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# cop29_100people_JP

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双葉町との出会いはあさの浅まさみ野雅己浅野撚糸株式会社代表取締役社長昭和35年（1960）、岐阜県安八町生まれ。1995年、35歳で代表取締役社長就任。運命福島大学教育学部卒業、岐阜県で教員生活を4年過ごした後、1987年に浅野撚糸入社。だと体が震えました「福島の復興に力を貸してくれませんか」と繊維業界の企業が集まる会で経産省からの声がけが、福島に工場進出を考え始めたきっかけ。いざわ2019年7月、伊澤町長自らの案内で、初めて双葉町を訪れました。津波と原発事故の被害を受け更地になった土地に立って感じたのは無限の可能性。「この風景は何だ、ここから何かを起こさないと」と思いました。「ずっと待ち続けているの？」傷んだ家に向かって、私はそう話しかけてしまい、目頭が熱くなりました。あるじを失った家々がその帰りを待つかのようでした。帰り道、双葉に工場を建てようとすでに心に決めていました。これは理屈じゃない。運命だと体が震えました。私の会社も、さまざまな困難を多くの方に助けられて乗り越えてきました。「いつかは社会に恩返しをしたい」という気持ち、学生時代の4年を過ごした福島への思いがあります。伊澤町長をはじめ双葉町役場の人たちは、大変な目に遭った中でも上を向き、夢を追いかけている。とてもポテンシャルが高い。私はここに、工場のみならず復興のシンボルとなるような拠点をつくり、交流人口を増やしたい。「双葉町は、福島県は負けないぞ」をアピールできる。そんな場所にしたいですね。3立地協定書に調印し、握手を交わす浅野さん（右）と伊澤史朗双葉町長

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いざわ伊しろう澤史朗双葉町長思いを忘れない犠復牲興にのなたっめた、人の昭和33年（1958）、双葉町生まれ。麻布獣医科大学獣医学部卒業。1989年、イザワ動物病院を開院。2003年から2011年まで町議会議員を務め、2011年11月に双葉町議会副議長となる。2013年3月10日、双葉町長選に立候補し、初当選。現在は、いわき市内に置かれた町役場いわき事務所で町政を執る。双葉町の復興は、2017年からスタート。「住民の帰還は難しい」とされていた帰還困難区域であっても、要件を満たせば避難指示が解除されることになったからです。震災の翌日、東京電力福島第一原発の水素爆発で、全町避難がはじまって10年。現在も町域のうち約95％が帰還困難区域に指定されています。現在はいわき事務所で、2022年の特定復興再生拠点の解除に向けて準備を進めています。中間貯蔵施設の受け入れ決定が、震災後の取り組みで一番大変でした。現在は町民の皆さんも、「双葉町と大熊町で除染廃棄物を受け入れるしかなかった」と、ある程度納得されている方が増えています。しかし避難生活が継続するなか、さらに追い打ちをかけるように、先祖伝来の土地、家屋、財産まで手放さなくてはならなくなったわけで、その心中は察してあまりあります。町民の皆さんの悲しみと苦しみに満ちた表情は、今でも忘れることはできません。国民の皆さんには、犠牲になった人たちがいるからこそ、復興が進んでいることをご理解いただきたい。今後環境省をはじめ国には、減量化と無害化・無毒化した放射性物質への取り組みをしっかり進めてほしいですね。い52020年10月1日、レストランやフードコート、貸し会議室を備えた双葉町産業交流センターが開所

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いまいずみ今ひさよ泉冨代よりあい処華昭和23年（1948）、田村市生まれ。18歳で都路村役場（現・田村市都路町）職員に。退職後2009年まで特別養護老人ホーム施設長を務め、引退後、趣味で手芸を始める。震災後は村民に手芸を教える活動などを経て2014年、市内都路に「よりあい処華」を開設。友だちになれる場所に通ううちに会話が生まれ震災時は夫も息子も役所の職員でしたので、私と嫁と孫2人で転々と避難しました。怖くて眠れない夜もいっぱいあって、泣いて過ごしていた気がします。5回目の移転で一戸建てを借りて、ようやく家族で落ち着くことができました。落ち着くと、習った手芸を活かして何かできないかと考え、仮設住宅で手芸を教える活動をずいぶんやりましたね。「何したら良いか分からない」というおばあちゃんの言葉が忘れられなくて、みやこじ2年間、毎月2回欠かさず通いました。都路に帰れることになり、寄り合う場所が必要だなと思って始めたのが「よりあい処華」です。「認知症予防になるからまた来て」って声をかけて、通ううちに会話が生まれて友だちになる。子どもたちがおばあちゃんたちと手芸をしたり、ボランティアの社会人や学生さんとの交流もたくさんある。中学生がボランティアさんに「都路は私たちが守るので安心してください」って挨拶してくれたことを思い出すと今も胸いっぱいになります。3年くらいのつもりがもう6年。やめるのはもったいないって言われ、私たちもそう思うようになった。ここが無かったら皆どうしてたかなって思うこともあるし、できる限りは続けていきたいですね。に7「よりあい処華」で、つるしびな作りを学ぶ子どもたち。地域の人たちが「先生」となり、交流を深めている

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えんどう遠藤新潟大学2年りょう瞭平成12年（2000）、大熊町生まれ。2019年3月、福島県立ふたば未来学園高校卒業（2期生）。2019年4月、新潟大学理学部物理学科入学。向かっていく廃あ故炉き郷のらの実め未現た来にくをない広野町に開校した「ふたば未来学園」に進学を決めたのは、「復興の人材を育成する」との学校の方針を知ったから。生まれ育った大熊町を、10歳のとき家族とともに避難しました。会津やいわきをはじめ、さまざまな場所でたくさんの出会いとサポートを経験。原子力発電所の存在が身近だったこともあり、いつしか「福島第一原発の廃炉に携わること」が自分の将来の目標になりました。そのきっかけの一つが高校時代の未来創造探求の授業。ならはまち私は「廃炉に向けた合意形成」をテーマに研究を続け、広野町や楢葉町で行われたフォーラムでは、「処理水処分」の在り方についてなど、自分の考えを発表する機会をいただきました。ドイツなど数回の海外研修を含めて多方面から原発について考えることもできたので、充実した3年間を送りました。卒業後ももっと原子力について勉強したいと意欲が高まり、大学は理学部を選択。廃炉については、今は保留になっている問題も今後はもっと表面化していくでしょう。私は、故郷の未来をあきらめたくはありません。だから、ここに戻ってきます。大学で学んだことを生かしながら、福島第一原発廃炉の実現に向かって突き進んでいきたいと思います。く9高校2年の時に東京電力福島第一原発を視察。少しずつだが確実に進歩しているように感じた

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ほんとだなさとう佐うきち藤右吉震災後にはじめて大熊町に戻った住民花は人を呼ぶって昭和14年（1939）、大熊町生まれ。終戦後、親父が大熊町の大川原地区に住み始めて、俺は生まれてからずっとここに住んでんだ。主な仕事は林業、それだけでは食っていけないから秋になると出稼ぎに行ってた。20代のころ、原子力発電所ができて東京電力の関連会社に勤めて定年。2011年の3月11日はダムの管理の仕事をしていて、電気もつながらないから何もわがんねがった、そのうち少しずつ情報が入ってきて、「ひどいぞ、津波がきて海辺の部落、流されてなんもねえぞ」って聞かされても、すぐには信じらんにがった。ふねひきかしわざき、新潟、柏それからは、船引、新潟、崎と避難しつづけ、そして会津若松の仮設住宅へ。そこに8年いる間、町の見回り頼まれて、自宅の片付けもしながら会津から150キロかけて通う途中に「ざる菊」が咲いているのを見つけた。心がぽっと明るくなるようだった。苗をゆずってもらって、自分の家の庭で育て始めたんだ。「花が咲いたら、だれか見に来てくれっかなぁ」っていう淡い期待も込めて。そしたら、町に帰宅する人が寄ってくれるようになった。「花は人を呼ぶってほんとだな」今年はオリンピックが開かれる年だから、五色の「ざる菊」で飾ってみようか。一人でも多くの町民が大熊に戻って町が少しでも以前の姿に近づくように。な11訪れる人の心を癒やす色とりどりのざる菊11

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お木いしく出来しがこころつるがいゆき志賀瑚々呂・鶴飼夢姫ま福島県立ふたば未来学園高校平成31年度卒業生した志賀瑚々呂平成14年（2002）、いわき市生まれ。現在、大学1年。！鶴飼夢姫平成14年（2002）、富岡町生まれ。現在、専門学校1年。私たちが学んだふたば未来学園高校には、「未来創造探求」という授業があります。震災後の双葉郡の課題を解決するために生徒独自の視点（テーマ）で研究し、卒論として仕上げます。初めは個別で進めましたが、テーマにつながりがあることがわかり、まず、知り合いの漁師さんたちから取材。校内アンケートもとったところ「風評被害という言葉のイメージがよくない」という声が多く、私たちは「ネガティブイメージを払拭し、ポジティブイメージに変える」と宣言。二人で2種類の味とラベルのデザインにもこだわり、さけ「木戸川鮭フレーク」の誕生になりました。この鮭フレークから双葉郡の漁業再生を感じてもらえたらと思います。この商品をきっかけに双葉郡に関心を寄せ、大勢の人に足を運んでもらえたらうれ嬉希望を持つことができました。「木戸川鮭フレーク」をPRする志賀る志賀さん（左）と鶴飼さん【2019年9月16日付福島民報掲載写真】！二人で研究することにしました。そのテーマは「双葉郡の漁業の風評被害の払拭」。先輩もお世話になった西野屋食品さんや木戸川漁協の皆さんたちに活動への協力をお願いしました。皆さん快く承諾してくださり、サケを主役にした商品開発が決定。うれしいです。私たちもこの活動を通して地域社会に少しでも貢献できたのではと13木戸川産のサケを使って

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そふんすくなびし存にま在のにこなとりはなたいなすび俳優、タレント【2016年3月28日付福島民報掲載写真】15昭和50年（1975）、福島県生まれ。1998～1999年にかけて、某民放TVバラエティー番組の出演をきっかけに芸能界にデビュー。故郷の福島県を中心に活動中。震災を境に笑うことが不謹慎に思われていた時期があり、無力感を感じていました。苦境にある皆さんの支えに何とかなれないかと思っていた中、ご縁があった香川県の方から「四国から応援できることはないかな」と。県外の方に福島の今を伝えることは自分にもできるかもしれないと、2011年8月に鎮魂や復興再生を願う四国88カ所お遍路の旅へ。2015年末から2016年にかけては、青森から福島まで被災した沿岸部を歩く「みちのく潮風トレイル」で全線約千キロ踏破。それまで長距離を歩いたことはなく、運動とは縁遠い生活だったのに…。そして考えてもみなかったエベレスト登山に挑戦。雪崩や大地震で3度断念しましたが、だんだん支援が広がって「なすびさんのエベレスト挑戦で、元気と勇気をもらっている、あきらめないで続けてほしい」との言葉をもらって4度目の挑戦で登頂に成功できました。福島に生まれ育った自分だからこそ、風評を払拭してふるさとをしっかりPRしたい。今できることが地味なことでも地道にやり続けたい。「なすびができるなら私たちだって挑戦してみよう」とか「ふくしまのことは、なすびに聞けば分かる」っていう風に言ってもらえるような存在になりたいな。「みちのく潮風トレイル」で全線約千キロを踏破

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ひがしやま東はるな山晴菜一般社団法人まちづくりなみえ道の駅なみえ駅長持っていたず風っ評とと違い和う感もをのに京都府生まれ、滋賀県育ち。大分県の大学を卒業後、大阪の食品流通小売業に就職。埼玉、大阪でバイヤーとして勤務後、2015年に二本松市の農業系のNPOに転職。さらに南相馬で1年ほど働き、2018年に「一般社団法人まちづくりなみえ」に入社。地域づくり支援員を経て、2020年開業の「道の駅なみえ」駅長に就任。私は震災当時、大阪で有機農産物等のバイヤーをやっていたのですが、原発事故後は福島はおろか、東日本のものがまったく売れなくなってしまいました。それまでは「国産の有機野菜です」と言っていればよかったのですが、「産地はどこか」「何ベクレルか」「大丈夫なのか」「ラベルはどこで印刷されているのか」といった隅から隅まで聞かれるようになったのです。生産者の方が悪いことをしたわけでもないし、そんないわゆる風評というものにずっと違和感を持っていました。そして2015年11月、実際に福島に暮らしながら向き合いたいと思い、大阪から引っ越してきました。浪江では今、毎日風景が変わっています。震災後そのままだった建物が解体され更地になる一方で、新しい家が建ったり、子どもたちがふつうに走りまわっている姿を見かけたり。私も移住者の一人ですが、他所から来た人も、戻ってきた人も、農業だったり漁業だったり、ここにはいろいろなチャレンジができるフィールドがあります。これから先、元通りにはならないこともたくさんあると思いますが、過去との比較ではなく、この町を愛して過ごしている方が、ここでの暮らしを楽しむことができればと思っています。た17浪江町に移住しコミュニティ再生に取り組む中で、道の駅の必要性を感じたという17

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気がするんですふじしろ藤城ひかり光未来会議事務局メンバー昭和49年（1974）、茨城県水戸市出身。埼玉大学卒業後、東京でグラフィックデザインの仕事に就く。2010年に夫の実家があるいわき市に移り住み、デザインの仕事とともに現代アートの制作にも取り組む。『PRAY+LIFE』主催。呼ふばくれしたまよとういなう土地に「できることは何でもやろう」と震災後のいわきで思いました。明日、私たちは生きていないかもしれない。それなら人々の体験や想いを残したいと、ボランティア活動の傍ら出会った人などから話を聞き、一人一つの物語として書き残す「PRAY+LIFE」を始めました。当時はメディアが取り上げきれなかった一人一人の日々、ささやかな出来事に目を向けると、立場や考え方の違いがもたらす難しさが見えてきました。お互いを知る「対話の場」が必要と考え、あるワークショップで同じ思いの仲間と出会い、「未来会議」を始めました。いろいろな人がその時々の思いを話す対話の場を、繰り返し開き記録していきました。毎回60人〜130人の人が集まり、26回に。未来会議は30年続けようとしています。ここから新しい出会いや取り組みも生まれ、未来への種まきの場にもなっています。私はいわきに来てから、「土地や物に刻まれた記憶」をテーマに作品づくりをしています。時々、この土地に呼ばれたんじゃないかと思うときがあります。今は不要に見えるものが、生きた証のように100年後、1万年後、別の意味をもって立ち上がるかもしれない。そう考えると一瞬一瞬がとてもかけがえのないものに思えるのです。す19ワークショップ形式の対話の場である未来会議。異なる価値観の人たちがお互いに耳を傾けあう19

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政策の実現へよしだ吉田大熊町長じゅん淳昭和31年（1956）、大熊町生まれ。1979年、大熊町役場に入庁。生涯学習課長、教育総務課長、総務課長、大熊町副町長を歴任し、2019年11月より大熊町長を務める。住戻んりでた良いかとったと思える「逆境の中でも、町民の皆さんが少しでも安定した生活をできるように」。役場職員として原発事故による全町民避難の誘導にあたる上で心掛けていたことです。町民の方の要望を聞き、生活環境などに差が出ないように気を配りながら考え、行動してきました。最終的に会津若松市に約4,000人が避難。会津若松市からは市内の旅館やホテルを提供していただきました。会津の皆さんには大変ご尽力いただき、大熊町の小中学校を立ち上げ、整った教育環境で子どもたちは学ぶことができました。2019年から町長として町政にあたっています。「戻りたい方」「戻ってきている方」「戻らない方」それぞれの選択がありますが、町に戻るための環境を整備することを第一としています。戻ることができない方にも「故郷を思う気持ち」を持ち続けていただけるように、新たに町民となる方には「移住して良かった」と思える政策を実現していきます。昨年、2050年までに二酸化炭素の排出を実質ゼロにする「2050ゼロカーボン宣言」を行い、今後の町が目指すべき道を示すことができました。これからも大熊の再生のために魅力ある町づくりを進めてまいります。へ212019年8月、大熊町に開所したイチゴ栽培施設「ネクサスファームおおくま」で実ったイチゴ21

