が必要ですが、当時は売電が主流で、蓄電し安定的に使う発想もありませんでした。そこで当社は、太陽光発電と蓄電システム、電気自動車による「電気の自給自足システム」の開発に取り組み、2018年に完成させました。だて現在、このシステムで伊達支社の電気をまかなっています。今すぐ再生可能エネルギー100%は無理でも、小規模な事業所や個人ができることを実践すれば比率は上がります。2020年には、熱効率が高い薪ストーブの販売も始めました。木質燃料を使い循環型社会や森林の荒廃という地域課題解消にも取り組みます。これからの「スマートコミュニティ」は、自分たちで再生可能エネルギーを作り、蓄え、賢く使う人がつながることで実現できるはずです。で11森林の手入れで出来る薪を活用。新たに木を植え長いスパンでの二酸化炭素削減を目指す11

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ほんとだなさとう佐うきち藤右吉震災後にはじめて大熊町に戻った住民花は人を呼ぶって昭和14年（1939）、大熊町生まれ。終戦後、親父が大熊町の大川原地区に住み始めて、俺は生まれてからずっとここに住んでんだ。主な仕事は林業、それだけでは食っていけないから秋になると出稼ぎに行ってた。20代のころ、原子力発電所ができて東京電力の関連会社に勤めて定年。2011年の3月11日はダムの管理の仕事をしていて、電気もつながらないから何もわがんねがった、そのうち少しずつ情報が入ってきて、「ひどいぞ、津波がきて海辺の部落、流されてなんもねえぞ」って聞かされても、すぐには信じらんにがった。ふねひきかしわざき、新潟、柏それからは、船引、新潟、崎と避難しつづけ、そして会津若松の仮設住宅へ。そこに8年いる間、町の見回り頼まれて、自宅の片付けもしながら会津から150キロかけて通う途中に「ざる菊」が咲いているのを見つけた。心がぽっと明るくなるようだった。苗をゆずってもらって、自分の家の庭で育て始めたんだ。「花が咲いたら、だれか見に来てくれっかなぁ」っていう淡い期待も込めて。そしたら、町に帰宅する人が寄ってくれるようになった。「花は人を呼ぶってほんとだな」今年はオリンピックが開かれる年だから、五色の「ざる菊」で飾ってみようか。一人でも多くの町民が大熊に戻って町が少しでも以前の姿に近づくように。な13訪れる人の心を癒やす色とりどりのざる菊13

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お木いしく出来しがこころつるがいゆき志賀瑚々呂・鶴飼夢姫ま福島県立ふたば未来学園高校平成31年度卒業生した志賀瑚々呂平成14年（2002）、いわき市生まれ。現在、大学1年。！鶴飼夢姫平成14年（2002）、富岡町生まれ。現在、専門学校1年。私たちが学んだふたば未来学園高校には、「未来創造探求」という授業があります。震災後の双葉郡の課題を解決するために生徒独自の視点（テーマ）で研究し、卒論として仕上げます。初めは個別で進めましたが、テーマにつながりがあることがわかり、まず、知り合いの漁師さんたちから取材。校内アンケートもとったところ「風評被害という言葉のイメージがよくない」という声が多く、私たちは「ネガティブイメージを払拭し、ポジティブイメージに変える」と宣言。二人で2種類の味とラベルのデザインにもこだわり、さけ「木戸川鮭フレーク」の誕生になりました。この鮭フレークから双葉郡の漁業再生を感じてもらえたらと思います。この商品をきっかけに双葉郡に関心を寄せ、大勢の人に足を運んでもらえたらうれ嬉希望を持つことができました。「木戸川鮭フレーク」をPRする志賀る志賀さん（左）と鶴飼さん【2019年9月16日付福島民報掲載写真】！二人で研究することにしました。そのテーマは「双葉郡の漁業の風評被害の払拭」。先輩もお世話になった西野屋食品さんや木戸川漁協の皆さんたちに活動への協力をお願いしました。皆さん快く承諾してくださり、サケを主役にした商品開発が決定。うれしいです。私たちもこの活動を通して地域社会に少しでも貢献できたのではと15木戸川産のサケを使って

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ふるさと木戸川にのサケよ戻すずき鈴けんたろう木謙太郎木戸川漁業協同組合鮭ふ化場長鮎中間育成場長昭和57年（1982）、いわき市生まれ。いわき海星高校卒業後、2000年に木戸川漁業協同組合入組。たくさん2018年3月、木戸川への稚魚放流。子どもたちもサケも元気に大きく育て木戸川は、震災前まで毎年1,500万尾の稚魚を放流し、多いときで10万尾を超えるサケが戻って来ていました。秋は遡上するサケで川底が見えないほど。しかし東日本大震災の大津波による被害と原発事故で、ふ化と稚魚の放流が4年間できませんでした。事業再開に向け放射性物質の調査をいち早く始めたかったのですが、ならはまち楢葉町は警戒区域指定、調査が認められませんでした。2012年に昼間の立ち入りが可能になったため、県の許可を得てモニタリング調査を開始。その年に木戸川に帰ってきたのは震災前に放流したサケ。100尾ほど捕獲して調べたところ放射性物質はND（不検出）でした。翌年、翌々年の調査でも結果は同じ不検出。サケは放流から4年後に、産卵のため育った川に帰ってきます。調査する中、数の減少を感じて「早く再開しないとサケがいなくなってしまう」と不安でした。2015年にやな場を設置し事業を再開しましたが、戻ったのは8,443尾。でも放流できなかった間に自然産卵で戻っているサケもいて、「やはり木戸川はサケのふるさと、いい川なのだ」と改めて思いました。震災前のようにはまだいきませんが、たくさんのサケが戻ることで、町も活気づいていけばいいなと思っています。れ17

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そふんすくなびし存にま在のにこなとりはなたいなすび俳優、タレント【2016年3月28日付福島民報掲載写真】19昭和50年（1975）、福島県生まれ。1998～1999年にかけて、某民放TVバラエティー番組の出演をきっかけに芸能界にデビュー。故郷の福島県を中心に活動中。震災を境に笑うことが不謹慎に思われていた時期があり、無力感を感じていました。苦境にある皆さんの支えに何とかなれないかと思っていた中、ご縁があった香川県の方から「四国から応援できることはないかな」と。県外の方に福島の今を伝えることは自分にもできるかもしれないと、2011年8月に鎮魂や復興再生を願う四国88カ所お遍路の旅へ。2015年末から2016年にかけては、青森から福島まで被災した沿岸部を歩く「みちのく潮風トレイル」で全線約千キロ踏破。それまで長距離を歩いたことはなく、運動とは縁遠い生活だったのに…。そして考えてもみなかったエベレスト登山に挑戦。雪崩や大地震で3度断念しましたが、だんだん支援が広がって「なすびさんのエベレスト挑戦で、元気と勇気をもらっている、あきらめないで続けてほしい」との言葉をもらって4度目の挑戦で登頂に成功できました。福島に生まれ育った自分だからこそ、風評を払拭してふるさとをしっかりPRしたい。今できることが地味なことでも地道にやり続けたい。「なすびができるなら私たちだって挑戦してみよう」とか「ふくしまのことは、なすびに聞けば分かる」っていう風に言ってもらえるような存在になりたいな。「みちのく潮風トレイル」で全線約千キロを踏破

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トマトに託してもとき元木ひろし寛株式会社ワンダーファーム代表取締役昭和51年（1976）、大熊町生まれ。福島高専卒業後、JR東日本就職。2002年にいわきにUターンし、義父とともに㈲とまとランドいわきを設立し、大規模ハウスによるトマト栽培を始める。2015年㈱ワンダーファーム設立。２いつわのきふとる大さ熊と、の思い私たちのトマト栽培も「もうやめようか」と一時話が出たんです。半年間は出荷できず、日々赤くなっていく果実を廃棄せざるを得ない苦しい状況。震災と原発事故で、福島の農業全体が窮地に追い込まれました。でも「農業をやるために東京から戻ってきたんだ、何とかしよう」と、地震で損傷した設備を復旧させ、風評で安値ではありましたが市場への出荷を再開しました。さらに、震災前から構想のあった、レストランや規格外トマトを活用した加工品の製造・販売を行う「ワンダーファーム」を2015年に設立。地域の雇用拡大や農業の活性化につながればとの思いもありました。ワンダーファームでの経験を経て、トマト農家として独立する若者が増えてほしい。いわきは日照時間が長く、気候も比較的温暖なことから、トマト栽培に適した環境。地域全体でトマトの生産量を上げていければ、産地としての競争力も上がります。生まれた大熊の家にはもう帰ることができません。それでもいわき市と大熊町、2つのふるさとへの強い思いとトマトを通して、浜通りの農業が元気になるように頑張っていきたい。て21ワンダーファームのトマトハウスでは、トマトの収穫体験もできる21

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政策の実現へよしだ吉田大熊町長じゅん淳昭和31年（1956）、大熊町生まれ。1979年、大熊町役場に入庁。生涯学習課長、教育総務課長、総務課長、大熊町副町長を歴任し、2019年11月より大熊町長を務める。住戻んりでた良いかとったと思える「逆境の中でも、町民の皆さんが少しでも安定した生活をできるように」。役場職員として原発事故による全町民避難の誘導にあたる上で心掛けていたことです。町民の方の要望を聞き、生活環境などに差が出ないように気を配りながら考え、行動してきました。最終的に会津若松市に約4,000人が避難。会津若松市からは市内の旅館やホテルを提供していただきました。会津の皆さんには大変ご尽力いただき、大熊町の小中学校を立ち上げ、整った教育環境で子どもたちは学ぶことができました。2019年から町長として町政にあたっています。「戻りたい方」「戻ってきている方」「戻らない方」それぞれの選択がありますが、町に戻るための環境を整備することを第一としています。戻ることができない方にも「故郷を思う気持ち」を持ち続けていただけるように、新たに町民となる方には「移住して良かった」と思える政策を実現していきます。昨年、2050年までに二酸化炭素の排出を実質ゼロにする「2050ゼロカーボン宣言」を行い、今後の町が目指すべき道を示すことができました。これからも大熊の再生のために魅力ある町づくりを進めてまいります。へ232019年8月、大熊町に開所したイチゴ栽培施設「ネクサスファームおおくま」で実ったイチゴ23

