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福島環境再生100人の記憶津波で集落が消えた浪江町の請戸地区【2011年3月13日付福島民報掲載】

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目次巻頭言記憶編1青木洋楢葉町教育委員会教育長3赤石沢則男環境省福島地方環境事務所中間貯蔵部中間貯蔵技術企画官5秋本浩志居心家大黒さん(イゴコチダイコクサン)皿洗い&営業7浅野雅己浅野撚糸株式会社代表取締役社長9猪狩弘道株式会社富岡アグリファーム取締役11伊澤史朗双葉町長13石井一夫石井食堂15石井絹江石井農園代表17石上崇一般社団法人ふたばプロジェクト事務局長19井出茂小松屋旅館21今泉冨代よりあい処華23上田栄治株式会社Jヴィレッジ代表取締役副社長25梅津善幸伊達市役所産業部農政課長27遠藤元気和太鼓奏者(G-project)29遠藤秀文株式会社ふたば代表取締役社長・技術士(建設部門)31遠藤俊博福島県選挙管理委員会委員長、元福島県教育長35遠藤雄幸川内村長37遠藤瞭新潟大学2年39大場美奈ちゃのまプロジェクト代表41大和田剛一般社団法人とみおかプラス代表43大和田正博株式会社ダルマイサー代表取締役45岡本全勝前福島復興再生総局事務局長47小椋義正奥裏磐梯未来企業組合理事長49押田一秀報徳庵店主51小野貴久環境省福島地方環境事務所廃棄物処理施設運営管理室53

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金田政太スペースエンターテインメントラボラトリー代表取締役55鎌田清衛おおくまふるさと塾顧問57菅野孝明一般社団法人まちづくりなみえ事務局次長59菅野典雄前飯舘村長61菊池吉浩株式会社ACDC代表取締役63木野正登経済産業省資源エネルギー庁廃炉汚染水対策官65草野利明環境省福島地方環境事務所環境再生課市町村支援室室長補佐69久保田彩乃ラジオパーソナリティー、インタビュアー71久保優司森と里合同会社代表社員73黒沢知子新地町教育委員会教育総務課副主幹兼総務学校係長75小林奈保子なみとも代表77近藤能之よつば保育園副園長、NPO法人みんな共和国理事、小高やどりぎ。代表79齊藤芳彦元双葉町郡山行政区長81佐々木邦浩一般社団法人とみおかプラス事務局長83佐々木清一前双葉町議会議長85笹田淳双新電子代表取締役CEO87佐藤右吉震災後にはじめて大熊町に戻った住民89佐藤博有限会社いいたていちごランド共同代表91佐藤良一株式会社紅梅夢ファーム代表取締役93佐原禅NPO法人くらスタ理事長95志賀瑚々呂鶴飼夢姫福島県立ふたば未来学園高校平成31年度卒業生97鴫原良友前飯舘村長泥行政区長99清水淳子株式会社夕月代表取締役103杉下博澄かつらお胡蝶蘭合同会社105菅野幸雄NPO法人環境ワーキンググループ伊達理事長107鈴木市夫株式会社鈴木酒造店長井蔵会長109

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目次鈴木謙太郎木戸川漁業協同組合鮭ふ化場長鮎中間育成場長111鈴木力株式会社栄製作所代表取締役社長113鈴木久友元大熊町役場総務課長、元「じじい部隊」115鈴木富士子そば処心平庵代表117鈴木みなみ一般社団法人とみおかプラス職員、富岡町復興支援員119瀬戸和夫環境省福島地方環境事務所中間貯蔵部用地補償課課長補佐121添田麻美一般社団法人Oval(オーバル)代表123曽我泉美NPO法人ふくしま震災孤児・遺児をみまもる会理事長125髙田義宏福島県企画調整部避難地域復興局次長127髙野泉一般社団法人ふたばプロジェクト代表理事129髙橋荘平一般社団法人えこえね南相馬研究機構代表理事131武内裕美元双葉町役場総務課長133田中衛環境省福島地方環境事務所環境再生・廃棄物対策部環境再生・廃棄物対策統括課137谷信孝福島大学相双地域支援サテライト特任専門員139玉野寛子川俣町立川俣中学校理科教諭141永井康統NPO法人0073(おおなみ)代表143中野隆幸浪江町役場住民課課長145なすび俳優、タレント147南郷市兵福島県立ふたば未来学園中学校・高等学校副校長149新妻泰居酒屋いふ、民宿新妻荘経営151西本由美子NPO法人ハッピーロードネット理事長153根本友子大熊町ひまわりプロジェクト会長155橋本景子環境省福島地方環境事務所廃棄物対策官157橋本武士福島県生活環境部環境回復推進監兼次長(環境保全担当)159東山晴菜一般社団法人まちづくりなみえ道の駅なみえ駅長161福岡渉一双葉町郡山行政区長163藤城光未来会議事務局メンバー165

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星義道NPO法人森林野会理事長167牧ノ原沙友里一般社団法人ならはみらい管理本部主任169松本愛梨NPO法人富岡町3・11を語る会171松本弘葛尾村副村長175松本広行楢葉町ユズ研究会会長177松本幸英楢葉町長179万福裕造農研機構農業環境変動研究センター上級研究員181水野廣人水野林業183皆川紀代美一般社団法人いわき観光まちづくりビューロー総務部総務課課長補佐185宮本皓一富岡町長187元木寛株式会社ワンダーファーム代表取締役189森秀樹双葉町郡山行政区役員191森山貴士一般社団法人オムスビ代表理事193山根麻衣子フリーライター195横川圭介株式会社ネクサスファームおおくま生産部主任197横須賀幸一富岡町観光協会事務局長199横田美明南相馬市経済部長201吉田栄光福島県議会議員203吉田淳大熊町長205和田浩志奥州棚倉商店会長207渡邉光貴株式会社タカワ精密取締役209渡辺利綱前大熊町長211資料編215あとがき274

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記憶編震災を体験し、復興に向けて奮闘を続ける方々。百人百様の記憶と、これからへの思いを語っていただきました。1

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説職「見明員えのな覚い悟もをのあおきひろし青木洋感」楢葉町教育委員会教育長じへたの昭和30年(1955)、楢葉町生まれ、不岩手大学工学部卒業後、建設コンサルタント会社を経て1981年より楢葉町役場。2012年7月から放射線対策課長として除染、放射性廃棄物、災害廃棄物の処理安などに携わる。2016年定年退職。総務課参事を経て2017年より楢葉町教育長。目に見えないものに対する不安、それが当時、大きくのしかかっていました。原発事故が起き、地震で屋根が損傷した自宅。修理できないまま避難を余儀なくされた町民は、雨が降るたびに雨水と放射性物質が屋内に入り込むのを避難先で心配することしかできなかった。国の直轄で除染が行われることになり、説明会での住民の不安や憤りはそれは大きいもの。当初は私自身も放射能に関する知識がない不安の中、感じました。その覚悟が、説明会を重ねるうちに町のみなさんへと伝わったのだと思います。少しずつ、理解をいただけるように。放射線に対しては科学的に言われる「安全」と、心で感じる「安心」はイコールではない、という難しさを感じたこの10年でした。ならはまち重要だと考えています。楢葉町の未来である子供たちの育成にも力を入れていきたいと思っています。取材に応え、当時の楢葉町の現状を語る青木さん(左)【2014年7月11日付福島民報掲載写真】会環境省の若い職員の方が除染に対し相当な覚悟をもって説明会に臨んでいるのをこうして除染、仮置場の設置、廃棄物の処理という流れができていきましたが、一方で「本当に安心できるのか」という住民の不安はなかなか拭えませんでした。今、インフラの整備など復興の形は整ってきましたが、これからのまちづくりが3

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復興を前に進めたあかいしざわ赤のりお石沢則男環境省福島地方環境事務所中間貯蔵部中間貯蔵技術企画官昭和37年(1962)、飯舘村生まれ。1984年、旧建設省に入省。2014年度より2年間、環境省の廃棄物関連業務をサポート。2017年度に環境省に2度目の出向。福島地方環境事務所にて中間貯蔵施設の設計審査、再生利用事業の実証などを担当。忘れない遅くても富岡、浪江の風景をいいたてむら震災後、実家のある飯舘村は原発事故で全村が避難対象に。両親は避難した南相馬で生活を送ることになりました。もともとは農家で葉タバコやトマトなどを作っており、老後はゆっくり過ごしたかっただろうと、悔しい思いはぬぐえませんでした。月に1度は様子を見るため両親のもとへ帰省していました。3年前に飯舘村の居住制限区域の避難指示が解除になり、ようやく元の実家に戻ることができたので安心しました。私は震災後も国交省に勤務し、2014年度より2年間は環境省の廃棄物関連の仕事を手伝う機会をいただき、福島の状況を間近に見ることができました。その頃から、より故郷への思いが募り「国交省時代の30年間の経験をここで生かさずにはいられない」と思っていたところに、運よく環境省出向の辞令拝命。ながどろ現在は、中間貯蔵施設の設計審査や飯舘村長泥地区の再生利用事業の実証事業などを担当し、福島の復興のお手伝いをさせてもらっています。私は後ろに戻るのは嫌いです。震災後に初めて見た富岡や浪江の風景を決して忘れることなく、遅くても歩みを前に進めていきたいです。まもなく定年を迎えますが、退職後に何をするかも自分にとっての大事な課題だと思っています。い52020年10月16日、飯舘村長泥地区環境再生事業運営協議会の現地視察。概要を説明する赤石沢さん(右)

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居酒屋開あきもと秋ひろし本浩志居心家大黒さん(イゴコチダイコクサン)皿洗い&営業昭和51年(1976)、大熊町生まれ。社労士事務所Greenで特定社会保険労務士・宅地建物取引士としても働いている。新天地いわきで二足のわらじで頑張り父が大熊町で営んでいた店の名前は「スタジオナンバーワン」、ダンスやカラオケが楽しめる店。双葉郡の人なら「ああ、あそこかい」とすぐに分かってもらえる店でした。双葉郡は社交ダンスが盛んで、ダンス仲間のパーティーや二次会で利用される方も多かったと聞いています。私もいずれ店を継ぐつもりで大熊に戻っていたのですが、東日本大震災と原発事故で状況は一変、震災の翌日にはバスに乗り、全町民の避難が始まりました。みやこじ田村市都ふねひき路地区、船引地区、三春町、会津へ…。そうしてわが家と仕事を失いました。それでも「きっと親に何か残してあげたい」という思いがつのり、2019年いわき市に居酒屋を出しました。店を始めてからは、今まで会うことのなかった人たちとも知り合うことができました。また震災後にいわきに移り住んだ同郷の人も利用してくれたので、そういう方や、もちろん地元いわきの方、そして震災後に他県から来た方など、たくさんの方に来ていただき、ずうっと仲良くしてもらっています。それがこの店の理想、私の心の支えですね。震災後に社労士の資格も取得して開業しました。今後もしっかりいわきに根をおろし、二足のわらじで頑張っていきたいと思っています。店7大熊町で30年以上親しまれていた「スタジオナンバーワン」の店内

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運命だと体が震えましあさの浅まさみ野雅己浅野撚糸株式会社代表取締役社長昭和35年(1960)、岐阜県安八町生まれ。福島大学教育学部卒業、岐阜県で教員生活を4年過ごした後、1987年に浅野撚糸入社。1995年、35歳で代表取締役社長就任。双葉町との出会いはた「福島の復興に力を貸してくれませんか」と繊維業界の企業が集まる会で経産省からの声がけが、福島に工場進出を考え始めたきっかけ。いざわ2019年7月、伊澤町長自らの案内で、初めて双葉町を訪れました。津波と原発事故の被害を受け更地になった土地に立って感じたのは無限の可能性。「この風景は何だ、ここから何かを起こさないと」と思いました。「ずっと待ち続けているの?」傷んだ家に向かって、私はそう話しかけてしまい、目頭が熱くなりました。あるじを失った家々がその帰りを待つかのようでした。帰り道、双葉に工場を建てようとすでに心に決めていました。これは理屈じゃない。運命だと体が震えました。私の会社も、さまざまな困難を多くの方に助けられて乗り越えてきました。「いつかは社会に恩返しをしたい」という気持ち、学生時代の4年を過ごした福島への思いがあります。伊澤町長をはじめ双葉町役場の人たちは、大変な目に遭った中でも上を向き、夢を追いかけている。とてもポテンシャルが高い。私はここに、工場のみならず復興のシンボルとなるような拠点をつくり、交流人口を増やしたい。「双葉町は、福島県は負けないぞ」をアピールできる。そんな場所にしたいですね。9立地協定書に調印し、握手を交わす浅野さん(右)と伊澤史朗双葉町長

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苦労したもいがり猪ひろみち狩弘道株式会社富岡アグリファーム取締役昭和18年(1943)、富岡町生まれ。富岡町の農家に生まれ、高校卒業後すぐに就農。震災まで家業として農業を営む。震災後、福島第一原発の事故により6年間避難生活を送る。2017年の避難解除を機に農業法人立ち上げを決意して自宅も再建。4人の仲間とともに「株式会社富岡アグリファーム」をスタートし、富岡町の農業再生を目指す。上げたいよね今年は相当な収穫量をん11農業は富岡町の基幹産業だけども、原発事故で全町民が避難して誰も営農する人がいなくなりました。私自身も知人を頼って転々とし、いわきに新しい家を建てたりもしながら避難先で生活をしていましたが、6年かけてようやく避難指示解除されてね。多くの税金をかけて、あれだけの農地を除染して、それを見過ごすよりも農業法人立ち上げようと。それなら私もやりますって仲間がいたから。今なら大きな補助もあるから、それが終わる前にいろんなことをクリアして、雇用も生んで、若手に受け継ぐことができる農業をやろうと。ちゃんと計画立てて、5年目にはしっかりとした収入あげっぺと言って始まったわけです。昨年2回目の収穫だったけど、荒れ放題で地力が落ちていた農地だから、今は勉強だという感じでやってます。今年は相当な収穫量上げたいよね。苦労した分だけ報いのあるような農業経営をして、若い人に農業ってのは良いなって思ってもらえるようにしたい。黙って過ごしても人生、苦労して過ごしても人生。せっかくだから命ある限り、人のため、自分のためにやっぱりやりましょうよと思っている。震災や原発事故の痛みは消えないけど、その厳しさを仲間と越えていきたいですね。地域の神社「王塚神社」も10年ぶりに再建。秋に行った社殿竣工祭では神楽も披露された

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思いを忘れないざわ伊しろう澤史朗双葉町長犠牲になった人の復興のため、昭和33年(1958)、双葉町生まれ。麻布獣医科大学獣医学部卒業。1989年、イザワ動物病院を開院。2003年から2011年まで町議会議員を務め、2011年11月に双葉町議会副議長となる。2013年3月10日、双葉町長選に立候補し、初当選。現在は、いわき市内に置かれた町役場いわき事務所で町政を執る。い13双葉町の復興は、2017年からスタート。「住民の帰還は難しい」とされていた帰還困難区域であっても、要件を満たせば避難指示が解除されることになったからです。震災の翌日、東京電力福島第一原発の水素爆発で、全町避難がはじまって10年。現在も町域のうち約95%が帰還困難区域に指定されています。現在はいわき事務所で、2022年の特定復興再生拠点の解除に向けて準備を進めています。中間貯蔵施設の受け入れ決定が、震災後の取り組みで一番大変でした。現在は町民の皆さんも、「双葉町と大熊町で除染廃棄物を受け入れるしかなかった」と、ある程度納得されている方が増えています。しかし避難生活が継続するなか、さらに追い打ちをかけるように、先祖伝来の土地、家屋、財産まで手放さなくてはならなくなったわけで、その心中は察してあまりあります。町民の皆さんの悲しみと苦しみに満ちた表情は、今でも忘れることはできません。国民の皆さんには、犠牲になった人たちがいるからこそ、復興が進んでいることをご理解いただきたい。今後環境省をはじめ国には、減量化と無害化・無毒化した放射性物質への取り組みをしっかり進めてほしいですね。2020年10月1日、レストランやフードコート、貸し会議室を備えた双葉町産業交流センターが開所

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何とか続けていきたいしい石かずおえりこ井一夫・恵理子石井食堂昭和31年(1956)、葛尾村生まれ。東京で自動車整備士として就職。妻、恵理子さんとは、免許取得のために帰郷した際に出会い結婚、石井家に入る。2代目として引き継ぎ、夫婦で石井食堂を切り盛りしている。原発事故により全村避難となり、三春町の仮設店舗で食堂を継続。2016年の避難指示解除を機に、葛尾村で営業再開した。お客さまに温かい食事をいかつらお葛尾は原発の事故で全村避難になってしまった。でも私らは「戻って、また店をやろう」と思っていて。三春の仮設住宅に仮店舗を作っていただいて、仮営業しましたが、常に「早くどうにかしなきゃ」という気持ちでやっていたんです。今は思い出せなくなってきたけど、仮店舗での営業は暑いし手狭だったし、避難生活は大変なこといっぱいありましたよ。村民の悩みは同じだったから、仮設の中ではあまり苦労とは思っていなかったかもしれない。村で再開するときはセレモニーやるってことで、大急ぎで準備して、半年くらい仮設と行ったり来たりしながら営業しました。なんだかずっとのんびりできなかったし、思い返せば色々あったよね。おかげさまでお客さまはたくさん来てくれるけど、地元の人は少ないね。村民が戻ってこないことは寂しいけど、ここで働いてくれる人たちが温かい食事を喜んでくれていることが励みです。10年経って、今度はコロナだもん。ほんとに色々あるよ。震災は頑張ればお客さまが来てくれて取り戻せたけど、今回は日本中の商売が難しいね。うちは息子も一緒に頑張ってくれているし、たくさんの助けがあってここまでこれたから、何とか続けていきたいと思っています。15建物を新しくして営業再開。葛尾村で唯一食事ができる店として、連日多くの客で賑わう

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分かち合えれいしい石きぬえ井絹江石井農園代表昭和27年(1952)、浪江町生まれ。高校卒業後、浪江町役場勤務。役場職員として津島診療所に事務の勤務中、震災を体験。2015年に避難先の福島市で石井農園をスタート、えごまなどの加工品が全国でも評判となっている。たくさんの人と食べたいものを作ってば17震災後、町民の葛藤を知るたび、42年間お給料をいただいた町に恩返ししたい気持ちが高まり、退職したら浪江のために活動しようと心に決めていました。退職金を使って石井農園を開業。現在は浪江も含めて5つの農場を持ち、それぞれの土に合わせたさまざまな作物を作っています。つな浪江の仲間と故郷への愛を繋ぎたいという思いが強く、それが原動力です。「とにかく自分たちが食べたいものを作って、その美味しさをたくさんの人と分かち合う」。そこにとことんこだわって、前だけを見て進んでいます。農園の看板商品はエゴマです。若い人とともに「日本一」を目指し、栽培、加工をしています。かな2020年は「浪江の道の駅で私たちの加工品を販売したい」という願いも叶え、軌道に乗り始めたという感じですね。震災の時は全国から支援をいただきましたが、何よりも温かいものをみんなに食べさせたくて。その時の思いが今の活動の原点になっているかもしれません。町民の暮らしは大きく変わり、思いをひとつにするのは簡単ではないですが、ともに手足を動かし、故郷の味を未来に残していきたい。震災から10年を迎え、うそこれからもより自分に嘘のない人生にしていきたいと感じています。農薬や化学肥料を使わない農法で栽培。小さな機械と手作業で加工し、商品化している

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これからが本番いしがみ石上たかし崇一般社団法人ふたばプロジェクト事務局長昭和51年(1976)、双葉町生まれ。双葉町役場に勤務。震災後は秘書広報課の職員として、全国に避難した全町民へのデジタル情報発信に力を注ぐ。2016年から復興推進課で復興計画策定に携わった後、2019年4月から派遣という形で現職。「ふたばプロジェクト」の立ち上げ、運営の主力として活躍している。双葉町のまちづくりは仙台に出向中に大震災と原発事故が起き、故郷に帰れないまま埼玉に設置された町役場支所へ向かいました。間もなく任期満了という時期の出来事でした。双葉町は2020年3月に一部区域が避難指示解除になったばかり。私もいわき市にある事務所から毎日のように双葉町へ通っています。まだ町民が戻っていない、誰も住んでいない町で、未来をどう描いていくか…。課題にぶつかりながらも仲間とともに住民帰還の準備を進めています。町民の避難生活は本当に先が見えないものでした。そんななか、2022年春にようやく役場本体機能が双葉町に戻ることになり、町民の帰還もはじまることになりました。その方針が示されたとき、ようやく「光が見えた!」と感じました。時期が示されたことで、さまざまな課題を前向きに考えられるようになり、少しずつ将来のビジョンを描けるようになりました。町は85%の帰還困難区域を残すマイナスからのスタート。むしろここからが本番です。これからも町と連携しながらさらに前へと進めていきます。!19つな「ふたばプロジェクト」も町民をはじめ、多くの応援してくださる人との繋がりを大切にしながら、笑顔で安心して暮らせる双葉町を目指してチャレンジしていきます。「ふたばプロジェクト」は町と人、人と人を繋ぎ、官民連携・協働のまちづくりを目指す

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い井で出小松屋旅館しげる茂昭和30年(1955)、川内村生まれ。高校卒業後に県外で就職したが、帰村後富岡町の割烹料理店で修業、家業の「小松屋旅館」を継ぐ。49歳で村議会議員となり、現在5期目。川内村商工会会長。地面が波打つような大きな揺れに慌てて自宅に戻ると、先代から受け継いだ旅館は土壁が崩れた姿に。震災直後は富岡町民の受け入れや炊き出しも行っていたのですが、やがて食料もつき、避難を決めました。福島第一原発は爆発後に一度火災があり、当時川内村にいた富岡町の消火の責任者が声を震わせながら「ただちに向かいます」と報告していた姿が、今も目に焼き付いています。2011年4月には旅館を廃炉関係者の宿泊場所として提供することになり、さらに12月の「帰村宣言」に伴い、行政に続いて商工会も村に戻ることになりました。村は紙を1枚ずつ重ねるようにして日常を取り戻してきました。ただ買い物のできる店があるだけでなく、そこに生産活動があって、田んぼがあって野菜が採れて、本来の暮らしができてこその日常なのだと思います。かつて村の自慢は、地元の山菜やキノコ、イワナなどでした。そんな大事な観光資源が失われ、里山の文化が廃れるのは寂しいことです。震災によって、改めて気づかされた“ふるさとの良さ”。新しいコミュニティとしての川内村を築き、再び豊かな川内村の暮らしを取り戻すことができればと願っています。日常をもう一ふるさとの豊かな暮らし、度そば店「天山」、パン店「RIVIERE」はそれぞれ息子さん、娘さんが店長を務める21

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友だちになれる場所いまいずみ今ひさよ泉冨代よりあい処華昭和23年(1948)、田村市生まれ。18歳で都路村役場(現・田村市都路町)職員に。退職後2009年まで特別養護老人ホーム施設長を務め、引退後、趣味で手芸を始める。震災後は村民に手芸を教える活動などを経て2014年、市内都路に「よりあい処華」を開設。通ううちに会話が生まれ震災時は夫も息子も役所の職員でしたので、私と嫁と孫2人で転々と避難しました。怖くて眠れない夜もいっぱいあって、泣いて過ごしていた気がします。5回目の移転で一戸建てを借りて、ようやく家族で落ち着くことができました。落ち着くと、習った手芸を活かして何かできないかと考え、仮設住宅で手芸を教える活動をずいぶんやりましたね。「何したら良いか分からない」というおばあちゃんの言葉が忘れられなくて、みやこじ2年間、毎月2回欠かさず通いました。都路に帰れることになり、寄り合う場所が必要だなと思って始めたのが「よりあい処華」です。「認知症予防になるからまた来て」って声をかけて、通ううちに会話が生まれて友だちになる。子どもたちがおばあちゃんたちと手芸をしたり、ボランティアの社会人や学生さんとの交流もたくさんある。中学生がボランティアさんに「都路は私たちが守るので安心してください」って挨拶してくれたことを思い出すと今も胸いっぱいになります。3年くらいのつもりがもう6年。やめるのはもったいないって言われ、私たちもそう思うようになった。ここが無かったら皆どうしてたかなって思うこともあるし、できる限りは続けていきたいですね。に23「よりあい処華」で、つるしびな作りを学ぶ子どもたち。地域の人たちが「先生」となり、交流を深めている

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緑のピッチに笑顔シンボルとして福島復興のうえだ上えいじ田栄治株式会社Jヴィレッジ代表取締役副社長昭和28年(1953)、千葉県館山市生まれ。1999年よりベルマーレ平塚監督。同年12月マカオ代表監督。2002年から日本女子代表監督に就任し、2004年アテネオリンピック出場。2006年より日本サッカー協会理事、女子委員長を務める。2013年よりJヴィレッジ副社長。を25「ここでまたサッカーができる日がくるのだろうか」。原発事故の対応拠点となったサッカーの聖地は、天然芝のピッチに砂利が敷かれて駐車場になり、スタジアムのところに建っていたのは仮設宿舎。震災後に初めて訪れたときはとてもショックでした。震災前は、よくキャンプで利用していたJヴィレッジ。ピッチがとても良く、宿泊施設が整っていて使いやすく、気に入っていたんです。2013年9月にオリンピックの東京開催が決まり、そこを目標にJヴィレッジを再開させようという計画が始動。私もプロジェクトチームの一員として開業の準備を進め、灰色だったピッチに緑が戻っていく様子にとても感動を覚えました。一方で「本当にJヴィレッジに行って大丈夫なのか」という声もあり、風評の根深さを感じながらの準備作業でした。2018年7月28日午後2時46分、スタジアムでゲーム開始のホイッスルが鳴り響き、あの時から止まっていた時計が再び動き始めました。Jヴィレッジは今、サッカーの聖地であるとともに福島復興のシンボルという役割も担っています。スポーツに限らず、老若男女が訪れ、多くの人が楽しめる場所となるよう、これからも発信を続けていきます。2019年4月20日、グランドオープンを迎えたJヴィレッジに笑顔があふれた

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伊達の誇りをPうめつ梅よしゆき津善幸伊達市役所産業部農政課長昭和38年(1963)、伊達市生まれ。旧伊達町役場に入職後、2006年の合併で伊達市職員となる。東日本大震災発災の年に放射能対策課除染対策係長に。伊達市農林業振興公社出向、放射能対策課長を経て現職。乗り越えた経験を強みに試行錯誤を続けは「土を剥がしたら数値が下がらないだろうか?」。原発事故の後、市内に放射線量が高い地域があるのを知り、だてし伊達市として独自に除染の取り組みを開始。連日のように日付が変わるまで働き、土日も休まずに走り続けました。数値が下がるとうれしくて、不思議と底力が湧いてきたものです。市民の不満や不安が一気に押し寄せる除染の説明会では、「安心な暮らしを取り戻すために必要なこと」と繰り返し話をしました。その後、環境省のスキームができて、私たちの除染の手法について聞いていただき、一緒に地域に入り現場を見て意見を交わし、考えていくやり取りから、「話し合うこと」の大切さを再認識しました。次の職場では、原発事故で急増したイノシシを活用する革製品「inoDATE」の開発に着手。最初「何をしてるの?」といぶかしく見ていた人が多かったのですが、現在は商品の引き合いも多く、ワークショップが人気です。つ銀座の街角に出荷制限解除後も風評被害の残る「あんぽ柿」を吊るして熟成過程を見てもらう取り組みは、2015年から5年続きました。みぞうそれぞれの立場から未曾有の災害を乗り越えてきた経験は大きな強み。誇りをもって、市の取り組みをPRしていきたいと思います。R27一時出荷が制限されていた「あんぽ柿」。風評被害払拭とブランド復活に向け銀座でPRした

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太鼓が繋いでくれえんどう遠げんき藤元気和太鼓奏者(G-project)昭和63年(1988)、川俣町生まれ。保育や介護について学んだ後、障がい者授産施設に勤務。震災後は、10歳から続けていた和太鼓の活動を継続するため、2013年和太鼓奏者に転身。オリジナル曲の作曲や指導、国内外でのパフォーマンスやセッションを行っている。地元和太鼓団体「山木屋太鼓」の会長も務め、地域と人を繋げる活動にも力を注ぐ。故郷山木屋への思いをたかわまたまち原発事故が起きて放射能汚染が川俣町にまで及んだ時、「太鼓を続けられないかもしれない」という不安が私を突き動かし、つなこれからは山木屋太鼓を絶やさず次代に繋げていこうと決意しました。こんなふうに和太鼓の道で生きていくなんて、震災前は考えられませんでした。「山木屋太鼓」は地域の若年の育成を目的にしていますが、震災後避難生活が長期化し、生活環境や気持ちの変化とともにメンバーが年々減少…。そんな中、太鼓の楽しさを川俣町の子どもたちに体験してもらうなど、幼稚園から大人まで地域の垣根を越えた活動を続け、メンバーも安定してきました。これまで素晴らしい出会いにも恵まれ、伝統文化や音楽には自分の知らない魅力的な世界が無限にあることも知りました。この10年、故郷への気持ちを絶やさないことをずっと考えています。大切なものを守り、戻る住民が少ない地域で活動を広げていくことは簡単なことではありません。地域の人たちと話をするたびに「山木屋のこれからを、もっともっとしっかり考えられる大人になりたい」と思いは年々強くなります。和太鼓奏者としてさらにレベルを上げ、未来に繋げていける活動を目指していきます。292018年5月に南相馬市で開催した「ふくしまFlow2」にて。「当たり前に感謝し、自分に挑戦し続けていきます」と遠藤さん

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よワ「りイ地魅ン域力づへ的くのなり恩えんどうしゅうぶん地で返遠藤秀文域し株式会社ふたば代表取締役社長・技術士(建設部門)を昭和46年(1971)、富岡町生まれ。」大学進学で上京後、大手建設コンサルタント会社に就職し20数カ国で胸ODA(政府開発援助)に関わる。2007年に帰郷し父が立ち上げた双葉測量設計㈱に入社。2013年に社長就任。に一般社団法人とみおかワインドメーヌ代表理事。「会社はどうするんだ」。それが震災の3日後、避難所で陣頭指揮を執っている父とようやく衛星電話がつながった時の第一声でした。私の父、故遠藤勝也は2013年までの16年間、富岡町長を務めました。自宅、社屋のほか多くを失いましたが、あの非常事態では海外での仕事経験がなんとかなる」と意外に冷静でした。2013年には地域の課題解決に幅広く使った各種調査や建設コンサルティング、まちづくり等をしています。一度は人がいなくなった町をつくり直すのは、世界で初めての経験。形成されて地域に求心力が生まれます。今、大切なのは「震災前より魅力的な地域にしたい」という視点を持ち続けることだと思います。2019年にブドウを初収穫。試験醸造で2020年に誕生した若いワインは、海の幸に合うフレッシュさがあるに31「地域に育てられた会社だから、恩返しをしなければ」という父の言葉に背を押され、4月11日に業務再開。半分に減った社員とふるさとの復旧・復興に努めました。役に立ちました。先遣隊が異国に乗り込む時はトランク一つ。「パソコンさえあれば取り組むため、社名を「ふたば」に変更。現在はドローン、3Dスキャナーなどをコミュニティ再生の一助になればと、本業とは別に2016年から「ワインづくり」も始めました。ブドウの木は長寿で、百年以上も実を収穫できる上に、美しい景観が

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富岡町から避難する町民らの車で渋滞する道路【2011年4月10日付福島民報掲載】

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胸「をふ張るっさてと言はえんどうとしひろ遠藤俊博え福福島県選挙管理委員会委員長、元福島県教育長る島故で昭和25年(1950)、福島市生まれ。福島大学経済学部を卒業後、福島県庁に入庁。福島県立医科大学事務局長、郷す」商工労働部長、知事直轄理事を歴任し、震災時は福島県教育長として任務にあたる。退職後、2017年4月より福島県選挙管理委員会委員長を務める。震災が起きた日は、福島県の公立中学校の卒業式。希望を胸に新たな旅立ちをした子どもたちにも大きな試練をもたらしました。私は県の教育長として、まず各学校の被災状況と児童・生徒・教職員の安否の確認に全力をあげました。その後、全く前例のない難題が一気に押し寄せ、ありとあらゆる問題を一つ一つ解決し、とにかく前進しようと精いっぱい職務に励む日々でした。セリフは大きな感動を呼び、震災からの切なくつらい日々に一筋の希望の光となりました。困難の中で子どもたちのために頑張ってくれた数多くの教職員やスタッフにも感謝しています。福島県人はこれまで逆風の中、全力で頑張ってきており、自立できる力強さがあると思います。これからは子どもたちが胸を張って「ふるさとは福島です」と言える福島県にと願っています。ふくしま総文の開催会場に届いた、全国からの応援メッセージ【2011年8月5日付福島民報掲載写真】に35その年の夏は、ずっと準備を進めてきた「全国高等学校総合文化祭(ふくしま総文)」が予定されていました。「開催できるのか、どうすれば開催できるか」課題は山積み。大幅に内容を変更しながらも「開催する」ことを決定しました。開会式当日、会場で披露された創作劇の「福島に生まれて、福島で育って、福島で働く…」で始まる

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目全「指村村し民はで人子也育」えんどうゆうこう遠藤雄幸て川内村長する昭和30年(1955)、川内村生まれ。1977年、福島大学教育学部卒業。卒業後は父が経営する金物建材販売村(有限会社わたや)に勤務。1999年4月~2000年4月、川内村村議会議員。を2004年4月より、5期にわたり、川内村長を務める。「逃げる」のは簡単なのに、「戻る」のは、どうしてこんなにも難しいのだろう。自分のふるさと、自分の家に戻るだけなのに。そう思いながら、震災後の村づくりを進めてきました。現在の村民帰還率は約80%。子どもの数は113人まで増えましたが、まだまだ震災前の人数には戻っていません。川内村で、安心して子育てしてもらうためには、どうしたらいいのか。安価で受講できる村営の学習塾、村外へ進学する高校生への支援、ひとり親家庭への支援など、思いつく限りの施策を進めてきました。2021年には、保育所を併設した小中一貫校を立ち上げ、0歳から15歳までの子どもを見守れる環境を完成させます。企業誘致や自前の工場建設、新たな目指すのは「全村民で子育てする村」。一方、村内に住所があっても村内の学校に通ったことがない子どももいます。難しい問題も残っています。2021年4月に開校する義務教育学校川内小中学園(後期課程増築の完成イメージ)て結婚祝い金に出産祝い金、保育料の無償化、保育所から中学校までの給食費の無償化、産業づくりなど、安定した生活に欠かせない雇用の創出にも取り組んできました。そうした子どもたちに、ふるさとのアイデンティティーをどう伝えていくのか。37

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向かっていえんどう遠藤新潟大学2年りょう瞭廃炉の実現にあきらめたくない故郷の未来を平成12年(2000)、大熊町生まれ。2019年3月、福島県立ふたば未来学園高校卒業(2期生)。2019年4月、新潟大学理学部物理学科入学。広野町に開校した「ふたば未来学園」に進学を決めたのは、「復興の人材を育成する」との学校の方針を知ったから。生まれ育った大熊町を、10歳のとき家族とともに避難しました。会津やいわきをはじめ、さまざまな場所でたくさんの出会いとサポートを経験。原子力発電所の存在が身近だったこともあり、いつしか「福島第一原発の廃炉に携わること」が自分の将来の目標になりました。そのきっかけの一つが高校時代の未来創造探求の授業。ならはまち私は「廃炉に向けた合意形成」をテーマに研究を続け、広野町や楢葉町で行われたフォーラムでは、「処理水処分」の在り方についてなど、自分の考えを発表する機会をいただきました。ドイツなど数回の海外研修を含めて多方面から原発について考えることもできたので、充実した3年間を送りました。卒業後ももっと原子力について勉強したいと意欲が高まり、大学は理学部を選択。廃炉については、今は保留になっている問題も今後はもっと表面化していくでしょう。私は、故郷の未来をあきらめたくはありません。だから、ここに戻ってきます。大学で学んだことを生かしながら、福島第一原発廃炉の実現に向かって突き進んでいきたいと思います。く39高校2年の時に東京電力福島第一原発を視察。少しずつだが確実に進歩しているように感じた

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そ2みの0ん夏0な一0で面本植のえおおばみな大場美奈黄たちゃのまプロジェクト代表平成5年(1993)、いわき市生まれ。専門学校卒業後、山形県での地域起こし協力隊を経て、広野町の地域起こし協力隊員に。2019年、任意団体「ちゃのまプロジェクト」を発足。震災の後、広野町とたくさん関わっていく中で町に元気を取り戻したいひまわりを植えようと思い立ちました。海風が吹き空気が乾燥する浜通りは、山形の気候と違います。育ち方も違うはずと、地域の人に風や雨のことを聞いているうちに面白そう!」と、少しずつ人が寄ってきました。それが2020年の夏です。「ちゃのまプロジェクト」は、住民主体のまちづくり団体として発足。まず、新しいことをやれる場所をつくろうと、多世代交流スペースさまざまな形で利用できるスペースになりました。私は震災の時、高校2年。進学の時は、福島出身というだけで理不尽な思いをした経験もあります。いつまでもうつむいてはいられません。この町で暮らすには何が必要か、自らに問いかけながら、これからも継続性のある活動を続けていこうと思っています。2020年夏、満開のひまわり畑迷路で遊ぶ子どもたち色41と考えるようになりました。以前山形で活動していた地域起こし協力隊の経験から、そうこうして、仲間で植えた約2,000本のひまわりが、その夏、一面に黄色い花を咲かせたのです。ひまわり畑の迷路で子どもたちが遊びまわり、みんな笑顔に。「ぷらっとあっと」を開設。ママさんたちの情報交換や、ヨガ、パソコン教室など、

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大き過ぎおおわだたけし大和田剛一般社団法人とみおかプラス代表なくしたものが昭和27年(1952)、富岡町生まれ。1976年、看板業をはじめる。平成元年、有限会社アド・プロ広芸社を設立。震災後は避難先を転々とし、2017年、富岡町に帰還。2015年、フクシマエコテッククリーンセンター(現・管理型処分場)計画に際し、立地計画地の太田行政区長として、町や県、環境省と折衝にあたる。有限会社アド・プロ広芸社代表取締役会長。た10年43この10年、いろいろなものを失った。2015年は1月に妻、12月には親父、大切な人を立て続けに亡くした。二人を、当時はまだ避難指示解除準備区域だった富岡のお墓に埋葬したとき「絶対、富岡に戻る」と決意した。2015年6月、太田行政区にフクシマエコテッククリーンセンター(現・管理型処分場)の話が持ち上がり、安全基準をいくら説明されても、みんな「放射性廃棄物を投げるおっかねえものができる」ってイメージしかなかった。当時は自分が区長だったから、行政区を代表して反対を表明したら、「福島の復興のためには」とか、いろいろ言われて…。女房を亡くしたのも辛かったけど、あれも辛かったな。その後、施設の安全安心を示すために、処分場のそばに人が集まる観光施設をつくってほしいと要望した。その他にも町づくりのための交流公園、工業団地とか。すでに完成した施設もある。それをどう生かしていくかは、これからの俺たち次第だけどね。崩壊している原子力発電所立地町に住む一人として、もう2度と、こんな惨めな地域をつくってほしくないとしみじみ思う。「この事故の教訓を生かし、次のステップへ進めよう」なんて、軽々しく言ってほしくない。代償が大き過ぎたよ。仲間と一緒にワイン用ブドウの栽培・醸造を通して、富岡町のにぎわい創出を目指し活動していきたい

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勉強おおわだ大まさひろ和田正博株式会社ダルマイサー代表取締役昭和29年(1954)、富岡町生まれ。中学卒業後、東京で寿司の技術を学び、26歳でUターン。故郷・富岡町で料理人として勤務。1999年、楢葉町に「ナラハ仕出しセンターだるま」を開業。被災後は小野町の空き店舗を借りて営業しながら、区長として住民の生活相談や交流に尽力する。2018年に「なら福」として楢葉町で営業再開した。暮らしについてくるだ45災害も原子力も「なら福」は近隣の方々に美味しい食事やお酒を提供する場、そして大事な行事に仕出しを届けられる店になればと思って再開しました。被災して、皆バラバラになって、区長として声がけしながら毎年交流会をして来たけど、集まる人が少なくなってきてね。商店街で店をやらないかという話もあったけど、元の場所で地元を元気にしたいと思った。除染、廃棄物、家の解体とか移転とか、ガイドラインのこととか、震災後は毎日相談、相談で活動が山のようにあった。店もやりながら、何か相談があったらすぐそのまま町に行ったり環境省さんに行ったりしましたよ。今はもうほとんど落ち着いて、皆の生活は離れ離れになって、ここで暮らす人は2、3割くらい。一番変わったのは、津波で流されたところは住めなくなったってこと。それと放射能だね。「なら福」には、オープンと同時にモニタリングポストをつけてもらった。数字が見えるように表向きにしてね。ちゃんと見えたほうが安心できるじゃない。災害も原子力も、我々の暮らしに常についてくる。一緒になって生活していかなきゃならない。国や行政とも一緒に考えて、皆で勉強会もして、こうやって暮らしていくんだよねって思っています。地区の皆さんとの交流会。参加者は少なくなりつつも、毎年開催している

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責任を果たすでしおかもと岡まさかつ本全勝前福島復興再生総局事務局長支援ではなく、昭和30年(1955)、奈良県生まれ。東京大学法学部卒。自治省入省。内閣総理大臣秘書官、東日本大震災被災者生活支援本部事務局次長、復興庁事務次官、福島復興再生総局事務局長などを歴任。2020年退任。ょ47東日本大震災は、「巨大津波」と「原子力発電所事故」という2つの災害を含んでいます。ただし、津波は天災ですが、原発事故は事故であり、引き起こした東京電力と政府に責任があります。震災直後の夏、福島市で開いた会議での出来事が忘れられません。地元の方の質問に対し、「福島が復興するまで政府は支援します」と発言したら、お叱りを受けました。「訂正しなさい。支援ではなく、責任を果たすでしょ」と。そうです。津波被災地の復興では、政府による支援ですが、原発被災地の復興は、政府の責務です。これは、忘れてはならない基本です。発災から10年がたち、津波被災地での復興は完成が見えてきました。しかし、原発被災地では、ほぼ復旧した地域がある一方で、放射線量が高く立ち入りが制限されている地域もあります。放射線量の低下した地域から、関係者の協力とご努力で順次復旧を進めてきました。これからまだ年月がかかりますが、関係者の英知を集め、国が責任を持って着実な復興を進めることが必要だと思います。発災直後の被災者支援本部の様子

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名所名物の人気つくおぐら小よしまさ椋義正奥裏磐梯未来企業組合理事長昭和22年(1947)、北塩原村生まれ。建設業を経営するかたわら、村会議員や商工会副会長として地域活性化に尽力してきた。2014年、桧原湖の北岸周辺「奥裏磐梯」に賑わいを取り戻すために有志と組合を結成。地元有志15人で立ち上げ日本酒を冬の氷結湖に春まで沈め熟成させるおくうらばんだい「氷湖熟成」の商品化で話題になった「奥裏磐梯未来企業組合」。東日本大震災の後、裏磐梯の二大産業である農業と観光は大打撃を受けました。福島県内というだけで風評被害が広まって農産物は売れず、観光客も来てくれない。なんとか地域を活性化しようと2014年12月、地元有志15人でこの組合を立ち上げました。「氷湖熟成」は全国的に珍しいと発売1ヶ月後には完売するほどの人気に。ひばらこわせざわや2017年には桧原湖北側の空き民宿を活用した塩ラーメン専門店「早稲澤屋しおまる○」をオープン。味付けは大塩裏磐梯温泉の「山塩」、豊富に含まれるミネラルのおかげで角のとれた塩味の中に甘みを感じる、まろやかなスープが生まれました。にぎ3年経って、塩ラーメンはすっかり桧原湖畔の名物になり、店は連日賑わっています。現在、裏磐梯で困っているのが、クマなどの獣害。特に震災後はイノシシとイノブタが増えて駆除が間に合わない状況です。また、国立公園では、場所によっては下草刈りにも許可が必要ですが、景観に配慮した手入れができるように関係機関に働きかけ、これから先の「未来」にも多くの人に裏磐梯を観光してもらえるようにしていきたいと思います。る49当店人気の「とうみぎラーメン」。地元早稲沢地区で収穫したトウモロコシの甘さが引き立つ

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相馬を魅力ある街おしだ押かずひで田一秀報徳庵店主昭和56年(1981)、埼玉県さいたま市生まれ。ウェディングプロデュース会社経営。2011年3月14日、コミュニティ支援団体「RESMILEPROJECT」を設立。現在は相馬市を拠点に地域コーディネーターとして幅広く活動する。復興支援センターMIRAI所長。NPO法人相馬はらがま朝市クラブ理事。よそ者の視点でに子どもたちは大人たちに隠れて静かに遊んでいる…。胸が締め付けられました。当時、都内にいた私は、居ても立っても居られず、震災直後ある避難所を訪れ、そこで見た光景に大きな衝撃を受けたのです。私にできることは何か。自分の経験やネットワークを生かしてやってみようと思いつきました。それがアーティストたちのパフォーマンスで被災地に“笑顔”を届ける支援団体、「RESMILEPROJECT」です。東北各地を巡る中、被災地の状況を目の当たりにし、復興再生への道は険しく、困難と感じました。相双地域を訪れた際、その思いが決心になり、“相馬に腰を据えて活動”となったのです。それからは地元の皆さんとともに、よそ者ならではの視点で復興関連事業の企画や地場産業の発展を目指す街づくりなどに関わっています。「はらがま朝市クラブ」やほうとくあん心の拠り所にとオープンした復興レストラン「報徳庵」もその一環です。また、地域の課題を浮き彫りにし、解決を助けるオープンデータを本にして配付し、市民とともに現状の理解や産業を立て直す糸口を探すことに努めています。つなこれからは若手の育成にも力を注ぎ、教育と産業を繋げるプロジェクトを進め、一緒に相馬の魅力を発信していきたいです。51復興レストラン「報徳庵」の店内

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ことはやらな亡き上司にお小のたかひさ野貴久環境省福島地方環境事務所廃棄物処理施設運営管理室顔むけできない昭和55年(1980)、喜多方市生まれ。大学卒業後、全国展開するホテルに入社し、約10年間勤務。2012年1月、環境省福島地方環境事務所の開所とともに入所し、廃棄物処理を担当する。い53「福島をきれいにしたい」という一心で、福島地方環境事務所の開所に伴う人員採用に応募、そして入所。以来担当は、廃棄物処理です。震災発生の時は喜多方の実家におりました。会津地方は、地震による直接の被害は、浜通りや中通りに比べると少なかったと思います。でも、その後に起きた原発事故によって、避難を余儀なくされた方々、風評被害を知るようになり、自分の子どもたちに、悲しい思いをさせたくないと強く願うようになりました。担当業務では、ホテルマン時代に培った、相手の立場になって考える姿勢で住民の皆さんと接してきました。心をこめ真っすぐに思いを伝えることで、理解が進み、たくさんの協力に恵まれたのです。一番忘れられない出来事は、入所してからずっと私を育ててくれた上司(課長)が、2019年8月に急逝したこと。倒れる前日の夜、一緒に酒を酌み交わし、翌日の出張にも同行の予定でした。心筋梗塞によって突然の別れとなったのです。今も悲しくてやりきれない思いが消えません。これから先、仕事や人生で迷った時には、「課長に顔むけができないことはやらない」と心に決めています。課長の遺志も胸に抱き、今後も福島の再生と復興のために頑張っていきます。飯舘村の蕨平地区仮設焼却施設。村内の廃棄物と村外5市町の下水汚泥・農林業系廃棄物を焼却処理し減容化を行う

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地元の応援は幸かねだ金まさた田政太スペースエンターテインメントラボラトリー代表取締役昭和59年(1984)、東京都生まれ。東京工芸大学映像学科卒。広告映像や商品企画デザインの仕事を経て、惑星探査ロボットの開発を行う株式会社ispaceの立ち上げに取締役として参加。2014年、スペースエンターテインメントラボラトリー設立。ワクワクする研究開発せ55東京で起業し、ドローンの開発を行っています。実験がしやすい環境を求め、2017年に南相馬市に来ました。福島イノベーション・コースト構想が動き出し、ロボットテストフィールドができるなど、モチベーションが高く、開発拠点としての可能性を感じたこともここに来た理由です。現在、飛行時間が長く、遠くまで飛ばすことができる上、「水上発着型」という世界で類を見ないタイプのドローンを開発しています。大規模災害のリスク低減につながるような、防災や減災の分野で役立つ機体になればと考えています。東日本大震災が起きた当時の話を、地元の方に聞く機会がありますが、本当に大変だったと思います。そんな福島で、人の命を救えるような技術や製品開発を、地元企業の方とともに進めることに、大きな意義と使命感を感じます。私が出会った福島の方たちは力強く前向きに生きておられる方が多く、復興に向けて地域全体を盛り上げていこうという機運があります。この地にロボット関連の企業が集積し、どこよりも先進的な研究開発ができることを考えるとワクワクします。ドローンの実験には大勢地元の方たちが応援してくれ、幸せを実感しています。金田さん(右)と機体の開発メンバー。ドローンの実験は南相馬市の唐神溜池で行っている

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町残のし口た伝かをっ一たかまたきよえ鎌田清衛冊おおくまふるさと塾顧問に昭和17年(1942)、茨城県龍ヶ崎市生まれ。3歳より大熊町で育つ。双葉農業高校卒業後はナシ園を営みながら、ふるさとの良さを発見しようとする「おおくまふるさと塾」の一員として活動。2016年3月、「残しておきたい大熊のはなし」を出版。大熊町文化財保護審議委員。震災時は、ナシ畑で作業をしていました。その後、原発事故が起こり寝たきりの母をワゴン車に乗せて妻とともに着の身着のままで避難したことが忘れられません。2011年末に一時帰宅ができた時に、以前に町内の方々から聞いた逸話を記したメモを発見。それからは、一時帰宅のたびにメモや資料を探して1年半かけて持ち出しました。2013年に自宅が中間貯蔵施設の用地に入ることが決まり、30年は帰れない見通しが出てきたことで、断片的なメモを本に残そうと決心しました。あらためて町民の方々に話を聞き、町史などで確認しながら口伝えで語り継がれた31話をまとめて1冊の本に。実名や町の方言をそのまま残したかったので、語り手の言葉をそのまま文字にした部分もあります。原発立地だけが大熊町の歴史じゃないという思いと、将来新たに住む人々に「大熊ってこういう町だった」と知ってほしい。これからも大熊町の歴史や昔ばなし、文化財を守りながら未来へ語り継いでいきたいと思っています。あのふるさと大熊の大地は我々だけのものではなく、これから生まれてくる未来の人たちが使うものなんです。だからこそ、100年先、500年先を考えながら安全に住める場所に再生することを願っています。『残しておきたい大熊のはなし』(右)と2014年に自費出版した『日隠山に陽は沈む』57

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考え続けたかんの菅たかあき野孝明一般社団法人まちづくりなみえ事務局次長大切に生きることをこの瞬間を全力で昭和44年(1969)、川俣町生まれ。弘前大学で地質学を学び建設コンサルタント企業に12年、学習塾に8年勤務。2012年に浪江町復興支援コーディネーターとして採用されて以来、浪江町に関わり続けている。い59東京にいた私は、津波のニュース映像とその後の原発事故の報道に衝撃を受け、「ふるさとがなくなってしまう」と大きな不安を感じました。震災の翌年、福島に戻りましたが自分に何ができるのか自問自答の毎日。その長いトンネルを抜けたところに、浪江町復興支援コーディネーターの仕事がありました。最初に関わったのは防災集団移転促進事業の立ち上げ。事業の全体像を作り上げた瞬間、「あぁ、こうすればいいんだ」と職員たちの表情がパッと変わったのが印象に残っています。計画から建設へと具体的な仕事も動き始め、住民との合意形成もダムづくりに関わった時の経験が役に立ち、一部地域の避難指示解除に向けて約200の事業ヒアリングや、課題解決の支援・予算取りを進めることができました。学習塾で培ったファシリテーションスキルも活かせました。現在、「道の駅なみえ」を運営する「一般社団法人まちづくりなみえ」で、コミュニティ再生やホープツーリズムなどにも関わっています。明日の命の保証は誰にもありはしない。「この瞬間どれだけ全力で大切に生きることができるか」を常に考えられる自分でありたい。そういう人が増えれば未来はおのずと開けると信じています。にぎわいを取り戻すため構想から関わった「道の駅なみえ」は2020年8月にオープンした

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ま「で心いののシ村ェのアかんののりお明」菅野典雄日を前飯舘村長大切昭和21年(1946)、飯舘村生まれ。帯広畜産大学卒業。酪農を営みながら嘱託公民館長を経てに1996年10月から飯舘村長を6期24年務める。、2020年10月26日、村長を引退。いいたてむら相手を気遣う心を大切に飯舘村の村づくりを進めてきました。震災と原発事故が起きたのは、そんなさなか、村長4期目の年。車で1時間以内の所に求めました。それによって多くの課題について村民とという構図から、お互いの立場を理解し、提案し合いながら、村民にとってプラスのことや復興のための手立てを次々と打ち出してきました。2017年3月、村内20地区のうち19地区が避難解除になり、2021年はながどろ第6次総合振興計画がスタート。長泥地区はいまだ帰還困難区域指定ですが、環境再生事業でこれから良くなっていきます。相手を思い、心を分かち合う「心のシェア」を大切に、成熟社会の視点で考える村に、そして社会になることを願っています。震災後、機会あるごとに「までい」を紹介してきたへ「までいライフの村づくり」。手間暇を惜しまず、2011年4月22日、計画的避難区域に指定され、全村民の避難を余儀なくされました。放射能のリスクと生活の変化によるリスクを考え、村民の9割の避難先を、村から本音の話ができる環境が出来ました。いざ有事の時はバランス感覚が必要です。私たちは理不尽な状況におかれた被害者ですが、「この村を復興させる」ということでは国も同じ目標です。文句を言いたい気持ちを抑え、「被害者と加害者」61

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電気の自給自足きくち菊よしひろ池吉浩株式会社ACDC代表取締役昭和37年(1962)、桑折町生まれ。大学卒業後、愛知県のゼネコンでエンジニアをしていたが、父が病に倒れたため30歳で帰郷、家業を継ぐ。2003年に社長就任。電気工事の他、再生可能エネルギーに広く関わる。スマートコミュニティは「地域の電気は遠くの人に委ねられている」。これまでの電気は大手の電力会社が供給していて、電力会社の電力系統が止まると使えなくなります。当社は、電気工事のプロフェッショナルとして、地域に関わってきましたので、東日本大震災の後は停電や漏電で大忙しに。そのような時「自宅に太陽光発電があるのに電気が使えない」という声が聞こえました。太陽光発電の電気は直流なので、安定した電圧・周波数で交流出力するにはパワコンでの調整が必要ですが、当時は売電が主流で、蓄電し安定的に使う発想もありませんでした。そこで当社は、太陽光発電と蓄電システム、電気自動車による「電気の自給自足システム」の開発に取り組み、2018年に完成させました。だて現在、このシステムで伊達支社の電気をまかなっています。今すぐ再生可能エネルギー100%は無理でも、小規模な事業所や個人ができることを実践すれば比率は上がります。2020年には、熱効率が高い薪ストーブの販売も始めました。木質燃料を使い循環型社会や森林の荒廃という地域課題解消にも取り組みます。これからの「スマートコミュニティ」は、自分たちで再生可能エネルギーを作り、蓄え、賢く使う人がつながることで実現できるはずです。で63森林の手入れで出来る薪を活用。新たに木を植え長いスパンでの二酸化炭素削減を目指す

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福島に残ろうかき木のまさと野正登経済産業省資源エネルギー庁廃炉汚染水対策官私ひとりくらい昭和43年(1968)、東京都生まれ。東京大学工学部卒業後、通商産業省(現・経済産業省)入省。2011年3月から原子力災害現地対策本部兼福島復興局勤務を経て、2013年9月から現職。原子力災害対策本部廃炉・汚染水対策現地事務所参事官。な65「福島に行ってくれ」と経済産業省からの出向命令で、2011年3月20日、大熊町から県庁に移転したオフサイトセンターに配属。広報班長として、ありとあらゆるプレスに1日に何回も対応。「出荷制限」「線量情報」「避難状況」など、東京からの情報を何とか自分の知識と経験で説明する日々。相馬双葉の漁協へ説明に行ったときは、2時間罵声の中でした。終了後、若い夫婦に「船が流され明日の生活がわからなくて、ひどいことを言ってごめんなさいね」と言われ涙が出そうになりました。避難指示解除についての住民説明会では、「おまえら政府の人間は、説明終えだら東京さ帰っていぐ、わだしらは一生ここだ。家族連れてこっちさ住んでみろ」と言われ、「私ひとりくらい福島に残ろうかな」という気持ちになり、10年います。福島が気に入ったというのもあります。コメ、野菜、果物、そして魚がとっても美味しい。福島の日本酒にも感動。自然が豊かで温泉もたくさん、福島の人の良さを感じることも多い。今年になって個人的に手づくりの被災地ツアーを始めました。原発と被災地を見て福島を「正しく理解」してもらいたい。このツアーは、ライフワークとしてずっと続けていくつもりです。木野さん(右から2人目)が案内する被災地ツアー。視察者にタンクの説明をしている

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警戒区域再編に向けて設置された柵【2012年12月8日付福島民報掲載】

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福島市初の防災専門官くさの草としあき野利明環境省福島地方環境事務所環境再生課市町村支援室室長補佐昭和31年(1956)、いわき市出身。元自衛官。福島駐屯地業務隊長を最後に定年退職。2011年4月より2年半、福島市の防災専門官を務める。2013年9月より環境省福島地方環境事務所に勤務し、市町村が行う除染事業をサポートする。陸上自衛官からへ69陸上自衛官として福島駐屯地に勤務していた私は、震災発生その日、定年を3週間後に控えていたのです。人生の道しるべは思わぬ方向に、翌4月には福島市初の防災専門官になっていました。手始めは除染の実施計画を立てること。陸上自衛隊では除染の訓練や放射線防護について勉強していたので役に立ちました。当時、「除染」という言葉は知られていませんでしたね。その頃、除染を知る防災専門官は他の市町村にいなかったので、早急に除染実施計画と除染マニュアルを作成、市のホームページにアップし、他の市町村にも除染を知ってもらうことにしました。除染についての住民説明会は200回以上開催。真剣な眼差しで私の話を聞くお母さんたちの姿を見て、「ここで暮らす人の不安を少しでも軽減し、安心して暮らせる福島県に早く戻したい」と決意を強くしたものです。現在は福島市での除染の経験やノウハウを生かし、環境省の一員として福島県内外の市町村の除染事業のお手伝いをしています。この10年の間に感じたことは、経験したことのない苦難を乗り越えた皆さんの“地域力の向上”です。これからも放射能不安を抱える人に寄り添うこと、これが私のライフワークだと思っています。除染の現場で放射線量を確認する

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教える側くぼた久あやの保田彩乃ラジオパーソナリティー、インタビュアー郡山市生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒。震災を機に秋田放送を離れ、郡山コミュニティ放送に勤務。2012年、フリーとなり、臨時災害FM「おだがいさまFM」のパーソナリティーを務める。現在はFM栃木のDJパーソナリティーとして活動しながら、東北大学大学院情報科学研究科修士課程で“地域と子ども、メディアの関係”を研究中。思いの伝え方を思いを伝える側からへ71おだがいさまFMのラジオパーソナリティーとして、富岡に帰る人、帰らない人、帰りたくても帰れない人…さまざまな立場の町民を取材するうち、「情報を伝える」ことよりも、「情報を伝える技術を教えて、自分の意見を自分で発信してもらう」ことに関心を持つようになりました。2014年から富岡町立小中学校三春校5年生の総合的な学習の時間で、子どもたちにラジオ番組の制作を教えてきました。この授業では、子どもたちが自分たちの目線で仮設校舎の楽しさ、すばらしさを取材し、作品を完成させます。この経験が、私を「伝える側」から「伝え方を教える側」へと変えていったのかもしれません。私自身も、もっと“地域と子ども、メディアの関係”を追求したくなり、東北大学大学院に進学。現在はパーソナリティーとして活動しながら、富岡町の子どもたちとのメディア制作を中心に研究を進めています。ラジオは比較的多様な意見を出しやすく、交流しやすいメディアです。富岡に帰る子、帰らない子。立場の違う子どもたちが、自分でメディアをつくり、情報を発信していくことで、「それぞれの意見を認め合いながら、みんなで地域のことを考えていこう」となっていったらいいなと思っています。ラジオ番組制作からはじまった富岡町立小中学校三春校のメディア制作の風景

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自然の力で人を元気く久ぼゆうじ保優司森と里合同会社代表社員昭和41年(1966)、岩手県八幡平市生まれ。岩手大学卒業後、国家公務員として24年間働き、2011年10月に参加した福島市の除染ボランティアをきっかけに2013年に林業に転職。2019年から森と里合同会社代表として林業や里での支障木伐採に取り組んでいる。山に人を戻し、に岩手で生まれ育った私は、震災直後から岩手県沿岸でガレキ撤去のボランティアをしていました。そんなある日、除染ボランティア募集を知って、福島市に通い始めたのは2011年の10月。その頃、福島市大波地区のコメから「セシウムが検出」と大騒ぎになっていました。除染は町場から始めましたが、なかなか空間線量が下がらない。原因は山林の放射性物質で、山を除染しなければ下がらないことが分かりました。あぶくまこの地域の広葉樹林の美しさ、すばらしい自然をもつ阿武隈山系は、炭焼きなどの人と森が共に生きてきた長い歴史があり、多くの昆虫や生物が豊富に息づいている。つまりは「命に囲まれている森」です。この里山の素晴らしさを発信し、次の世代に残していきたいという思いが強くなり、2013年には福島県に移住して林業に従事することを決意。2019年に立ち上げた会社では林業だけでなく、切り倒せない場所にある木を撤去する「特殊伐採」も扱うことになりました。今後も本業はもちろん、仕事で身につけたツリークライミングの技術を活かして「木登り体験のアクティビティ」の提供や山に人を戻し、自然の力で人を元気にしていきたいと思っています。73自分の力で木に登るツリークライミングは、自然から大きな癒やしをもらえる

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未新町来地全をコ体切ミがりュチ開ニーくろさわともこ黒沢知子きテム新地町教育委員会教育総務課副主幹兼総務学校係長たィで昭和48年(1973)、相馬市生まれ。1993年に新地町役場に入職。子育て支援が手厚い町で結婚し4人の子どもたちを育てながら仕事を続けてきた。企画振興課や都市計画課に長く勤務し、2020年4月より現職。新潟中越地震を経験された新潟県長岡市の職員の方から「地域コミュニティを保った仮設入居が後々よい結果につながった」とアドバイスをいただき、これを参考に仮設住宅の入居を進めました。原発事故による町外からの避難者やペット可の仮設住宅も設け、数年後には町が防災集団移転団地を造成。地域コミュニティを保った集団移転が実現し、町外被災者の多くが町に定住してくれています。JR新地駅前では、公共施設や商業施設・住宅地など市街地の整備が進み、LNGを活用して生産した熱と電気を駅周辺エリア内に供給するスマートコミュニティが完成。また、海水浴場の再開など復旧・復興が進んでいます。町民の方の理解が深まるように、「まちづくり新聞」なども発行しました。震災後は町民が主体的にまちづくりに関わるようになり、商工会青年部による復興夏まつりの継続開催など、地域が一つになって賑気候が良く、人があたたかい新地町。愛着や誇りをもって町全体がチームになることで、ピンチをチャンスに変え未来を切り開いていけることを実感し、私自身も成長できた10年でした。津波被害からの復旧事業を担当した新地町海釣り公園は2019年に再開。多くの人が集まるスポットにい75震災直後は子ども4人を本宮市に住む妹に預け、応急仮設住宅の担当として奔走。にぎわいづくりが進んでいます。

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言ってくれこばやし小なおこ林奈保子なみとも代表昭和62年(1987)、田村市生まれ。大学卒業後、2年間の企業勤めを経て、2013年9月から田村市復興応援隊のスタッフとして活動。2017年4月、浪江町に移り住み、2018年2月、任意団体「なみとも」を立ち上げる。「ゆっくりでいいべ」とトライ&エラーの日々に震災後、田村市の復興応援隊の一員として活動していましたが、2017年3月に一部が避難指示解除となった浪江町に移り、浪江町役場職員の夫とともに暮らし始めました。当時、町内居住者は200人ほど、若者はほとんどいませんでしたね。私は浜通りに住むのは初めてで、地域に少しずつなじんでいこうと町の人と話をするようになりました。その頃、和泉亘さんと出会い、「みんなが集まれる拠点をつくりたい」と意気投合。二人で任意団体「なみとも」をつくりゲストハウスを立ち上げました。若者を町に呼び込み、地域の人とつながることができればとの思いでした。一緒に楽しめるイベントの企画や、浪江で活動したい若者のコーディネート、町内外の支援団体が情報交換を行う「なみえ会議」の開催なども行っています。たいじ震災後の活動は正解がない問題に対峙しているようで、トライ&エラーを繰り返す日々。「早く復興しなければ」という使命感に囚われていたのかも。そんな私に地域の住民の方は「ゆっくりでいいべ」と言ってくれました。その言葉は今も胸に温かく残っています。「なみとも」の活動も、町での生活を楽しみながら、ゆっくり、じっくり続けていきたいと思っています。た77ゲストハウスで開催した「浪英会話」の交流会。地域も国籍も超えて仲間づくりができた

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とい「思いこえんこるだでまね子で」育こんどうよしゆきて近藤能之しよつば保育園副園長、NPO法人みんな共和国理事、小高やどりぎ。代表て昭和41年(1966)生まれ、南相馬出身。大学卒業後は㈱学習研究社(学研)に入社し教育の仕事に従事。2008年に帰郷し、保育園副園長として運営に携わる。他に参画しているNPOでも、高見公園の遊具設置や、クラウドファンディングにより「じゃぶじゃぶ池」を設置した。震災直後の原発事故により、南相馬市原町区は“緊急時避難準備区域”という“子どもは住まない方が望ましい”地域に指定され、ここに住むか?他に移って住むか?は自己判断に委ねられました。必要だと思いました。それは私だけでなく、親、保育園、地域、市外県外の子どもの成長は待ってくれません。目の前の子どもや家族のために動くだけで精いっぱいでした。今は「小高やどりぎ。」で、動物たちとのふれあいやジップライン等の自然体験ができる居場所創りをしています。感謝の気持ちを持ちながら市民活動を続けていきたいと思います。自分の選択が間違いでなかったと言えるように。子どもたちに水遊びをさせたいという願いを実現した「高見公園じゃぶじゃぶ池」…その中で、南相馬に住むことを選択した家族のために“子育ての安心感”創りがボランティアの皆さん、メディアと一緒に動くことで気づき得られてきたものです。我々独自の子どものいる家の除染活動について非難されることもありましたが、ただ待っていても何も変わりません。安心感は自ら動いてこそ創られるものです。“子育てに安心感を持てて、さらに楽しくなる”南相馬になるよう、これからも79

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神楽は再現してくさいとう齊よしひこ藤芳彦元双葉町郡山行政区長昭和15年(1940)、双葉町郡山生まれ。江戸時代から続く旧家の出身。震災前は地域のリーダーとして、行政区長、地域の自主防災組織の会長などを務める。自主防災組織は町内第1号。そのほか、小学生の見守り隊の設立、新生活運動の推進など地域づくりを推進。双葉町・大熊町の中間貯蔵施設受け入れ後は、先祖伝来の土地を手放し、いわき市に住む。お墓と神社仏閣は残せた双葉町に中間貯蔵施設をつくるって聞いたときは、「ああ、もう絶対に戻れねえなあ」と思った。郡山行政区は原発から3km圏内にあっからな、双葉なら郡山だろうなとみんな思ってたよな。30年とか簡単に言うけど、わたしはもう80歳だ。震災後、大きな病気もしたし、30年後には、もうこの世にはいねえよな。ただ、あの土地で何代も続いた齊藤家の土地を手放すのはなあ、辛かったな。この間、行ってみたらいろんな建物ができて、もう田んぼの影も形もなんにもねがったけど。10年前の3月11日は、郡山行政区の自主防災組織の会長として、住民の安否を確認してまわってた。かわまたまちわたしもみんなと一緒に川俣町、さいたまスーパーアリーナと避難生活を送った。頼れる先がなかったわけじゃねんだけど、自主防災組織の会長だし、こないだまで区長だったしな。責任があるよな。今は区長の福岡さん、森さんがいるから、安心してまかせられっけど。われわれの郡山って集落はまとまりがよくてな。本当によかった。あそこで暮らせてよかったなあ。土地は国に明け渡したけど、区長さんのおかげで、お墓と神社仏閣は残すことができた。昔はお祭りもやったなあ。30年後だか50年後だか、郡山に戻った人らが神楽を再現してくれっといいなあ。面や太鼓もちゃんとしまってあるよ。れ81後から見た人が再現できるようにって神楽のビデオも福岡さんが作ってくれた

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すげえだろささき佐くにひろ々木邦浩一般社団法人とみおかプラス事務局長俺のふるさと、昭和47年(1972)、富岡町生まれ。東北学院大学卒業、民間企業で勤務した後、富岡町役場に入庁。2019年、一般社団法人とみおかプラス事務局長に就任。自宅は現在も帰還困難区域にあり、家族を避難先の大玉村に残し、単身赴任中。!83とみおかプラスは住民と行政をつなぐ中間的な組織として、2017年1月に設立しました。全国で避難生活を送っている人が、「俺のふるさと、すげえだろ!」と胸を張れるような新しいまちづくりに取り組んでいます。取り組みの一つが、ものづくり。昨年3月、首都圏などから富岡町を応援する「とみおかアンバサダー」の皆さんの協力を得て、富岡町産のコメを使ったきざしスパークリング日本酒「萌」を開発しました。知る人ぞ知る富岡の特産品に育てていけたらなあと思っています。もう一つは教育です。世界でも類をみない10年前の大災害を後世への教訓として伝え、自分が今いる場所でどう生かしていけば、暮らしがよりよくなるのか、視察や研修をどんどん受け入れ、皆さんと一緒に考えていきたいと思っています。富岡には今、復興のため働く人たちが多く暮らしています。そういう人たちに「家族を呼んで住みたいなぁ」と、言ってもらえるような町にしていきたいですね。環境省の皆さんは、直轄除染や鳥獣対策、調査事業など一生懸命取り組んでくれています。地域住民の反応に理不尽さを感じることがあるかもしれませんが、福島が真の復興を遂げるその日まで、一緒に頑張っていきましょう。高校生に向けた防災ワークショップの様子

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口さ「説ん復かざ興れんのたたねめささきせいいちだ佐々木清一」前双葉町議会議長と昭和23年(1948)、双葉町生まれ。25歳で会社を立ち上げ、震災まで建築業に携わる。1999年4月、町議会議員に初当選。2011年3月12日、東京電力福島第一原子力発電所の水素爆発発災後は、町民とともに避難先を転々とする。2011年11月、町議会議長に就任。以来9年間務め、2021年2月2日に退任。全町避難から10年、正直言ってここまでこられるとは思ってなかった。黒い袋が山積みになった仮置場が。自宅にも国の許可なしには入れない。引き受けたから。「お金がはいったべ」と言う人もいますが全額じゃない。残りは県に入って県全体に使われています。そういうことをもっとみんなに知ってもらいたいよ。双葉町は国や県にちゃんと協力してきました。それなのに、10年経っても、町民は帰還できないまま。原発は国策。町民が戻るとか戻らないとか関係なく、国には双葉町を元に戻す責任があると思います。今でも双葉町は復興半ば。私自身も地元双葉町の復興のために貢献していきたいと思っています。重機が除去土壌の入った袋を積み上げていくのは、かつて田んぼや畑だった場所。町の至るところで見かける風景ぇ85じょうばん「常磐線が全線開通」とか聞くたび、「よくぞここまで」と、涙が出そうになることも。でも、一度常磐道の常磐双葉インターを下りてみてください。ずーっと続いています、こんな悔しいことがありますか?中間貯蔵の話が持ち上がったとき、俺も町長も国や県から「復興のためだ」とさんざん口説かれ、苦しかったですよ。だって、中間貯蔵施設予定地の地主さんにしてみれば、先祖代々暮らしている場所なんだから。以前はあちこちで見られた黒い袋がなくなってきたのは、大熊双葉が中間貯蔵を

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双葉町の未来をつくささだ笹田あつし淳双新電子代表取締役CEO昭和40年(1965)、東京都生まれ。双葉高、東京職業訓練大学校(現・職業能力開発総合大学校)を卒業後、トヨペットサービスセンターTRDに入社し、レーシングカーを設計する。1995年に退社後、モーターショー用車両を設計する個人事務所を立ち上げた後、1998年に父親の先代社長が亡くなったことを受け、社長に就く。現職。先端産業が生まれるる87東日本大震災、東京電力福島第一原発事故によって、本社機能をいわき市に移していますが、2022年3月には再び、双葉の地に戻ります。福島県浜通り地域では、福島イノベーション・コースト構想やいわきバッテリーバレー構想など新しい産業を創出する動きが活発化しています。原発事故によって町の大部分が帰還困難区域になってしまった双葉町。そんな窮地から未来につながる、次世代産業を発信することが私たちの使命です。弊社では特殊自動車設計・開発およびワイヤーハーネス製造のほか、EVミニカー・E−バイクなど次世代モビリティの開発・設計・企画に注力しています。限られたエネルギーを有効的に使い、地球と継続的な共存を考えなければならない現代。エネルギーというものに対して敏感なこの町だからこそ、エネルギーに関わる産業は復興への力となり、発信力にもつながります。「双葉町からも先端産業が生まれる」という未来をつくりたい。その口火を切る決意です。双新電子は、母の実家がある双葉町を好きになった父が立ち上げた会社です。たくさんの方たちに支えられながら、地域に尽くしてきた父親でした。その想いを受け継ぎ、新しいまちづくり、双葉町の魅力づくりに尽くしたいと考えます。閉鎖中の双葉町松倉の本社工場

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ほんとださとう佐うきち藤右吉震災後にはじめて大熊町に戻った住民花は人を呼ぶって昭和14年(1939)、大熊町生まれ。終戦後、親父が大熊町の大川原地区に住み始めて、俺は生まれてからずっとここに住んでんだ。主な仕事は林業、それだけでは食っていけないから秋になると出稼ぎに行ってた。20代のころ、原子力発電所ができて東京電力の関連会社に勤めて定年。2011年の3月11日はダムの管理の仕事をしていて、電気もつながらないから何もわがんねがった、そのうち少しずつ情報が入ってきて、「ひどいぞ、津波がきて海辺の部落、流されてなんもねえぞ」って聞かされても、すぐには信じらんにがった。ふねひきかしわざきそれからは、船引、新潟、柏崎と避難しつづけ、そして会津若松の仮設住宅へ。そこに8年いる間、町の見回り頼まれて、自宅の片付けもしながら会津から150キロかけて通う途中に「ざる菊」が咲いているのを見つけた。心がぽっと明るくなるようだった。苗をゆずってもらって、自分の家の庭で育て始めたんだ。「花が咲いたら、だれか見に来てくれっかなぁ」っていう淡い期待も込めて。そしたら、町に帰宅する人が寄ってくれるようになった。「花は人を呼ぶってほんとだな」今年はオリンピックが開かれる年だから、五色の「ざる菊」で飾ってみようか。一人でも多くの町民が大熊に戻って町が少しでも以前の姿に近づくように。な89訪れる人の心を癒やす色とりどりのざる菊

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希「望のイチゴようこを子飯有限会社いいたていちごランド共同代表舘昭和26年(1951)、飯舘村生まれ。農業高校卒業後、露地野菜を中心に栽培していた実家に就農。さまざまな野菜の栽培を経て2004年、仲間とともに「有限会社いいたていちごランド」を創業し、妻、洋子さんと夫婦で事業に注力する。原発事故後は避難生活を送りながら、2012年より3年計画で準備し、2014年より出荷再開。しかし原発事故が起きて避難ムードが徐々に高まり、村全域に避難区域指定。刻々と状況が変わる中、孫が通う学校や落ち着く場所を検討。両親、息子家族と3世代だった暮らしは別々になってしまった。つなそんな中で我々の希望を繋いでくれたのが汚染されなかったイチゴです。試験栽培。検査を重ねて再出荷を果たし、村で最初の出荷物ともなりました。応援してくれる出荷先との繋がりもたくさんできた。今は震災前の水準までにぎ移住者も増え、かつての賑わいを取り戻そうとしています。できることを着実に続け、次世代に繋げていきたいと思います。希望を繋いだイチゴ「雷峰」。現在は関西方面にも出荷されているさとうひろし佐藤博・洋いいたてむら飯舘村は、震災直後に津波被災者を受け入れた地域です。から91ハウスの制御は自動なので苗は絶えることなく実を付け、検査も問題なかった。「できるかもしれない」と思い、自己資金でハウス全面張替、培地もすべて交換して製菓に適した品種なので、顧客は企業や洋菓子店。深刻な風評がありましたが、小さな手ごたえを頼りに新規開拓を続けました。「負けてらんねぇ」という気持ちで小さな洋菓子店も一軒一軒話しさせてもらったり、ハウスに足を運んでもらったり。復活させた生産量を維持していくことが目標。帰村者は3割ほどの飯舘ですが、負けてらんねぇ」

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だめになってしま小高の農地がこのままではさとう佐りょういち藤良一株式会社紅梅夢ファーム代表取締役う昭和28年(1953)、南相馬市小高区生まれ。専業農家の9代目。神奈川県での会社員を経て、24歳の時に帰郷して就農。旧小高町議会議員を4期務めたほか、集落営農組織連絡協議会会長、農業委員も務める。2017年、紅梅夢ファーム設立。かき震災前、小高区の15の集落営農組織が水稲、大豆、花卉栽培などを行っていました。しかし原発事故による全戸避難で、雑草が伸び、土地は荒れ放題に。「このままでは農地がだめになってしまう」と不安になりました。2012年に「ふるさと小高区地域農業復興組合」を立ち上げ、有志を募ってがれき撤去と草刈り作業を行ってきました。同年4月には、警戒区域で初めてのコメの試験栽培を始めました。その結果は線量が低く、営農再開に光が見えたと思いました。2016年に小高区の避難指示は解除されましたが、津波被害や高齢化による離農、避難先から戻らず…。もとの営農に戻すことは困難な状況。そのような中で立ち上げたのが紅梅夢ファームです。営農再開の起爆剤にと、7つの集落営農組織の出資によってスタート。地元の農業高校や大学卒の若者を採用し、農業の新しい姿を模索しています。いち早くロボットトラクターを導入、スマート農業実証プロジェクトに採択され、データ管理による農業の実践にも取り組んでいます。コメ、大豆、タマネギ、菜種、ストックを生産し、耕作面積は4年で70haまで拡大。若者が作業する姿が刺激になり、地域に活気が戻りつつある手応えを感じています。93小型無人機(ドローン)を使い、農地に農薬散布を行っている

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夢そ「にれ都なが路り僕をまの希し望さはらゆずるの佐原禅地NPO法人くらスタ理事長に昭和50年(1975)、北海道苫小牧市生まれ。」震災後、予備自衛官の仲間と宮城県で週末、ボランティア活動に従事。長年勤務した警備会社を、東北での仕事を希望し退社。2013年9月、田村市復興応援隊に就任。2017年、応援隊事業を引き継ぐため、NPO法人くらスタを立ち上げる。現在、田村市都路町在住。「東北に行くしかない…!」。そんな思いに突き動かされ、2013年、みやこじまち田村市復興応援隊の一員として、住民の帰還がはじまった都最初は毎日が手探り状態。住民の方に認知されてからは、依頼されるまま、草刈りや畑の整備を手伝いました。その後、たくさんの出会いを経て、地域のために何かしたいけれど、その方法が分からない人、最初の一歩を踏み出せずにいる人のお手伝いをすることが僕らの仕事になりました。自身がやりたいことなのか?」「地域のためになることなのか?」「費用対効果、人対効果が見込めるのか」「住民だけで完結できるのか?」。主役はあくまで地域の皆さん。だから、僕らがいなくなったら続きそうにない風評被害で大きな打撃を受けました。でも、大きな痛みを受け、上を向くしかなくなった地域だからこそ、できることがある。都路を希望の地にする。この地に住んで7年。それが僕の夢になりました。都路の情報や魅力を紹介する町内誌「いいね!みやこじ」。応援隊ホームページからも見ることができるた95路町にやってきました。応援隊には、仕事を引き受ける際のルールがあります。「それは声をかけてくれた方プロジェクトは最初から引き受けません。震災前から過疎化と人口流出が進み、いずれ「消滅可能性都市」になるといわれていた都路町。そこに震災と原発事故、

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お木いしく出来しがこころつるがいゆき志賀瑚々呂・鶴飼夢姫ま福島県立ふたば未来学園高校平成31年度卒業生した志賀瑚々呂平成14年(2002)、いわき市生まれ。現在、大学1年。鶴飼夢姫平成14年(2002)、富岡町生まれ。現在、専門学校1年。私たちが学んだふたば未来学園高校には、「未来創造探求」という授業があります。震災後の双葉郡の課題を解決するために生徒独自の視点(テーマ)で研究し、卒論として仕上げます。初めは個別で進めましたが、テーマにつながりがあることがわかり、まず、知り合いの漁師さんたちから取材。校内アンケートもとったところ「風評被害という言葉のイメージがよくない」という声が多く、私たちは「ネガティブイメージを払拭し、ポジティブイメージに変える」と宣言。二人で2種類の味とラベルのデザインにもこだわり、さけ「木戸川鮭フレーク」の誕生になりました。この鮭フレークから双葉郡の漁業再生を感じてもらえたらと思います。この商品をきっかけに双葉郡に関心を寄せ、大勢の人に足を運んでもらえたら嬉希望を持つことができました。「木戸川鮭フレーク」をPRする志賀さん(左)と鶴飼さん【2019年9月16日付福島民報掲載写真】!97二人で研究することにしました。そのテーマは「双葉郡の漁業の風評被害の払拭」。先輩もお世話になった西野屋食品さんや木戸川漁協の皆さんたちに活動への協力をお願いしました。皆さん快く承諾してくださり、サケを主役にした商品開発が決定。うれしいです。私たちもこの活動を通して地域社会に少しでも貢献できたのではと戸川産のサケを使って

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長泥のことしぎはら鴫よしとも原良友前飯舘村長泥行政区長昭和25年(1950)、飯舘村生まれ。原発事故による帰還困難区域に指定された飯舘村長泥行政区の区長を震災時から2020年3月まで務め、国や東京電力との交渉に尽力した。みんなで決めっぺなこれから先もながどろ俺は長泥が好きだ。もう長泥のためにやるだけのことはやったと思っています。国や東京電力と交渉し、帰還を必死に模索して苦しんだけれど、子どもや孫の世代に受け継ぐことは現実には難しくなってしまった。住民たちは各々の場所に生活の拠点が出来ています。行政区長としては年に4回ほど区報を発行し、故郷の現状を伝えてきました。俺たちにとっては離れて暮らしても故郷はやっぱり長泥。年に1度は、0歳から90歳までの住民が集まって、思い出話や近況を報告し合っています。長泥のことは「みんなで決めっぺな」と、今までもずっと住民同士が話し合って決断をしてきました。2020年はコロナ禍で開催できませんでしたが、毎年みんなで食事をして踊ったり歌ったり、楽しい時間を過ごすんです。現在、地区では除染した土の活用に向けた国の実証事業が進行。どうか戻れない人々の「希望」になれるような再生をしてほしい。10年がたち、ここで一区切りするのも大事なのではとも思う。さまざまな意見があると思うけれど、何が正しかったか100年後に答えが出ればいいのだろうと。これからも故郷長泥を思い、見守り続けていきたいと思います。を992013年2月より発行している区報「まげねえどう!ながどろ」

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住宅の庭の除染を行う作業者【2016年3月撮影】

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しみず清じゅんこ水淳子株式会社夕月代表取締役出10万荷されなかった本のかまぼ昭和37年(1962)、いわき市生まれ。大学卒業後、東京都の池袋で就職。1993年、夕月に入社し営業企画の仕事に携わる。2002年、昔ながらの作り方をコンセプトにしたギフト型かまぼこのブランド「美味一膳」をスタート。2018年9月に夕月の4代目として代表取締役に就任。「夕月」は祖父の代から70年続くかまぼこ店。板付きかまぼこやギフト型かまぼこの生産販売を行っています。なかのさく震災では中之作港に面した冷凍庫が津波に遭い、原材料と在庫の製品が全滅。本社工場は断水が続き、ようやく2カ月後に生産を再開できました。でも「放射能、大丈夫なの?」と言われたり、生産できない間の商品を他のメーカーさんに代行していただいたりと、何もできない自分の無力感や葛藤がありました。また、せっかく生産再開はできたものの放射線量の問題が浮上。水や空間線量の測定、外部委託商品の放射能検査など、丁寧に説明し責任を果たしていきました。結局は長く愛されてきた「夕月」の名が助けてくれたのです。震災直後、出荷できなかったかまぼこ10万本余りを近所の方にお分けしました。「あの時のかまぼこがうまかった」と、後に店に来てくださる方もいて、食品メーカーとしての使命のあり方も痛感。かまぼこが保存食になると気づいた経験でもありました。当時の一番つらかったこと「生産できない」を忘れずに、今生産を続けていけることに感謝し、祖父や父が築いてきた伝統の味を引き継ぎながら、新たなことにもチャレンジしていきたいと思っています。こ103板付きかまぼこの生産量が国内屈指のいわき市で、伝統の味を守り続けている

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農業再生の一助となすぎした杉ひろすみ下博澄かつらお胡蝶蘭合同会社昭和56年(1981)、葛尾村生まれ。福島県農業短期大学校卒。花卉栽培やバイオマスなどを学ぶ。東京、田村市などでの会社員を経て、2017年、3農家1企業による「かつらお胡蝶蘭合同会社」を設立。名付けた花復興への希望こめてかつらおむらふるさと葛尾村は、東京電力福島第一原発の事故で突如、全村避難に。住む人がなく生活感を失った村を見て、胸が痛くなりました。「自分にできることはないだろうか」と考え始めたころ、新しい施設園芸が立ち上がる話を聞きました。当時、私は村外で働いていましたが、「できるかもしれない、やってみよう」と勤めていた会社を辞め、こちょうらん思いを同じくする仲間とともに胡蝶蘭栽培の準備を始めました。そして、避難指示解除の翌年、「かつらお胡蝶蘭合同会社」を設立。福島再生加速化交付金を活用した公設民営の栽培施設で、白い大輪の花を咲かせる贈答用胡蝶蘭を栽培しています。復興への希望をこめて付けた名前は「hopewhite(ホープホワイト)」。現在は毎月4,000株の苗を仕入れて育成し、首都圏を中心に出荷しています。温度と湿度の管理が難しく、当初は試行錯誤の連続。こうのすでも品質を上げる努力を続け、2019年、埼玉県鴻巣市場の品評会で「埼玉県知事賞」を受賞することができました。「幸福が飛んでくる」が、ちょう蝶が羽を広げたような胡蝶蘭の花言葉。私たちの事業が成功例となり、かき花卉栽培が県内に波及して農業再生の一助となることを願っています。れ105胡蝶蘭は首都圏などへ出荷しているほか、インターネットでの販売も行っている

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学んで助け合ってほしすげの菅ゆきお野幸雄NPO法人環境ワーキンググループ伊達理事長昭和9年(1934)、二本松市生まれ。1957年に福島大学を卒業後、公立小学校・中学校に勤務。1961年より県立高校の理科教員として保原、福島女子高校で主に化学生物を担当。1995年に定年退職後、福島東、福島高校などで講師として勤務。むやみに怖がるよりも「シーベルト、ベクレルって、なんのことかさっぱり分からん」。原発事故による放射性物質の降下で汚染が広がった時に、近所の人が口々に言いました。高校の教員をしていた頃、放射線医学総合研究所で長期研修を受けていて放射線の知識がありましたので、3月21日に「すぐさま影響があるわけではないから大丈夫」と近所の人たちを集めて話しました。でも実際に測るための計測器がなかなか手に入らず、なんとか教員時代の元同僚から精度の高い測定器を土曜の午後から月曜の朝限定で借りて、仲間たちと寝る間も惜しんで市内各所の放射線量を計測しました。その結果、部分的に高線量の地点があるが、多くの地点では心配ないことがだてし分かりました。7月には伊達市から定点計測の依頼を受け、10年目の現在も続けています。放射性セシウムには半減期があり、放射能は時間が経つほどに弱まっていくので、私たちは理論値と実測値の比較も続けてきました。これができるのは、ごく早い段階から計測をしていたからです。むやみに怖がるのではなく、科学的な視点で根拠をもって対処することが大切。みんなで学んで、助け合って、よいふるさとを残すために、自分にできることを役立てたいと思っています。い107放射線量の減少は明らかで「除染してもまた戻ってしまうのでは」という不安を払拭した

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酵母菌は残っていたすずき鈴いちお木市夫株式会社鈴木酒造店長井蔵会長昭和14年(1939)、浪江町生まれ。双葉高校、東京農業大学を卒業後、1962年に浪江町に戻り家業を継ぐ。代表銘柄は「磐城壽」「一生幸福」など。2018年より同社会長。すべてを失ったかと…うけど浪江町の請戸港近くに酒蔵を構え、代々酒造りを営んでいました。2011年3月11日は仕込みの最終日。私たちにとっては1年で一番めでたい日になるはずだった。しかし1年間一生懸命仕込んだ酒は、建屋もろとも津波に流されてしまった。さらに直後の原発事故で避難を余儀なくされ、福島市を経由して国道13号線を北上、やっとのこと山形にたどり着くことができた。その日から「すべてを失ってしまった」と悲嘆に暮れる日が続きました。そんなある日のこと、福島県の研究施設から思いもよらない連絡が入るのです。うちの蔵の酵母菌が残っていると…。こういうことがあるんだね。「酒造りを頑張れというメッセージだ」皆の顔がぱっと明るくなって、体じゅうから力が湧いてきた。それから、山形県長井市の廃業する酒蔵を譲り受け、醸造を再開することができた。浪江とは水も、コメも、気候も違うので、酒の質を維持するため試行錯誤の日々が続いたなあ。資金面でもずいぶんと苦労したけど、何とか造り続けることができた。あの日から10年、これで再び浪江町で酒造りを始めることができる。本当に多くの方々にお世話になりましたよ。皆さんへの恩返しはおいしい酒を造ること、そう思ってます。!109山形県長井市の株式会社鈴木酒造店長井蔵。再び浪江町でも酒造りを始める

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ふるさと木戸川にすずき鈴けんたろう木謙太郎木戸川漁業協同組合鮭ふ化場長鮎中間育成場長昭和57年(1982)、いわき市生まれ。いわき海星高校卒業後、2000年に木戸川漁業協同組合入組。木戸川は、震災前まで毎年1,500万尾の稚魚を放流し、多いときで10万尾を超えるサケが戻って来ていました。秋は遡上するサケで川底が見えないほど。しかし東日本大震災の大津波による被害と原発事故で、ふ化と稚魚の放流が4年間できませんでした。事業再開に向け放射性物質の調査をいち早く始めたかったのですが、ならはまち楢葉町は警戒区域指定、調査が認められませんでした。2012年に昼間の立ち入りが可能になったため、県の許可を得てモニタリング調査を開始。その年に木戸川に帰ってきたのは震災前に放流したサケ。100尾ほど捕獲して調べたところ放射性物質はND(不検出)でした。翌年、翌々年の調査でも結果は同じ不検出。サケは放流から4年後に、産卵のため育った川に帰ってきます。調査する中、数の減少を感じて「早く再開しないとサケがいなくなってしまう」と不安でした。2015年にやな場を設置し事業を再開しましたが、戻ったのは8,443尾。でも放流できなかった間に自然産卵で戻っているサケもいて、「やはり木戸川はサケのふるさと、いい川なのだ」と改めて思いました。震災前のようにはまだいきませんが、たくさんのサケが戻ることで、町も活気づいていけばいいなと思っています。れ111たくさんのサケよ戻2018年3月、木戸川への稚魚放流。子どもたちもサケも元気に大きく育て

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無我夢中の数年だっ昼食の買い出しも妻と従業員のすずき鈴木ちから力株式会社栄製作所代表取締役社長昭和27年(1952)、南相馬市原町区生まれ。地元の工業高校卒業後、1971年NEC府中事業所に就職。1974年退職、Uターンし、株式会社栄製作所設立時に先代社長の誘いを受け、3人の創立メンバーの1人として入社。南相馬ロボット産業協議会、ロボット開発研究会員。東日本大震災の後、地域全体の産業の発展、新たな地域雇用の創出などを目的として発足した南相馬ロボット産業協議会。相双地域の専門分野の企業が会員となり、官民連携で活動しています。その分科会として立ち上がったロボット開発研究会は、現在、11社の会員企業を中心に、災害対応用ロボットの開発研究を行っています。コロナ禍で開催が延期となりましたが、経済産業省などが主催する「ワールドロボットサミット」にエントリー。当日は、夢と希望に満ちあふれた学生にロボットをオペレートしてもらおうと、その訓練に励んでいるところです。私が代表を務める栄製作所は、通信機械器具及び関連機器の製造を行っています。震災後、いつまでも取引先に迷惑はかけられないと3月末には事業再開にこぎつけましたが、原発事故の影響で生活環境が整っておらず、従業員の昼食を妻と買い出しに行くこともありました。同業者や取引先から支援物資をいだだいたこともありがたかったです。無我夢中の数年が過ぎたころ、新たな方向性を見つけようと福島県主催の展示会に出向きました。そこで出会った企業や大学とお付き合いが始まり、ものづくりの更なる可能性を探り広げています。た災害対応用の初号機(左)と教材用として製作した機器(組み立てた状態)。自力移動ができる113

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町内見回すずき鈴ひさとも木久友元大熊町役場総務課長、元「じじい部隊」昭和27年(1952)、大熊町生まれ。双葉高校、東京農業大学を卒業後、大熊町役場に入庁。東日本大震災では総務課長として避難対応にあたる。定年退職後の2013年から、一部で避難指示が解除される2019年まで「じじい部隊」として住民避難の町を守ってきた。「じじい部隊」立ち上げ定年退職後り115震災の時は大熊町の総務課長でした。大変な混乱の中、直ちに災害対策本部を設置、地震と津波被害の対応に奔走しました。そこに、原発事故が起き事態は一変。翌朝には全町避難が決定、急ぎ住民台帳を用意したことが思い出されます。その後は、田村、郡山、会津若松と転々としながら避難指揮の日々。町民の皆さんは県の内外へバラバラになってしまいました。あの時は本当につらかったですね。私は家族とともに郡山に落ち着きましたが、故郷大熊町を思う気持ちは日増しに強くなり、定年退職したら住民のいない町の見回りをしようと、信頼する同世代の仲間に声をかけ、自称「じじい部隊」を立ち上げました。防護服に身を包んでの防犯パトロール、先のある若い職員にリスクを負わせたくないという思いもありました。パトロールを任命された6年間、6人の「じじい」が交代で町内の巡回、倒木の除去や掃除、一時立ち入りした町民の手助けもしました。不審者に遭遇した時はさすがに驚きました。町民の皆さんが私たちを見かけると安心してね、ねぎらいの言葉をうれかけてくれました。とても嬉しかった。今後は故郷の土地が未来へ受け継がれるよう、廃炉を見届けるまで?元気で長生きしたい!と思います。「じじい部隊」の鈴木さん(左)と杉内さん。一日の仕事を終えて【2019年3月11日付福島民報掲載写真】

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と「いそうば声打がち聞をすずきふじここ続鈴木富士子えけそば処心平庵代表な昭和36年(1961)、郡山市生まれ。さ高校卒業後、いわき市のデパートに就職。結婚退職後、専業主婦を経てい2009年「川内高原そば」に採用され、道の駅よつくら港内の店舗に勤務。震災後は小名浜のいわき・ら・らミュウ内で店を再開し、2016年より代表。」2019年4月、再建した道の駅よつくら港に店舗を移転。あの日の大津波は、勤めていた店舗があった「道の駅よつくら港」にも大きな被害を及ぼしました。立入禁止が解かれた1週間後にようやく様子を見に行くと、店のすぐ脇には大きな船が打ち上げられ、店内の大型冷蔵庫や調理台は全て流されて、壁もなく、配線はむき出しに。さらにその後、ぼうぜん原発事故が起きて、何もかも失ったような気持ちで呆然としていました。当時の風景はセピア色で、他の色の記憶がありません。でも一つだけ、そば粉の練り器が使える状態で見つかったんです。「そば打ちを続けなさい」と声が聞こえるようでした。しんぺいあんおなはまその年の11月に「心平庵」と改名し、社長の決断から小名浜で店を再開。同じ女性である社長を支えようと従業員とともに必死に頑張り、店長としても川内村産のそば粉「会津のかおり」でつくる二八そばを提供。お客さんに「おいしかった」と言われるのが一番うれしいと話すた117復興祭や炊き出しなどでそばを打つたび、お客さんに喜ばれることが力になりました。奮闘しました。その後、社長から代表を譲り受け、再建した道の駅よつくら港で店を再開することができたのは、とてもありがたいこと。何もかも失ったような震災当時は、このような日が来るとは想像できませんでした。お客さんやそば仲間に助けられながら、奥深いそば打ちを細く長く、これからも続けていきたいです。

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思える双葉郡すずき鈴木みなみ一般社団法人とみおかプラス職員、富岡町復興支援員平成2年(1990)、山形県真室川町生まれ。米沢女子短期大学、立命館大学卒。大学在籍中から被災地支援に取り組み、卒業後、いわき市に移住。2019年5月、一般社団法人とみおかプラスに勤務、2019年9月、富岡町に住み始める。子育て応援コミュニティcotohana(コトハナ)の活動にも取り組む。「子育てしてよかった!」と子を持つ親としてに「ヨソモノの自分には、被災された方の本当の思いは分からないのでは…」という気持ちを、ずっと心のどこかに持ちながら、大学在学中から福島で復興支援のお手伝いをしていました。それが変わったのは、2016年に子どもが生まれてから。双葉郡で子育てする母親として、地域づくりに関わっていいんだと思えるようになりました。2017年、子育て応援コミュニティcコotohanaトハナを立ち上げ、親子サロンや遊び場づくり、情報誌の発行などに取り組んできました。富岡は今、子どもがすごく増えています。町に戻ってきた家族だけでなく、復興従事者のお子さんも増えてきました。今後は未就学児を持つ親同士が交流できる場所づくりにも力を入れていきたい。富岡に住みはじめたころは、「こんなところに子どもを連れてきて…」と心配されることもありました。そういう息苦しさを感じるような空気も、こども園や小中学校が戻り、子どもの姿が普通に見られるようになり、少しずつ柔らかく変わってきたような気がします。でも、双葉郡の子育て世代は、決して楽観的に考えているわけではありません。これからも安心して子育てできる環境をつくっていきたいです。119双葉郡内で定期開催している親子サロンの様子

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精いっぱせ瀬とかずお戸和夫環境省福島地方環境事務所中間貯蔵部用地補償課課長補佐昭和28年(1953)、川俣町生まれ。1972年4月、福島県に入庁。定年退職後、再任用職員(1年)。2015年4月、環境省(東北地方環境事務所福島環境再生事務所)に入省。今できることを福島の復興・再生にい121原発事故から3年、当時の私は県職員として定年を目前にしておりました。そんな私に、同僚の友人が「環境省が中間貯蔵施設整備のため、任期付き職員を募集している」と教えてくれました。震災や原発事故の報道に接するたび、同じ県民として福島の復興に関わる仕事がしたいという気持ちが強くなっていましたので迷わず応募しました。私が配属された用地補償第二課の業務は、中間貯蔵施設の用地取得でした。すでに住民説明会を終えていたため、私の業務は地権者宅(避難先)を個別訪問することから始まりました。先祖代々の土地や愛着のある自宅をお譲りしていただくお願いをしても、中には心の整理がつかず、用地交渉が長引いた方もいらっしゃいました。しかし、最終的にはご協力いただけ、令和2年10月末時点では民有地については90%を超える面積まで用地取得が進みました。お陰さまで、施設整備に必要な土地の確保は順調に進んでおります。中間貯蔵施設は、除去土壌に起因する福島県における風評被害の原因を、払拭する面からも必要不可欠なものと思っております。これからも自分の業務の重要性をかみしめながら、「福島の復興・再生」に微力ながら尽力していければと考えております。用地補償課内の打ち合わせ風景

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福島から全国に発そえた添あさみ田麻美一般社団法人Oval(オーバル)代表昭和59年(1984)、田村市生まれ。高校卒業後、就職のため上京。観光バス会社に7年勤務した後Uターン。ウェディングプランナーを経て、ベビーマッサージ教室「カラコロ」を開設。2018年、一般社団法人Oval設立。ママカラつなぐ防災ブック信123私は2011年に結婚し、翌年の春、震災後の不安な状況の中で出産、子育てをスタートしました。一時は子どもと県外への避難を考えましたが、“家族一緒に福島で、笑顔で生きていこう”と決めました。外遊びができなかった当時、行けるところを探して見つけたのがベビーマッサージ教室。さっそく行ってみると、子どもがとても楽しそうに振る舞い、何より私自身がリラックス。参加者とも情報交換できてうれしかったのです。「福島にはこういう場所が必要だ、私もつくろう」と思い立ち、民間資格を取得して子どもが1歳になるタイミングで教室を始めました。たくさんのママたちと関わる中で、彼女たちが学びたいこと、やりたいことを聞く機会が増え、講座を企画することを始めました。その過程で聞こえてきたのが、防災に対する不安の声でした。専門家を招いて防災に関するワークショップを行い、震災当時ママだった人の経験も参考にして生まれたのが「ママカラつなぐ防災ブック」です。このブックをもとにママの声を福島から全国に発信していきたいと思っています。社会とつながりながら自分らしく生きるママたちの姿は、子どもにもいい影響を与え、可能性を広げていくと信じています。ベビーマッサージ教室では親子のふれあいを楽しみながら、ママ同士の交流も大切にしている

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お母さんになろそ曽がいずみ我泉美NPO法人ふくしま震災孤児・遺児をみまもる会理事長私はこの子たちの昭和39年(1964)、郡山市生まれ。昭和女子大学短期大学部国文科卒業後、いわき市に戻り地元タウン誌に勤務。1987年、情報誌SALLY(後に朝日サリー)創刊。1991年有限会社いまぁじゅ設立。コミュニティFMの立ち上げに関わったほか、日本商工会議所青年部東北ブロック会長を務める。2014年「チャイルドハウスふくまる」開館。う125震災の年の5月、子どもだけで借上住宅に暮らす4人兄妹に出会いました。津波で両親と祖父を失ったのです。この出会いがきっかけで震災孤児・遺児と関わることになりました。当時いわき市内には、関連死も含めて震災で親を失った子どもたちが30人ほど。小さな心に傷を負った彼らを継続的に見守っていく必要性を感じ、有志とともに「ふくしま震災孤児・遺児をみまもる会」を設立しました。「チャイルドハウスふくまる」は、その拠点施設として開設。子どもたちが安心して遊べる屋内遊び場と、専門家による相談の体制を整え、被災児童の心のケアとサポートを行っています。毎年クリスマスには大勢のサンタが大型バスで駆けつけてくれるなど、活動に対しては多くの方にご支援いただき、とても感謝しています。最初に私が出会った兄妹の長女は昨年結婚。私が座ったのは、ご両親の遺影が飾られた親族席。出会った時から「私はこの子たちのお母さんになろう」と思って相談を受けたり、一緒に遊んだりしていたので、彼女の晴れ姿を見ながら目頭が熱くなりました。この先も、未来の宝である子どもたちが、心豊かに生きられる環境を残してあげたいと思っています。2014年5月、ケネディ駐日大使(中央)と息子のジョンさん(同右)が来訪。テディベアと監修された絵本をいただいた

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大住市変民町なへ村日のと々対のの応調たかだよしひろ髙田義宏連整福島県企画調整部避難地域復興局次長や昭和38年(1963)、南相馬市鹿島区生まれ。福島大学経済学部卒。1988年に福島県庁入庁。震災当時、相双地方振興局からオフサイトセンターに派遣され、現場における被災市町村との調整等に従事。あの日、たどり着いた大熊町のオフサイトセンターは電源が落ちて真っ暗。隣の原子力センターで災害対応が始まり、現地本部の住民安全班長として避難の調整という大仕事が待っていました。すでに出ていた原発3㎞圏の避難指示が翌日には10㎞圏、さらに1号機の水素爆発で20㎞圏内に拡大。「これは大変なことが起きている」。そもそも10㎞圏の地図しかなく、通信状況も悪くパニック状態でした。その後、避難指示から法的拘束力を持つ警戒区域の設定。着のみ着のままで避難していた住民からの強い要望に応えるため、必要な装備や線量管理、交通手段などの一時立入りの調整と、大変な日々が続きました。南相馬市鹿島区の実家も津波で流され、変わり果てた父と別れができたのは、ようやく休みがとれた6月末のこと。みんな必死だったあの頃を思うと、帰還困難区域を除いて少しずつ賑ただ、復興はまだまだ道半ば、福島県は地震、津波の災害に加え、原子力災害とそれに伴う風評という複合災害に全力で立ち向かっています。まじめで我慢強い県民性を受け継ぎ、未来を担う人たちには夢と希望と笑顔に満ちた「ふくしま」を築いていってほしいと思います。福島県庁移転後のオフサイトセンター内の風景(大熊町)続127にぎわいが戻っている姿に、正直ほっとしています。

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少しでも助けに去る心苦しさたかの髙野いずみ泉一般社団法人ふたばプロジェクト代表理事人手不足の現場昭和26年(1951)、双葉町生まれ。1969年、双葉町役場入庁。議会事務局など課長職を歴任。2011年3月、退職を目前に被災し、役場機能の再構築に奔走。2011年4月、退職。2014年6月、双葉町社会福祉協議会事務局長に就任(2016年から会長)。2020年7月より現職も務める。と2011年3月12日、双葉町の参事兼総務課長として、他の数人の課長職等とともに最後まで町に残り、自力避難が難しい入院患者や高齢者を避難させ、かわまたまち最初の避難先、川俣町を目指しました。同年3月末で定年退職の予定を4月末まで延長し、町民、組織編成、国やマスコミの対応にあたりました。大変だったのは、役場機能の再構築。住民基本台帳もなければ、パソコンもない。双葉町埼玉出張所を設置するため条例をつくらなければならない。同じようなケースがないか調べて、椅子だけを並べて議会を開き、条例案を可決し、3月19日の出張所開設にこぎつけました。寝る間もなく働いた結果、体調を崩してしまい、人手不足の現場から去る心苦しさを感じながらも、4月末で定年退職しました。2014年に社会福祉協議会の事務局長を引き受けたのは、人手不足のなか一生懸命いざわ働く職員、帰還に向けた陣頭指揮を執る伊澤町長の町復興に対する想いに少しでも協力できればとの思いからです。2020年には、2022年の帰還に向けて組織されたふたばプロジェクトの代表理事に就任。町の未来を担う若い人たちには、町の歴史を踏まえ、町に戻りたい人はもちろん、町で暮らしたい人たちと一緒に新しい歴史をつくってほしいですね。1292011年3月11日からの慌ただしい日々を記録したノート。課題は山積みだが、希望もかすかに見えてきた

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大きな希たかはし髙そうへい橋荘平一般社団法人えこえね南相馬研究機構代表理事昭和51年(1976)、南相馬市生まれ。25歳でUターンし、実家の病院を手伝いながら南相馬で活動。震災時は、地元の仲間とともに、市民の力による線量測定や除染作業に取り組む。2012年、再生可能エネルギー研究会を立ち上げ、翌年法人化。市民とともに省エネ、新エネによるまちづくりを目指す。「半農半エネ」が自らの手で形にした望131震災時、地元に残った方の不安解消、安全性担保のために線量測定や除染を行いました。避難するか残るかを自己判断で決めるという地域で、後悔しない選択をするためには判断材料が必要でした。その活動で将来への希望が欲しいという思いが強くなり、震災と原発事故の影響を受けた農地の再生を再生可能エネルギーと農業のコラボレーションで乗り越える挑戦を開始。農地で営農しながら太陽光発電も行うという、全国でも事例の少ない取り組みです。思いを共有した仲間たちと、雑種地を耕して単管パイプを組み、パネルを設置。このパイロットプラントで可能性を模索しながら農地法クリアを目指し、「南相馬ソーラービレッジ」が完成したのは2015年の10月。現在8か所の発電所が稼働を始めるに至っています。「農業ができないかもしれない」という絶望から、仲間たちと共に「半農半エネ」を形にしたことは大きな希望です。震災を通じて人の底力を見ました。大変だし、犠牲もたくさんあって悲しかったけど、この10年で私たちは新しい希望を得ています。多くの支援に個別に恩返しはできませんが、街が新たなチャレンジとうれ共に復興していくことで支援してよかったと感じてもらえると嬉しいです。「ソーラーシェアリング」で、発電だけでなく、土の水分量が安定する効果も期待できる

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加須市の皆さん出会った人々たけうち武ひろみ内裕美元双葉町役場総務課長昭和28年(1953)、双葉町生まれ。双葉町役場職員として、定年退職まで企画課長、総務課長などを歴任。2014年4月より再任用職員として5年間勤務し、2019年3月に期間満了。企画課長及び総務課長として、原子力発電所からの情報を収集しながらかわまたまち各避難所の対応にあたってきました。震災の翌日から川俣町、さいたまスーパーアリーナ、埼玉県加須市の旧騎西高校へと、不安と焦燥感に苛まれた町民が、何も言わず、何も言えずに避難する姿を覚えています。その後長期にわたった避難生活、先の見えないつらい日々。避難所は仕切りのない共同生活です。プライバシーはなく、ストレスを抱える人が多かった。当初は役場が避難所運営を行っていましたが、ある程度落ち着いてからは避難所内に自治会を設立し、自立の方向性が確立したことは良かったと思います。原発事故に対しては、とにかく悔しい。でも避難先で出会った方々の支援のおかげで、厳しい状況をどうにか乗り越えることができました。加須市をはじめ、全国の皆さんの支援はとてもありがたかった。感謝の思いを後世に引き継ぎたい。加須市とは友好都市を締結しました。私自身はこの10年で、さまざまな人間関係が広がったことが唯一良かったことで、今でもお付き合いがある方がいます。震災前に町の振興計画で策定していた「自助・共助・公助」が本当に大事だったと実感しています。ありがたかった2015年3月27日、双葉町役場を視察する安倍晋三首相(当時)に説明する武内さん(右から2人目)133

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飯舘村に設置された除去土壌等の仮置場【2016年7月撮影】

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あるかもしれな自分も誰かのたなか田中まもる衛環境省福島地方環境事務所環境再生・廃棄物対策部環境再生・廃棄物対策統括課役に立てることが昭和34年(1959)、南相馬市出身。民間企業で原子力関連の仕事に携わる。2013年3月、環境省福島環境再生事務所(当時)に入所し、国直轄の除染工事を担当。「外野からあれこれ心配しているより、そこに飛び込んでやってみようか」震災後、地元の復旧復興が気になって、自分にもできることがあるかもしれない、それならと思ったのです。以前は原子力関連の仕事をしていました。思いもよらず、現在の職場にお世話になることになり、それからはいいたてむら一貫して国直轄の除染事業部門に所属し、飯舘村を担当してきました。実は、住民の皆さんとじかに接する仕事は未経験、住民説明会などではかなり緊張し、しどろもどろの対応に。お叱りどころか苦笑されることもたびたび、反省しきりの毎日でした。なんとか除染事業を進めてこられたのは、同僚の助けはもちろん、つらい思いをされているにも関わらず、理解と協力をいただけた住民の皆さんのお蔭でした。加えて実際に現場を支えてくださった多くの作業員の献身的な働きがあったからと思います。自分たちの仕事は「放射線への心配を減らし、皆さんが帰りやすい環境を整えること」と思ってきましたので、2017年3月に飯舘村の多くの地区で避難指示の解除が迎えられたのは感慨深かったです。飯舘村の小中学校が再開した時は、い137もちろん伺いました。子どもたちの笑顔が見られて本当にうれしかったです。飯舘村での農地除染状況

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取り戻したたに谷のぶたか信孝福島大学相双地域支援サテライト特任専門員昭和30年(1955)、東京都生まれ。早稲田大学卒業、学生時代から子どもの教育関係のボランティアに携わっていた。2011年、SONYを早期退職、デイサービス施設長・保育園運営会社支社長を経て、2016年、福島大学特任専門員に就任。学びの楽しさを福島の子どもたちにい139福島とは全く縁のない生活を送っていました。震災後、経団連主宰の「企業人ボランティア」に参加したこと、これが私の人生を大きく変えました。「キャリアの締めくくりは福島再生のお手伝いをしたい」との思いが募り、23年勤務したSONYを早期退職。2016年、被災地の再生や子どもたちの支援に取り組んでいた福島大学の特任専門員に就任しました。被災地の教育環境整備が最初のミッション。子どもたちの教育環境を知るため、学校や教育委員会を訪ね、現状をヒアリング。震災の影響で教育環境が整わず、子どもたちが「学びの楽しさ」を忘れてしまっていることを知りました。そこで、大学・NPO・企業などの協力を得て「学ぶ楽しさ」「自己肯定感」「心と身体の解放」をコンセプトに理科実験、ICT、モノづくり、身体表現、食育などのワークショップを企画・コーディネートしています。現在は富岡町のサテライト本所を拠点に、地元の教育機関と連携しながら子どもたちを応援する活動を行っています。まだ十分とはいえない被災地の教育環境。今後は子どもたちの未来の夢や希望につながる、高校や大学など高等教育機関の整備を進めてほしいと願っています。自分の存在意義を確かめる5年間。2020年11月大熊町熊町・大野小学校(会津若松避難先校舎)にて

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充実した人生たまの玉ひろこ野寛子川俣町立川俣中学校理科教諭昭和53年(1978)、飯舘村生まれ。宮城教育大学卒業後、福島県の講師として2年勤務した後に採用。震災時は相馬市立磯部中学校、その後、飯舘村立飯舘中学校に勤務した。選んだ場所で輝いて自然体で生き、卒業生を見送ったあとでした。いそべ高台にある相馬市立磯部中学校にいた生徒は全員無事。しかし帰宅していた中で、無念にも津波の犠牲になり、命を失った生徒がいます。津波で流され、全部なくなってしまった磯部の街並み。一晩過ごした磯部中学校から、翌日自宅へ向かう時に見たあの風景が忘れられません。いいたてむら私は当時、2人目の子どもがお腹の中にいました。原発事故後に故郷の飯舘村へ避難するつもりでしたが、飯舘の状況を知って福島市へ避難することに。その後赴任した飯舘村立中学校では村独自の放射線教育を担当しました。当時はまだ何が真実かわからず、教えることに悩みました。十分な実験道具もなかったので、環境再生プラザの協力を得て授業をしたことも。10年の間に復興していく様子を見て「良かった」とは思いますが、磯部の海で遊んでいる風景や飯舘の農作業を一生懸命がんばっている姿が戻らないのはやはり寂しい。飯舘には色がなくなったと感じることも。この経験をしたからこそ、子どもたちにはどんな場所へ行っても自分の生い立ちを含めて自然体で生きていける人になってほしい。自分が選んだ場所で輝いて充実した人生を送ってほしいと願っています。を141川俣町立川俣中学校で理科を指導する玉野先生

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進化させたながい永やすのり井康統NPO法人0073(おおなみ)代表震災前より大波地区の農業を昭和35年(1960)、青森県弘前市生まれ。1978年東京電力入社。2012年2月より環境省の委嘱を受けた除染活動推進員として福島市内の除染に従事。2017年に東京電力を退社し、福島市大波地区で営農支援のNPOを立ち上げた。2018年4月より福島市地域おこし協力隊を兼務。い143環境省の依頼で、東電社員100名が福島の除染に関わることが決まり、私も福島市に。来た直後は、ラーメン店に入るのも怖かった。東電社員と知れたら「どうしてくれるんだ」と後ろから殴られるのではないかと本気で思いました。それでも、福島の人の気持ちは痛いほど分かるから、除染を終わらせ、避難した人が元の家に安心して戻れるようにするのが自分の役目だと思いました。目標は、10万軒分の住宅除染を4年半で終わらせること。三宅島の噴火の時でも4年半後には8割の人が避難先から戻りました。除染を行っている行政の方の足を引っ張らないようにと思い、あえて自ら東電と名乗ることはしなかったけれど。矢面に立って住民に向き合う行政の方には本当に頭が下がる思いでした。4年半で住宅除染が終わって、ふと気づいたのは、過疎化は農村共通の課題で、放射能がそれを加速させたということ。小学校が廃校になり、子どもの声が聞こえなくなった大波地区で、若い人たちが食っていける、生活できる農業の仕組みを作りたいと、東京電力を退社してNPOを立ち上げました。コメから放射性セシウムが検出された大波地区の農業が復活すれば、福島が復活した象徴になるはずだと思っています。付加価値を高め農家の収入につなげるために「干しいも」や「切りもち」の加工も行う

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いっぱいでしなかの中たかゆき野隆幸浪江町役場住民課課長昭和42年(1967)、浪江町生まれ。小高工業高校卒業後、1985年より浪江町役場。住民課をはじめ、税務、総務、生涯学習、教育総務、上下水道各課に務める。震災後は災害対策課放射線対策係長として町内の除染などの業務に携わり、現在も住民課で環境再生に取り組んでいる。きれいにしたい思いでとにかく町をた145「我々の仕事は町民のために動くこと」。先輩から言われた言葉を胸に浪江町役場に務め、35年ほど経ちます。震災後は、やるべきことが山積みでした。原発事故直後の避難誘導、避難所への物資配送、二次避難所への町民移送など多岐にわたります。私自身は自宅が津波の被害に遭い、家屋などを失いました。辛うじて家族は無事でしたが、両親と子どもたちは福島市で避難生活、私と妻は二本松市で役場の仕事を続けました。2012年10月に災害対策課の放射線対策係長となり、まず取り組んだのは、線量に応じて町を3つの区域に再編すること。除染を進めるために、仮置場の確保も重要でした。帰還困難区域を除く約30の行政区に何度も出向き、ご理解を得ながら一つ一つ決めていきました。全町避難の間に田には木が生え、雑草もはびこっていました。「とにかく町をきれいにしたい」という思いでいっぱいでした。2017年3月に一部地域が避難指示解除となり、帰還困難区域内の特定復興再生拠点区域の除染等が2020年12月より開始。拠点外の除染等の大きな課題が残りますが、町は少しずつ前を向いています。今後は水素を活用したまちづくりなど世界に発信できる魅力ある町にしていければと思っています。発災から3年が経過した頃の浪江町。全町避難により住民の姿はなく、町の中には雑草が生い茂っている

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そふんすくなびし存にま在のにこなすびなと俳優、タレントりはな昭和50年(1975)、福島県生まれ。1998~1999年にかけて、某民放TVバラエティー番組の出演をきっかけに芸能界にデビュー。故郷の福島県を中心に活動中。震災を境に笑うことが不謹慎に思われていた時期があり、無力感を感じていました。苦境にある皆さんの支えに何とかなれないかと思っていた中、ご縁があった香川県の方から「四国から応援できることはないかな」と。県外の方に福島の今を伝えることは自分にもできるかもしれないと、2011年8月に鎮魂や復興再生を願う四国88カ所お遍路の旅へ。2015年末から2016年にかけては、青森から福島まで被災した沿岸部を歩く「みちのく潮風トレイル」で全線約千キロ踏破。それまで長距離を歩いたことはなく、運動とは縁遠い生活だったのに…。そして考えてもみなかったエベレスト登山に挑戦。雪崩や大地震で3度断念しましたが、だんだん支援が広がって「なすびさんのエベレスト挑戦で、元気と勇気をもらっている、あきらめないで続けてほしい」との言葉をもらって4度目の挑戦で登頂に成功できました。福島に生まれ育った自分だからこそ、風評を払拭してふるさとをしっかりPRしたい。今できることが地味なことでも地道にやり続けたい。「なすびができるなら私たちだって挑戦してみよう」とか「ふくしまのことは、なすびに聞けば分かる」っていう風に言ってもらえるような存在になりたいな。「みちのく潮風トレイル」で全線約千キロを踏破【2016年3月28日付福島民報掲載写真】たい147

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活躍していってほしなんごう南いっぺい郷市兵福島県立ふたば未来学園中学校・高等学校副校長昭和53年(1978)、東京都生まれ。慶應義塾大学卒業後、IT企業勤務を経て文部科学省入省。震災後は、被災三県の連絡調整を担当。創造的復興教育を目指して開校前からふたば未来学園に関わってきた。文部科学省初等中等教育局視学委員。「生き抜く力」で復興を担う子どもたちへい149震災直後から、私は数え切れないほど被災三県に足を運びました。子どもたちの声に耳を傾け、彼らがこの先、厳しい現実を乗り越えるためには「何が必要か」をずっと考え続けています。「大人の責任として、教育をきちんと考えなくてはならない」と双葉地方8町村の教育長と話し合う中で、この思いを強くしてきました。復興を担う子どもたちに必要なのは、「生き抜く力」。2015年4月に開校した「ふたば未来学園」では、高校生が主体的に震災後の地域課題や背景を探り、それらを乗り越えて持続可能な地域をつくるための実践的なプロジェクト「未来創造探究」に取り組んできました。再生可能エネルギー、原子力防災、アグリビジネスなど、全部で6つのゼミがあり、生徒たちは学校の外に出て、大人と、社会と関わっています。2020年春、三期生の高校卒業時アンケートでは、「学びを通して社会とどう関わっていきたいか見いだした」という回答が8割以上。多くの生徒が明確な目的意識をもって巣立っていったことが分かりました。自分で考え、判断し、挑戦していける若者が、地域で世界で、どう活躍してくれるのか期待して見守っていきたいと思います。日本の新たな教育のモデルとなるカリキュラムで中高生が学ぶ

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親子で頑張にいつま新妻やすしやすとも泰・泰朋居酒屋いふ、民宿新妻荘経営昭和34年(1959)、浪江町生まれ。高校卒業後上京し、料理人修業。25年間東京で料理の仕事をし、2003年にUターン。姉と妹が営んでいた喫茶店を改装し「居酒屋いふ」と「民宿新妻荘」をスタートした。原発事故により6年間、避難生活を送りつつも帰郷できる日を待ち続け、避難指示解除とともに東京で料理の仕事をしていた長男の泰朋さんも合流して営業再開。未来を描きながら俺たちは繋ぎみたいなものる震災当日は年度末の金曜。宴会準備で忙しくしていました。避難指示が出た時も「すぐかえれっぺ」くらいの気持ちでちょこっと避難と思ったら6年。今は笑い話だけどね。防護服着て入れたのもだいぶたってから。先が見えない中、あっちこっち転々としながらも帰ることだけ考えて準備してました。早く浪江に帰りたいっていう親父の願いはかな叶わなかったけど、納骨は故郷でできたし、実家が津波で流されたけど、また家を持てた。街灯一つなかったまちに灯りをともせたって感じの6年だったね。東京で生まれ育った泰朋にとって浪江は故郷でも何でもないけど、「一人じゃできないから手伝ってくれ」って言ったら来てくれて。「浪江でまた酒が飲めるとは思わなかった」「いふに来ると町のみんなに会えてうれしい」ってお客さんが言ってくれるじゃない。それには本人もやりがいを感じてくれてる。ここは空気も風も違うしね。今は1割くらいしか戻ってないまちだけど、新しく住んでくれる人たちもいるし、何より戻ってきた町民はつなみんな生き生きしていて、浪江はやっぱり良いよ。俺たちは繋ぎみたいなものだから、広島や長崎のように復興する未来を描きながら親子で頑張っていきます。151浪江町民憩いの場として親しまれる「居酒屋いふ」。避難先から訪れる町民も多い

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一番の学にしもと西ゆみこ本由美子NPO法人ハッピーロードネット理事長昭和28年(1953)、いわき市生まれ。広野町交通安全母の会メンバーとともに国道6号線のクリーン活動や花植えなどの地域活動をスタートし、2008年にNPO法人ハッピーロードネット設立。震災時はネットワークを活かした支援物資の配送を行い、翌年「ふくしま浜街道・桜プロジェクト」を立ち上げる。中間貯蔵施設への除去土壌等の輸送に係る検討委員会委員も務める。肌で感じることが自分たちの目で見てび153「意見を言える場所を作ってほしい」という子どもたちの声を形にした「ハッピーロードネット」。子どもたちと最初にフォーラムを行ったのは2005年で、クリーン活動はそこから続いているものです。震災後は正しく放射能を知る勉強も始めました。彼ら自身が国内外できちんと学び、活動場所の線量調査も自分たちで行ってクリーン活動をしているのです。大人の提案ではなく、すべて子どもたちが発案し企画運営していますから、彼らがやりたい限りは続いていくでしょう。自分たちの目で見て肌で感じることが一番の学びですよね。大人の役割は、彼らが学んだことを自ら社会に発信できる環境を作っていくこと。これが本当の人材育成かなと感じています。地震、津波、原発事故の被害を受けた浜通りで、30年、40年と大人になっても関わっていくにはどうしたらよいか。桜の苗木を植樹し桜並木をつくり、震災を後世に語り継いでいく「桜プロジェクト」の主役も子どもたちです。これまで1万2,000本を植えました。私にとって彼らの活躍は苦労を越えた大きな喜びで、もっと多くのチャンスを作ってあげたい。彼らの可能性を社会に発信し続け、ともに故郷の未来を作っていきたいと思います。浜通り復興のシンボル「桜プロジェクト」。日本全国、世界からもボランティアが参加

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取ありの戻豊さかななけ大ねもとともこれ熊根本友子ばの大熊町ひまわりプロジェクト会長な暮昭和22年(1947)、大熊町生まれ。らら1974年から震災までの間、夫とともに大熊町で運送業を営み、自身は事業の傍ら、農業委員として町の農業振興にも力を注いでいた。なし震災後は大熊町農業委員会会長として大熊町の里山の景色を取り戻すためは農業の復興を目指し、「ひまわりプロジェクト」を続けている。大熊町は震災から8年以上かけ、ようやく故郷の一部を取り戻したばかりです。私は大熊町で生まれ育ち、大熊しか知りませんでした。人生がこんなふうに変わるなんて考えたこともありません。振り返ると震災までの暮らしは本当に豊かなものでした。「なんでそんなに一生懸命になれるの」と言われることもありますが、あの暮らしは取り戻さなければならないと強く感じていて、この10年、つな寄り添えて、自分の生きがいにも繋がっている。生きがいは人それぞれ。チャレンジでもあります。震災の年、避難先の会津若松市の方から提案を、きたなかぐすくそん種を採って沖縄県北繋ぎながら、里山の暮らしをあきらめることなく進んでいきたいのです。「ひまわりプロジェクト」は沖縄との交流も支えになり、2017年に発足い155その思いに支えられています。その信念があるから民生委員として町民の思いにも私の場合は「故郷が生きがい」だと思います。「大熊町ひまわりプロジェクト」は農地保全の目的もありますが、故郷を彩って町民を癒やし、希望を持ち続けるための喜多方市の農家から種を分けてもらってみんなでひまわりを植えたことが始まり。中城村に送り、温暖な冬の沖縄で咲かせた花の種を夏の福島で咲かせるという交流を10年間絶やさず続けてきました。こうやって小さな希望を

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はしもと橋けいこ本景子環境省福島地方環境事務所廃棄物対策官昭和55年(1980)、須賀川市生まれ。2012年1月の環境省福島環境再生事務所の開所に伴い入所。廃棄物対策課で汚染された廃棄物の対応にあたる。旧姓遠藤。震災後、生まれ故郷の復興に尽力したい思いで福島環境再生事務所へ入所。入所後は特定廃棄物を国の責任において処分するため、富岡町にある民間の最終処分場活用に向けての施設受け入れ要請業務に携わりました。忘れられないのは、住民説明会で司会を務めさせていただいた時のこと。住民の皆さまの怒りや心の痛み、不安と真っすぐに向き合ったことで、思いに寄り添って進めていくことの大切さをあらためて感じました。かな「公共事業は、法に叶い、理に叶い、情に叶わなければならない」。私はこの言葉をポリシーに、気持ちを込めて復興事業に従事しています。10年が経ちましたが、東日本大震災の被害はあまりにも甚大で被災地の復興はまだ道半ばと言わざるを得ません。これからも福島への思いを込めて、記憶を風化させることなく、たくさんの方々が失った時間を少しでも取り戻すために懸命に働きたいと思っています。私自身はこの10年の間に結婚、出産を経験し、2人の男の子を授かりました。震災を経験していない子どもたちが成長したとき、たくさんの人々が福島を思い信念を持って取り組んだ復興事業について誇りを持って教え伝え、つな福島の未来を繋いでいくことが私の使命だと考えています。に1572人の男の子の母この10年の間に結婚・出産「震災後10年の間に2人の男の子を授かりました」と橋本さん

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原発は終了させるべはしもと橋たけし本武士福島県生活環境部環境回復推進監兼次長(環境保全担当)昭和37年(1962)、郡山市生まれ。1986年に福島県入庁。2011年の東日本大震災発災時は須賀川養護学校に勤務していた。会津大学を経て、2015年に本庁に戻り生活環境部産業廃棄物課長。2018年から現職。戻れない人がいまもふるさとにき159あの時、須賀川市の養護学校にいた私は、校舎が壊れるほどの凄まじい揺れに驚き、生徒たちと一緒にグラウンドへ飛び出しました。住んでいる郡山市では断水が続き、当時中学生の娘と給水所に長時間並んだことも。ほどなく原発事故を知り、娘を「放射能にさらしてしまった」「嫁に行けるだろうか」と心配もしました。2015年、産業廃棄物課に異動。放射性物質に汚染された廃棄物は、国が処理する仕組みとなっていて、県は国と共に環境回復の事業を進め、私は、浜通りに設けられた環境省の仮設焼却施設の担当に。施設の運営協議会では地元の方との話し合い、さらに「放射線不安相談窓口」を設置し、帰還した方々が出した片付けゴミの放射線量の測定や処分業者の紹介を行ってきました。現在の業務は、除染や国の中間貯蔵施設、指定廃棄物の埋立処分などの監視です。私たちは、日本列島の東半分に人が住めなくなるかもしれない大事故を経験しました。放射能から逃げる時間も場所もありませんでした。汚染された環境を元に戻すことは容易ではありません。そして、いまもふるさとに戻れない人たちがいます。原子力発電とはそういうものです。原発は終了させるべきです。中間貯蔵施設に向かう除去土壌などの輸送車両の走行状況を日々モニタリングしている

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持っていひがしやま東はるな山晴菜一般社団法人まちづくりなみえ道の駅なみえ駅長ずっと違和感を風評というものに京都府生まれ、滋賀県育ち。大分県の大学を卒業後、大阪の食品流通小売業に就職。埼玉、大阪でバイヤーとして勤務後、2015年に二本松市の農業系のNPOに転職。さらに南相馬で1年ほど働き、2018年に「一般社団法人まちづくりなみえ」に入社。地域づくり支援員を経て、2020年開業の「道の駅なみえ」駅長に就任。た161私は震災当時、大阪で有機農産物等のバイヤーをやっていたのですが、原発事故後は福島はおろか、東日本のものがまったく売れなくなってしまいました。それまでは「国産の有機野菜です」と言っていればよかったのですが、「産地はどこか」「何ベクレルか」「大丈夫なのか」「ラベルはどこで印刷されているのか」といった隅から隅まで聞かれるようになったのです。生産者の方が悪いことをしたわけでもないし、そんないわゆる風評というものにずっと違和感を持っていました。そして2015年11月、実際に福島に暮らしながら向き合いたいと思い、大阪から引っ越してきました。浪江では今、毎日風景が変わっています。震災後そのままだった建物が解体され更地になる一方で、新しい家が建ったり、子どもたちがふつうに走りまわっている姿を見かけたり。私も移住者の一人ですが、他所から来た人も、戻ってきた人も、農業だったり漁業だったり、ここにはいろいろなチャレンジができるフィールドがあります。これから先、元通りにはならないこともたくさんあると思いますが、過去との比較ではなく、この町を愛して過ごしている方が、ここでの暮らしを楽しむことができればと思っています。浪江町に移住しコミュニティ再生に取り組む中で、道の駅の必要性を感じたという

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絶対条ふくおか福しょういち岡渉一双葉町郡山行政区長昭和25年(1950)、双葉町郡山生まれ。震災後は家族と分かれ、川俣町、伊達市、猪苗代町と避難先を転々とする。現在はいわき市在住。2015年より双葉町郡山行政区長。中間貯蔵施設の受け入れに際し、齊藤芳彦、森秀樹とともに住民の声をとりまとめ、町、県、国との交渉にあたる。それが受け入れのお墓と神社仏閣を残す件163われわれが住んでいた双葉町郡山行政区は、第一原発から3km圏内にあります。県内に中間貯蔵施設を設けるとなったら、双葉大熊が第1候補。ほとんどの人がそう考えてたと思います。客観的に考えると、だけど。中間貯蔵施設の受け入れは、元郡山行政区の区長で地域のリーダー的存在の齊藤芳彦さん、そして、役員だった森さんと俺。この3人が地域住民の代表として、責任を持って、町や県、国と交渉しました。ひと言では表せないくらい大変だったけど、俺は、ずっと地域を引っ張ってきた齊藤さんの後ろ姿を見てきたからね。地域のために働こう。そう決心していました。受け入れにあたり、1つ条件を出しました。それは、郡山行政区内にあるお墓と神社仏閣を残すこと。お墓にはご先祖が眠ってるし、神社仏閣は地域の心の拠りどころだからね。最初は断られたけど、粘りましたよ。それから「今後30年間、自分の土地、家屋、全部国に提供します」という書類に判を押しました。環境省は、30年後に郡山行政区をどうするか、そろそろプランを示すべき。30年後、われわれはいないだろうけど、次の人たちのためにね、そろそろ未来の姿を示してほしいと思っています。原発事故後も守ってきた郡山地区にある正八幡神社前。地域のみんなと「郡山神楽」と「小湊音頭」を奉納した

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気がするんでふじしろ藤城ひかり光未来会議事務局メンバー昭和49年(1974)、茨城県水戸市出身。埼玉大学卒業後、東京でグラフィックデザインの仕事に就く。2010年に夫の実家があるいわき市に移り住み、デザインの仕事とともに現代アートの制作にも取り組む。『PRAY+LIFE』主催。呼ばれたようなふくしまという土地にす165「できることは何でもやろう」と震災後のいわきで思いました。明日、私たちは生きていないかもしれない。それなら人々の体験や想いを残したいと、ボランティア活動の傍ら出会った人などから話を聞き、一人一つの物語として書き残す「PRAY+LIFE」を始めました。当時はメディアが取り上げきれなかった一人一人の日々、ささやかな出来事に目を向けると、立場や考え方の違いがもたらす難しさが見えてきました。お互いを知る「対話の場」が必要と考え、あるワークショップで同じ思いの仲間と出会い、「未来会議」を始めました。いろいろな人がその時々の思いを話す対話の場を、繰り返し開き記録していきました。毎回60人〜130人の人が集まり、26回に。未来会議は30年続けようとしています。ここから新しい出会いや取り組みも生まれ、未来への種まきの場にもなっています。私はいわきに来てから、「土地や物に刻まれた記憶」をテーマに作品づくりをしています。時々、この土地に呼ばれたんじゃないかと思うときがあります。今は不要に見えるものが、生きた証のように100年後、1万年後、別の意味をもって立ち上がるかもしれない。そう考えると一瞬一瞬がとてもかけがえのないものに思えるのです。ワークショップ形式の対話の場である未来会議。異なる価値観の人たちがお互いに耳を傾けあう

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ほし星よしみち義道NPO法人森林野会理事長昭和23年(1948)、南会津町生まれ。中央大学法学部卒業後、上場会社就職。退職後独立し、大阪に輸入販売株式会社を設立し社長就任。2008年に南会津町にUターン。高野もりネット協議会会長を務め、「じね~んの森」の開発推進など、里山再生とフィールドづくりの活動を進めている。僕の「癒やしの里」が人が集いほっとする夢16760歳で実家に戻ったとき、かつて先祖が開いた田畑は“やぶ化”の荒れ放題になっていました。そこで「じね~んの森」と名付け、コツコツと整備を始めました。しだいに仲間も増え、里山に自生していた「サルナシ」を栽培拡大、その実をジャムやジュースに商品化したり、子どもが遊べる場所を作ったり。そんな活動の道半ばに、東日本大震災は起こりました。地震の被害はほとんどなかったものの、やはり風評被害は大きかった。キノコ作りも震災後少しずつ再開したのですが、以前のようには戻らない。「皆が一丸となって取り組まなければこの局面は乗り切れない」と思い、整備の範囲を広げ、高野地区全体を癒やしの里にしようという構想実現に向けて「高野もりネット協議会」を作りました。サイクリングができるような10㎞の道、見晴台も整備したいと考えています。また、高野地区の千本桜を目指し、既に200本以上の桜を植えました。この広大な自然は、宝の山なんです。私自身、都会からこの里山に戻ってくるとほっとしました。その“ほっとする”を考え形にしていきたい。人が集まり、みんなが元気になると地域全体が活性化していく。それが夢です。サルナシ収穫祭の風景

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考新大えし好ていきい楢なき葉楢たを葉まきのはらさゆり牧ノ原沙友里の一般社団法人ならはみらい管理本部主任た昭和62年(1987)、楢葉町生まれ。め高校卒業後、地元企業に就職。2008年に上京。2016年に帰郷、にならはみらいに就職。15歳より「ならは天神太鼓うしお会」で活動。、ならは楢葉生まれの楢葉育ち。楢葉が大好きな私ですが、歌手になりたいという夢を持ち上京。15歳で始めた和太鼓も続け、働きながら歌の勉強をするという生活の中、東日本大震災が起きました。地元に駆けつけたい思いもありましたが、今帰ると避難している家族にかな迷惑をかけるのではと思いましたし、自分の夢を叶えないままに帰ることにも自分の実力と年齢と現実というものを考え、ここまでやればもう十分だと。ちょうどその頃、楢葉町の避難指示が解除されるのを知り、ようやく帰郷の決心ができました。地元に帰って、楢葉のためという思いから、「ならはみらい」で働くことになりました。「ならはみらい」は、帰町する方の支援や、町民参加の活動やイベント企画など、楢葉の未来を築く取り組みを行っている“まちづくり会社”です。スタディーツアー等、さまざまな活動をしてきました。これからも町民はもちろん、町外の人たちとの交流も図りながら、楢葉の今、そして楢葉の未来を一緒に考えていきたいと思っています。2020年8月には、笑ふるタウンならは2周年感謝祭を催したい169葛藤がありました。結局震災後5年間、悩みながらも東京で夢を追っていたのですが、これまで、休耕田に花を植えるプロジェクトで首都圏の学生に来ていただくことや、

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まつもと松あいり本愛梨NPO法人富岡町3・11を語る会べいの平成4年(1992)、郡山市生まれ。も専門学校(声優俳優科)卒業後、2013年「富岡町生活復興支援おだがいさま思センター」の臨時災害FMに入り、2015年からNPO法人みんぷくのいスタッフとなる。2020年4月よりNPO法人富岡町3・11を語る会で活動。を2019年秋の台風19号で、私の郡山市の家は水害に遭ってしまいました。仕事も少し前に辞めていたので、住むところも、車も、仕事もない。そんな私を助けてくれたのが、富岡町の人や、一緒にNPO活動をしていた人たちでした。富岡町の方たちとご縁ができたのは2013年「おだがいさまFM」のスタッフになったことがきっかけ。当時の私は浜通りのことがよくわからなくて、「富岡ってこういうとこだよ」と皆さんに教えていただきながらの毎日。スタジオには大きな窓があり、番組をやっていると、皆さん、よく声をかけてくれるんです。それがうれしかったですね。そのときは、自分がやがて富岡町に住むことになるとは思っていませんでしたが、これが縁なのですね。「富岡町に行きたい」と思ったのは、自然の流れだったように感じています。今、富岡町3・11を語る会で、事務局として働いています。「当事者じゃないのに何がわかるんだ」と言われて辛い思いをしたことも。でも、年々高齢化していく語り人の言葉を残し、伝えていくことが、お世話になった人への恩返しではないかと思っています。震災当時のこと、そして町の「今」を、多くの人に知ってもらいたいです。171多くの人に伝えた高齢化する語り当事者ではなかたいで人富岡町内を案内するツアーガイドの様子。町内は除染・解体等により、日々変化しつづけている

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大熊町・双葉町に建設された中間貯蔵施設【2020年11月17日空撮】

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つくることが我々の仕まつもと松本葛尾村副村長ひろし弘昭和34年(1959)、葛尾村生まれ。高校卒業後、葛尾村役場に勤務。震災後2012年より、地域振興課長として除染による除去土壌仮置場の準備をはじめとした復興事業に取り組む。教育次長、総務課長を経て、2020年4月より現職。「葛尾創生電力株式会社」の社長も務める。それでも帰る場所をかつらお葛尾は山々に囲まれた、農業の盛んな小さな村。私はここで生まれ育ちました。原発事故で5年に渡って事175帰れない日々が続きましたが、自然豊かな村であることは今も変わりません。は村民が長い年月をかけて作った農地の土を剥ぎ取ることは苦渋の決断。住民一人一人が苦しい思いを出し合い、除去土壌の仮置場や廃棄物処理施設の場所を決めていきました。人口1500人足らずの村民は皆知った者同士。地区で話し合って決めてもらうため、平成24年12月24日に第1回の仮設焼却施設説明会を行い、平成26年2月まで1年以上を要したんです。村民も我々も国にとってもあらゆることが未経験で、ベストな選択をできたかは分からないまま。それでも帰る場所をつくることが我々の仕事。環境省の方々にも地区から出た要望を国に持ち帰って検討してもらう、という親身な対応を繰り返していただき、一つ一つクリアして帰還困難区域を除く避難指示解除までこぎつけることができました。再生可能エネルギーを主軸にした「エココンパクトビレッジ」は、我々が未来のために選択した新しい村づくりです。こうしてできることを積み上げながら、住民とともに葛尾村の暮らしを取り戻していきたいと思います。「葛尾創生電力」はスタートしたばかり。村の暮らしを支え、産業としても発展を目指す

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“本ふ当たのば復は興人はまつもとひろゆきつ松本広行こ”楢葉町ユズ研究会会長れ昭和30年(1955)、楢葉町生まれ。双葉地方町村会の事務局に勤務のかたわら、有機栽培米とユズ栽培を手がける。楢葉町の帰還困難区域指定が解除された2015年、避難先から町へ戻り営農を再開。ならはユズ研究会の仲間と「楢葉のユズで特産品を作ろう」と、2010年、りあい喜多方市のほまれ酒造の協力のもと、ユズ酒「ゆず里愛」を造った。町内の酒屋で販売したら、すぐに売り切れ。「来年はもっと多く作っぺ」と、翌年の2011年に2,000本仕込んでもらったんだ。その矢先の原発事故発生。町からみんな避難した。一時帰宅したとき、その後、国が除染をはじめ、草1本もないほどきれいに。「これならみんな戻れるんじゃないか」と希望が出てきた。2016年に双葉地方町村会事務局を退職したあと、単身で町へ戻り、「少しでも復興の後押しができれば」と荒れた土地の草刈りをした。白河市の千駒酒造の協力を得て、ユズ研究会の仲間とユズ酒造りも再開。互いに支え合ってここまで進んできたんだなと思う。双葉地方の8町村には、まだ帰還困難区域がある。国には復興拠点区域外の荒れた土地をきれいにして、みんなが早く戻れる環境をつくってほしい。ひと震災後、事務局の作業衣に“ふたばは人つ”と文字を入れた。全町村が元通りになって、はじめて双葉地方は復興する。楢葉だけがよくなってもダメなんだ。双葉は人つ(一つ)なんだから。「支え合って復興していくぞ!双葉郡の心は一つ!」と思いを込め、東京福島県人会浜通り会の支援を受けて作ったから177家も庭も田畑も荒れ放題なのを見て、「これじゃもう戻れないな」と悲しかった。ひと

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今の楢葉はなまつもと松ゆきえい本幸英楢葉町長それなくして決断を下したこと昭和35年(1960)、楢葉町生まれ。福島県立四倉高等学校卒業。1997年から楢葉町議員を務め、2006年、町議長に就任。2012年4月、町長選に立候補し、初当選を果たす。2020年4月、無投票で3選を果たす。「町民に寄り添って」とよくいわれます。でも災害時には町民全員に寄り添うのが難しい場合も。2012年の8月に、一部町民の反対を押し切り、国からの区域見直しに応じました。当時、町は警戒区域に指定されていましたが、国から住民の帰還を前提とする避難指示解除準備区域に再編したいという申し入れがあったのです。何度も町民懇談会を開きました。町民の意見を聴きながら、「見直しに応じれば、除染やインフラ復旧を早期に進めることができる」と粘り強く説得。「復旧が早まるなら」と受け入れてくれた町民が当初は多かった。しかし途中から反対派が多数を占めるように。それでも町の復旧復興、未来を考え「再編に応じるべきだ」そう確信し、決断を下しました。2015年の避難指示解除にあたっても、課題を一つずつクリアし、安全安心を確認し、プロセスをきちんと踏みながら準備を進めてきたと自負しています。町長に初当選した2012年4月以来、リーダーとして下したさまざまな決断。不満や不安、厳しいご意見もたくさん耳にしました。ならはまちしかし、区域の再編と避難指示の解除。この決断がなかったら、今の楢葉町はない。そう確信しています。い179屋内体育施設「ならはスカイアリーナ」の完成など、復興を前に進めてきた

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まんぷく万ゆうぞう福裕造農研機構農業環境変動研究センター上級研究員信用すっ言うことなら万福ちゃんの昭和47年(1972)、鹿児島県出身。東京農業大学農学部、北海道大学大学院工学院卒業。2011年農林水産省技術会議事務局、2012年より飯舘村復興対策課派遣。2020年度は飯舘村復興アドバイザーとして村の復興に携わる。ほかに環境省のコミュニケーション推進チーム委員をはじめ、除染検証や農業再生の委員会にも関わる。いいたてむら2011年の農地除染技術開発の実証事業で、飯舘村を初めて訪ねました。翌年から村の復興対策課の一員として、除染や復興の業務を担当。当時は「そもそも放射能って何?」というところからの説明なので、どう表現すれば住民の皆さんに伝わるのか苦心しました。とにかく丁寧に説明することを心掛けていたので、「万福ちゃんの言うことなら信用すっぺ」うれと言ってもらえたときは、嬉しさとともにやりがいを感じました。は住民の皆さんと一緒に進めた農地除染の実証実験では「表土を剥ぎ取れば土が痩せてしまうのではないか」、「作物の品質や安全性は本当に大丈夫か」など不信感が噴出。まずコメを作付けし、水の安全性を確かめながら試験栽培をし、その結果を公表。引き続き、他の作物の試験栽培も行いました。実験開始から数年後の秋、ある農家さんが「これなら大丈夫だべ」と言ってくれたとき、初めてホッとしたのと同時に手応えも感じました。今後は除染した農地2,200haを、どう維持していくかも考える必要があります。なかどろ長泥地区で取り組む環境再生事業においては、この事業に未来を託してくれた地元の皆さんの思いを胸に刻み、誇れるふるさとの再生に向けて着実に再生につなげたいと思っています。ぺ181村の人たちと対話を重ねながら農地除染の実証実験を進めた(右が万福さん)

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次の世代に伝えていみずの水ひろと野廣人水野林業昭和61年(1986)、古殿町生まれ。大学卒業後、東京で株式会社ユニクロに入社。2013年、家業である水野林業を継ぐために古殿町へUターン。林業のイメージアップのためにさまざまな企画に取り組む。先人が育んだ山林、東日本大震災を機に、被災地である福島で何かできることはないかと思い、私はふるさとに戻ることを決めました。身の振り方を模索するうちに林業の担い手不足の問題が地元にも陰を落としていることを知り、これは自分にしかできないことと思いました。「古殿に戻って林業を継ぐ」と言ったとき、震災と原発事故で林業の未来は厳しいと父にも親戚にも反対されました。でも、山が荒れると災害につながります。育った木をみんなで使い、新たに木を植えて山を再生していくことが大事だと考えたのです。まずは木に触れて質感や素材の良さを再認識してもらおうと、木工職人に頼んでプレートなどの製品作りや、山林への関心を高めようと、伐採した丸太を馬で搬出する昔の技術にもチャレンジしました。やぶさめ100年前には馬搬が行われており、流鏑馬で知られる古殿町でもあるので、馬と木を関連づけられないかと考えたのです。搬出した丸太は製品に加工し、馬のロゴマークを入れたいと考えています。手入れした山を活用したアウトドアの過ごし方も企画しているところです。先人が育んだ山林を次の世代に伝えていくのが林業の仕事。その誇りと魅力を共有できる仲間をふやしていきたいです。く183山桜で作ったカッティングボード(上)とBBQボード(下)

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賑わいを呼び戻したみなかわ皆きよみ川紀代美一般社団法人いわき観光まちづくりビューロー総務部総務課課長補佐昭和51年(1976)、いわき市生まれ。いわき明星大学卒業後、2000年、社団法人いわき市観光協会(現・一般社団法人いわき観光まちづくりビューロー)入社。私が好きないわきの夏いいわき観光まちづくりビューローで経理の仕事をしています。決算がある一年で最も忙しい時期に、あの震災が起きました。当時は余震が多く、職場は古い建物にあったので即、事務所を移転することに。とにかく目の前のことを必死でやりました。その後いわきにまで及んだ原発事故の風評払拭のために、私たちは動き始めました。スタッフはフラガールのキャラバンに同行し、観光や食の安全・安心のPRに努めました。応援の声、心ない言葉。両方ある中で日々頑張るスタッフを、総務の立場でサポートしました。2年目からは観光客も少しずつ戻り始めましたが、対前年比は約34%どまり。2013年は約66%となり、そこからは7割程度で推移しています。いわきは海水浴場や温泉、海・山の幸など、観光資源に恵まれたところ。にぎ私が特に好きなのは、いわきらしい夏の賑わいです。2019年までに海水浴場は4カ所再開し、賑わいが戻ることを期待しましたが、コロナ禍で観光は再びダメージを受けました。県外からの誘客が難しい状況ですが、市民の方々に地域の魅力を再発見していただく機会かなと。SNSでの発信など、できることを続けながら、いわきをさらに盛り上げていきたいです。185フラガールとともに首都圏などに出向き、元気ないわきを発信した

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苦渋の決断みやもと宮こういち本皓一富岡町長昭和22年(1947)、富岡町生まれ。1965年、福島県立小高農業高校卒業。2000年3月から2013年6月まで富岡町議会議員。2012年4月から2013年6月まで富岡町議会議長を務める。2013年7月、富岡町長に初当選。現在2期目。2019年4月より双葉地方町村会副会長を務める。双葉地方広域市町村圏組合筆頭副管理者。復興を進めるためにはも町長に就任してすぐ取り掛かったのが、町民の皆さんの想いに寄り添った生活再建と、「ふるさと・とみおか」の再生・復興を加速する第二次復興計画の策定でした。30名の町民と町職員26名で検討委員会を構成し、100時間にもおよぶ時間をかけました。計画では、富岡駅前から役場周辺までを「先行復興拠点」と位置づけ、復興住宅、ショッピングセンター、診療所など、町民の暮らしに欠かせない施設を整備。2017年4月の避難指示解除を目指し、町一体となり、それらを実現しました。震災後、眠れない日々が続くことも。たくさんの方から叱責を受けた特定廃棄物の埋立処分施設の受け入れには難しい選択を迫られましたが、「復興を進め、前を向くためには必要だ」と、苦渋の決断をくだしました。現在、町内では子どもたちの学ぶ姿や町民の笑顔が見られるようになりました。本格的な復興に着手する節目は、避難指示の解除であると受け止め、町の真の復興へと「帰還困難区域の再生」に努めています。原発事故から10年。国は「たとえ長い年月を要するとしても…」と言わず、帰還困難区域の復興・再生に向けた具体的な時間軸を示す時期に来ていると考えてもよいのではないでしょうか。187環境省による3度の除染を実施した、夜の森の桜並木

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トマトに託しもとき元木ひろし寛株式会社ワンダーファーム代表取締役昭和51年(1976)、大熊町生まれ。福島高専卒業後、JR東日本就職。2002年にいわきにUターンし、義父とともに㈲とまとランドいわきを設立し、大規模ハウスによるトマト栽培を始める。2015年㈱ワンダーファーム設立。2つのふるさとの思いいわきと大熊、て189私たちのトマト栽培も「もうやめようか」と一時話が出たんです。半年間は出荷できず、日々赤くなっていく果実を廃棄せざるを得ない苦しい状況。震災と原発事故で、福島の農業全体が窮地に追い込まれました。でも「農業をやるために東京から戻ってきたんだ、何とかしよう」と、地震で損傷した設備を復旧させ、風評で安値ではありましたが市場への出荷を再開しました。さらに、震災前から構想のあった、レストランや規格外トマトを活用した加工品の製造・販売を行う「ワンダーファーム」を2015年に設立。地域の雇用拡大や農業の活性化につながればとの思いもありました。ワンダーファームでの経験を経て、トマト農家として独立する若者が増えてほしい。いわきは日照時間が長く、気候も比較的温暖なことから、トマト栽培に適した環境。地域全体でトマトの生産量を上げていければ、産地としての競争力も上がります。生まれた大熊の家にはもう帰ることができません。それでもいわき市と大熊町、2つのふるさとへの強い思いとトマトを通して、浜通りの農業が元気になるように頑張っていきたい。ワンダーファームのトマトハウスでは、トマトの収穫体験もできる

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許してくれもり森ひでき秀樹双葉町郡山行政区役員昭和25年(1950)、双葉町郡山生まれ。震災時は民生委員として町とともに川俣町、さいたまスーパーアリーナ、加須市へと避難。母の入院を機に東京へ移り、娘家族と避難生活を送る。現在、いわき市で娘夫婦と暮らす。きっとご先祖様も土地提供福島の復興のためのる191中間貯蔵施設の受け入れに際しては、齊藤芳彦さん、福岡渉一さんとともに地域住民の声をとりまとめました。この先30年も帰れないのなら、先祖代々受け継ぎ、育んできた土地に、中間貯蔵施設を受け入れることが、土地の有効活用になるのではないか。それによって、県民はもとより、多くの国民に希望を与えることができるのではないだろうか。「それならきっと、ご先祖様もきっと許してくれる」そう信じて、郡山地区の住民はみんな、断腸の思いで土地提供に同意したものと思っています。この10年、われわれは多くのものを失いました。土地、家屋、そして地域のコミュニティー。「地域ごとどこかに移住するような施策はできなかったのか?」と思うこともあります。他の地域の帰還困難区域が解除され、復興する姿を見て、「中間貯蔵施設を受け入れなかったら、もしかしたら10年で帰還できていたのでは?」と思うこともあります。われわれのこの思いを、国と県は重く受け止め、長期にわたり支援していく責任があると思っています。環境省と国には、30年後、現在の郡山地区を誰もが「こんなところなら永住したい」と思えるほどの土地にして、次世代へ渡してほしい。そう強く願っています。郡山行政区に今も鎮座する正八幡神社。震災後に氏子が建立した石碑、そこに刻まれた想いを知ってほしい

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小高から輩出していきたもりやま森たかし山貴士一般社団法人オムスビ代表理事昭和61年(1986)、大阪府生まれ。立命館大学政策科学部に在籍しながらITベンチャーでデザイナーとして勤務。卒業後、ソフトウェアメーカーで開発の仕事に従事し、2014年に退職して南相馬市に移住。フリーランスのデザイナー、プログラマーとして活動しつつ、2017年に一般社団法人オムスビを立ち上げる。課題解決人材をい193若者が社会に出る前にさまざまな社会の課題に取り組めるように、人と社会をつなげる環境を地方でつくってみたいと考えています。その思いは震災の3年後、南相馬市での人材育成活動から。2014年まで勤めていた企業で、多くの後輩たちと働く中、「若者の目指すこと、やりたいと思うこと」を後押しする教育などの環境が、十分に整っていないことに気付いていました。そんな風に自身の行動も伴わない時期、思いがけない縁によって南相馬市に移住することになりました。この地域で活動する人たちにも支えられ、試行錯誤しながら歩んできました。小高に関わる若者たちは、このまちづくりの現場に直接触れることができる。この環境は自分が目指してきたものとも合致していて、ここなら社会課題を解決できる人材を創出していけると確信しました。小高は2016年に避難指示が解除され、住民ゼロから再出発したばかり。何をやるにも確実なことはなく、とにかくトライを繰り返していくしかない。「持続困難」と思われるこの地域を、「住み続けたい」「移住したい」と思える場所にするため、僕らみたいな“よそ者”が新しい風の役割をし、IT技術と地域コミュニティを活かして挑戦を続けていきます。若者の「やってみたい」を形にし、活動拠点ともなっているカフェ「OdakaMicroStandBar(OMSB)」

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届多「けく福続の島け人のたに今」やまねまいこを山根麻衣子フリーライター昭和51年(1976)、神奈川県横浜市生まれ。大学卒業後、接客業に従事。東日本大震災を機に神奈川県でボランティア、NPOでライターを務めた後、2014年9月に双葉町復興支援員として福島県に移住。福島県任期付職員などを経て2019年からフリーライターに。3月11日は横浜市の「みなとみらい」で働いていました。しかし震災の影響を受け人員削減。横浜からでもできることを探しボランティアに登録しました。ボランティアステーションの立ち上げに関わったり、被災地で必要とされていることを発信したりしていました。2012年から13年は被災地で、キーパーソンの取材を半分仕事、半分ボランティアで担い、2014年には双葉町復興支援員に。仕事として東北に関わっていきたいと感じ、福島に移住したんです。私自身が手弁当で続けることに限界を感じていたこともあります。たくさんの方から地元の話を伺い、知れば知るほど皆さんが暮らしてきたならはまち浜通りへの関心が増していきました。2015年に楢富岡町の一部と避難指示が解除され、めまぐるしい町の変化や、人の思いの移り変わりを目の当たりにするのは、ここに住んでいないとできないこと。10年前で福島のイメージが止まっている人も多いと感じているので、変化し続けている「今の福島」の姿を届けていきたいと思います。県内で取材している様子い195ただ、思いだけが先走り、地域で信頼関係を築くには1年半ほどかかりました。葉町全域、2017年に浪江町、現在は、フリーライターとして主にウエブ媒体で浜通りの情報を発信しています。

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よこかわ横けいすけ川圭介株式会社ネクサスファームおおくま生産部主任町の特産品私たちのイチゴを太陽光を利用した昭和61年(1986)、大熊町生まれ。大学卒業後、富岡町の小売業に就職。震災後は避難等により仕事が続けられず退職。2014年より大熊町の一時帰宅の仕事に就く。2016年より㈱ネクサスファームおおくま設立に向け、役場職員として働きながら研修を受ける。2018年より同社社員。に197震災翌日の朝6時、町の広報車が巡回してきて「公民館に集合するように」とのアナウンスがありました。安否確認か何かだろうと思って向かうと、いきなりバスで三春の体育館に行くことに。結局4月までお世話になりました。今振り返って、あの体育館での避難生活が一番辛かったですね。テレビで原発の水蒸気爆発の映像を見たときには、体育館全体に絶望に近いような雰囲気が漂いました。避難した当初は2、3日で戻れると思っていたので飼い犬を残してきた人も多く、犬に会いに徒歩で大熊まで戻ろうとした人もいたほどです。我が家の犬は、幸いにも生き延びることができました。その後、会津若松市に移りましたが、会津の人たちの人柄の温かさに助けられて快適に暮らしていくことができました。現在はネクサスファームおおくまで、太陽光を利用した植物工場でイチゴを栽培する仕事をしています。ここでは「高設養液栽培」や「環境制御システム」によって、労働力の軽減や効率の良い栽培が行われています。かつて、大熊町にはサケやナシ、キウイなどの特産品がありました。これからの未来、私たちがつくるイチゴが町を代表する特産品になればと思っています。ネクサスファームおおくまでは年間を通して数種のイチゴが栽培されている

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限りなくありましやるべきことは考えること、よこすか横こういち須賀幸一富岡町観光協会事務局長昭和30年(1955)、富岡町生まれ。高校を卒業し、役場勤務。富岡町青果市場を約6年間担当し、1980年に本庁。震災時は対策本部で活動。以後2015年の定年まで富岡町の復興に尽力する。2015年4月より商工会事務局長、2017年より現職。た199役場職員として退職までの5年は、対策本部で復興の職務に携わりました。防護服に身を包み、最初に町に足を踏み入れた時の複雑な気持ちが今も忘れられません。避難所運営もままならず、町民の所在を把握することも困難。町がどうなっているかも分からない中で、それでも復興計画を進めることが仕事でした。住民からも情報を集めながら立てた計画は、線量が壁になり議会の承認がなかなか得られない。国にも確かな情報がなく、どう進めるかは手探り。考えること、やるべきことは限りなくありました。指定廃棄物最終処分場の受け入れ検討が始まったタイミングで生活環境課に異動。町民の声を聞きながら国と交渉する仕事は腹を括ってやるしかなかった。「受け入れて良かったと思えるようにする」と心に決め、問題を一つ一つクリアして、議会や町民が納得するまで検討。安全性担保だけでなく情報提供するための施設の設置も決めました。情報館は、地域の人が集まる場にもなる予定です。観光協会では富岡町を知ってもらうことをやっていきたい。さまざまな団体と連携してアイデアを生み出しながら、今後も自分の役割を果たしていきたいと思っています。夜の森の桜並木のライトアップ。点灯式ではよさこい踊りが披露された【2020年12月3日付福島民報掲載写真】

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南相馬への支援に感謝よこた横よしあき田美明南相馬市経済部長昭和39年(1964)、南相馬市生まれ。震災時は南相馬市教育委員会事務局幼児教育課子ども企画係長として奔走する。その後、復興企画部除染対策課長、総務部次長兼秘書課長を歴任し、2020年4月より経済部長を務める。今でも続く!201震災直後、教育委員会事務局職員として幼稚園、保育園、放課後児童クラブに通う子どもたちの安全と施設の確認をまず行いました。妻は看護師として患者さんを泊まり込みで看て、私自身は市役所に数日間泊まり込んでの業務。自宅は津波で被害を受け、帰宅できず、当時小学6年生だった息子には、避難所で祖父母と一緒ではありましたが、心細い思いをさせました。その後、東京大学先端科学技術研究センターの児玉龍彦教授が市を訪問。放射線が子どもに与える影響について説明していただき、「できることがあれば協力する」との言葉に力をもらいました。それからは毎週、東京から南相馬を訪れて指導していただき、早い時期に園舎等の放射線量測定を開始できました。私は児玉教授に指導していただいたことから、その後の除染対策担当に。住民の皆さんの理解と協力を得て、除染計画策定から除去土壌の仮置場の選定を含めた除染作業の推進まで行いました。実現できたのは災害時に地域コミュニティが力を発揮したから。そして、県内外のボランティアの皆さんの支えも大きかった。今でも児玉教授をはじめ、支援者の方のサポートが続いていることが本当にありがたいです。南相馬市除染推進委員会の視察。東京大学先端科学技術研究センター教授(当時)児玉龍彦氏(右から3人目)とともに

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取必りず戻ふする覚さとよしだえいこう吉田栄光双福島県議会議員(5期)葉郡昭和38年(1963)、浪江町生まれ。自民党福島県連幹事長、福島県議会議長を歴任。を現在、自民党福島県連副会長も務める。「必ず、ふるさと福島、双葉郡を取り戻す」。震災翌年の夏、福島県議会の調査団の一員としてウクライナを視察。その時覚悟を決めました。チェルノブイリ原発事故の教訓を、はいきょ福島の復興に生かすのが目的でしたが、誰も住んでいない廃墟となった町、チェルノブイリを見たときの衝撃が忘れられません。震災後は年に50回以上も上京、大臣たちに直訴したことも。国や県と話し合い、信頼関係を築きながら厳しい決断をしてきました。あの津波で家族や家を失った住民、その後の原発事故で避難を強いられた住民の生きざまや、つらさ。すぐそばで見てきた地元の議員としては、復興を成し遂げること、これが最大の目標です。私の浪江町にある自宅は帰還困難区域に指定されたので、一時は福島市に身を寄せていました。今は浪江町の以前とは別の地区で、家族とともに暮らしています。故郷の変化を間近で見ながら、これからも一歩ずつ前進してまいります。大切であり、無理をお願いし、幾重のご苦労をおかけした住民の皆さんに報いるためにも、私には力を結集して復興させる責任があるのです。2011年7月、復旧復興対策特別委員会にて悟203「福島県はあらゆる逆境に勝った地域」として、いつか国内外に発信していくことが

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政策の実現よしだ吉田大熊町長じゅん淳昭和31年(1956)、大熊町生まれ。1979年、大熊町役場に入庁。生涯学習課長、教育総務課長、総務課長、大熊町副町長を歴任し、2019年11月より大熊町長を務める。住んで良かったと思える戻りたいとへ205「逆境の中でも、町民の皆さんが少しでも安定した生活をできるように」。役場職員として原発事故による全町民避難の誘導にあたる上で心掛けていたことです。町民の方の要望を聞き、生活環境などに差が出ないように気を配りながら考え、行動してきました。最終的に会津若松市に約4,000人が避難。会津若松市からは市内の旅館やホテルを提供していただきました。会津の皆さんには大変ご尽力いただき、大熊町の小中学校を立ち上げ、整った教育環境で子どもたちは学ぶことができました。2019年から町長として町政にあたっています。「戻りたい方」「戻ってきている方」「戻らない方」それぞれの選択がありますが、町に戻るための環境を整備することを第一としています。戻ることができない方にも「故郷を思う気持ち」を持ち続けていただけるように、新たに町民となる方には「移住して良かった」と思える政策を実現していきます。昨年、2050年までに二酸化炭素の排出を実質ゼロにする「2050ゼロカーボン宣言」を行い、今後の町が目指すべき道を示すことができました。これからも大熊の再生のために魅力ある町づくりを進めてまいります。2019年8月、大熊町に開所したイチゴ栽培施設「ネクサスファームおおくま」で実ったイチゴ

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楽しさを取り戻したわ和だひろし田浩志奥州棚倉商店会長昭和52年(1977)、棚倉町生まれ。創業98年、和田時計店の専務取締役。仕事の関係で、大阪、東京で生活、2011年11月に帰郷し、家業を継ぐ。地元若手商店主らとともに、「たなぐlove」を結成。2018年7月、インターネット通販サイト「奥州棚倉商店」立ち上げ。子どもの頃のにぎわい「福島が大変なことになっている!」このニュースは、震災当時暮らしていた東京で知りました。両親との電話で、原発事故、地元や家業の状況を聞き、家業を継ぐことを決心。その年の11月、妻と子どもを連れて故郷に戻ると棚倉の町はすっかり活気を失っていました。なんとか子どもの頃に見たにぎわい、楽しさを取り戻したいと、2018年7月、同じ志を持つ若手商店主らと、たなぐら共同店舗としてインターネット通販サイト「奥州棚倉商店」を立ち上げました。私が実家に帰ると決めたとき、知人たちは、「放射能ヤバいんじゃないの?」と心配しました。私自身は、原発事故の影響についてある程度理解していたので、不安はなかったのですが、「原発事故・放射能」などのフレーズが、福島のイメージになってしまっていると感じました。それは現在も続いていると思います。私の長男は震災の1ヵ月前に生まれ、今は新型コロナウイルス感染拡大のまただなか真っ只中にいます。子どもたちには、この体験を前向きにとらえ、新しいことにチャレンジする力に変えてほしい。特に震災と原発事故を経験した福島は、子どもたちが挑戦しやすい環境であってほしいし、私たち大人も子どもたちをサポートしていきたいですね。い207「奥州棚倉商店」では会津木綿の腕時計ベルトなど、異業種のメンバーが共同で開発した商品も登場

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私と従業わたなべ渡こうき邉光貴株式会社タカワ精密取締役昭和56年(1981)、南相馬市生まれ。明星大学電気電子工学部卒業後、東京のITソフトウェア会社にエンジニアとして勤務。2010年にUターンし、タカワ精密入社。2017年から水中ロボット「ラドほたる」開発に着手。「もうだめか…」とうつむきかけた震災後員209私たちの会社は、先代から産業機械の受注開発及び生産を行っております。現在は研究機関や企業と連携し、高放射線量の環境下でも作動する「耐放射線性」、水中での姿勢を保つ「半自律制御」、小回りのきく「小型化」を特長とする小型水中探索ロボット「ラドほたる」の研究開発に取り組んでいます。求められるスペックをつかみ取るまでは試行錯誤の日々が続きます。そんな中、2019年度に1号機が完成、さらに今はアップデートした後継機を開発中。ロボット開発のきっかけは、東日本大震災間もないある日、福島大学の一研究室から調査のための水中ロボットがほしいとの照会が始まりです。開発に必要な資金は県の補助金を申請、おかげで東京電力福島第一原子力発電所の原子炉格納容器の中を探索する水中ロボット開発に着手できたのです。地元南相馬市は津波被害があまりにも大きく、失ったものは計り知れません。そんな場所で経験したことのない世界にチャレンジすることは、震災後「もうだめか…」とうつむきかけた私と従業員の意識を変えました。今は、思いを同じくする仲間と出会い、地域に貢献したい気持ちも高まってロボット開発の意義の大きさを感じています。JAEA楢葉遠隔技術開発センターのロボット試験用水槽にて「ラドほたる」試験の様子

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そ西避れへ難か…指ら示のが出としつな辺利綱10年た前大熊町長昭和22年(1947)、大熊町生まれ。町議会議員を4期務め、2007年町長に初当選。1期途中の2011年、震災と原発事故が発生し、町民とともに田村市、会津若松市に避難し、避難対応と早期復興に尽力。2019年11月、町長を退任。10年前の3月12日朝、首相官邸から電話が入った。知らされないまま避難先に向かい、町民もバスに乗り込みました。それからの10年は、大変なことの連続。とにかく前に進むしかないと自分に言い聞かせて、やってきました。一番大変だったのは、やはり中間貯蔵施設の受け入れを決断したとき。90歳近い方から「戦争中も大変だったけど、『出てけ』とまでは言われなかった。戦争よりひどいよ」と言われたこともありました。反対派が圧倒的に多かったから、町長として、国に「反対」を表明してもよかった。でも、大熊町の汚染土を受け入れる場所はあるのか。なければ、大熊はずっとこのままだ。だったら、国に協力して、町民の生活の再建をはかったほうがいい。そう町民を説得して、受け入れを決断しました。これからのまちづくりは、後任にまかせたい。未来都市を新しくつくりあげる気持ちで取り組んでもらいたいと思っています。2011年4月、大熊町役場会津若松出張所開所式211わたなべ渡「避難指示が出た。西へ避難してほしい」。そう言われて、原発の深刻な状況を「帰還は無理だから」と賛成する人、「先祖の土地を守りたい」と反対する人、「条件によっては協力する」という人。町民の意見は、三者三様でした。

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富岡町夜の森地区で開かれた桜まつりで舞うよさこい愛好者【2019年4月撮影】

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資料編これまでの環境再生事業などの歩みを資料編としてとりまとめました。※「年」とあるものは暦年(1月から12月)を「年度」とあるものは会計年度、(4月から翌年3月)を指しています。年(年度)の表記は、原則として西暦を使用し、公的文書の引用等の場合は、和暦を使用しています。215

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資料編〈まえがき〉除染や汚染廃棄物対策等の環境再生事業は、放射性物質による環境汚染が人の健康や生活環境に及ぼす影響を速やかに低減することを目的として、原子力災害の被災地で暮らす方々の生活環境を取り戻すために実施する事業です。しかし、その環境再生事業のために、除去土壌等の仮置場を作る、中間貯蔵施設を作る、汚染廃棄物の処理施設を作るということは、その立地場所の被災者の方々に、大切な土地をご提供いただくことを意味しました。事業の実施にあたっては、福島県や各市町村の自治体職員の方々に、ご自身も避難生活を送られるなど被災者というお立場であるにも関わらず、国に対し、厳しいご意見もいただきつつ、多大なるご協力とご支援をいただきました。現在、地域住民の方々や地元自治体をはじめ、多くの方々のご理解とご協力を得て、帰還困難区域を除いて面的除染は完了し、各地に仮置場や仮設焼却炉、中間貯蔵施設、特定廃棄物埋立処分場等が整備され、稼働しています。施設によっては、その役目を終えて撤去が進んでいるものもあります。環境省は、福島での環境再生事業を実施するため、2012年1月、現在の福島地方環境事務所の前身となる福島環境再生事務所を発足させました。一から組織を立ち上げ、最初は数十名からスタートし、最も多い時期には600名ほどの職員が県内各地で、除染や中間貯蔵、汚染廃棄物対策等に従事しました。環境省だけでなく、各省庁から、福島県庁や全国の自治体から、そして民間から、たくさんの職員が集まってくれまし216

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た。出身の異なる多様な職員の集まる組織ですが、福島の復興・再生を成し遂げるという思いを一つに取り組んできました。また、復興庁、内閣府原子力災害対策本部原子力被災者生活支援チーム、経済産業省福島復興推進グループ等の関係省庁とも様々な場面で連携して取り組んできました。さらに、環境再生事業は、多くの研究者の方々にも支えられています。国立研究開発法人国立環境研究所は、事故直後から、環境省と一体となって活動し、環境再生事業に科学的な筋道をつけるのに大きな役割を果たしました。また、環境省の環境回復検討会、原子力規制委員会の放射線審議会、環境放射能除染学会など多くの場を通じて、専門家の方々の知見に助けられています。そして、忘れてならないのは、除染や汚染廃棄物処理などの現場業務に携わっていただいた作業員の方々です。福島県内外あわせて、国及び市町村が実施した除染作業には、のべ3,000万人を超える方々に従事していただきました。この他にも、汚染廃棄物対策や中間貯蔵施設の整備、除去土壌等の輸送等に従事している方が大勢います。こうした方々の存在がなければ、環境再生事業は現在のように進まなかったことは疑いようがありません。福島の復興のため、環境再生事業にご理解とご協力をいただいた住民や地元自治体の方々の苦渋の思いを決して忘れず、そして関わっていただいている全ての関係者の方々に対して感謝の気持ちをもって、今後も、安全かつ着実に環境再生事業に取り組んでいきます。217

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資料編目次福島県の環境再生のために、環境省がこの10年で取り組んできたこと。220福島県における東日本大震災の概況2221東京電力福島第一原子力発電所事故による地域への影響2242放射性物質に対する緊急対応225(1)事故発生時の状況225(2)モニタリングの実施225(3)放射線防護と災害廃棄物の処理方針の策定226(4)除染活動の開始2273放射性物質汚染対処特措法の概要228(1)放射性物質汚染対処特措法の公布228コラム01法律案検討時をふりかえって一井里映229(2)放射性物質汚染対処特措法に基づく除染対象地域の規定230(3)放射性物質汚染対処特措法に基づく基本方針230コラム02除染事業の初期を振り返って大村卓2314除染事業の実施232(1)土壌等の除染等の基本的考え方232コラム03ふくしまのつちはとわに浄らか小沢晴司234(2)除染の技術235(3)除染特別地域での除染(国直轄除染)235コラム04チェルノブイリから未来の福島を考える長谷川敬洋237(4)汚染状況重点調査地域での除染(市町村除染)238(5)除去土壌等の仮置場2395中間貯蔵施設の整備と除去土壌等の輸送の状況240(1)中間貯蔵施設の必要性、位置づけ240(2)中間貯蔵施設の受け入れの経緯240コラム05「第2章としての中間貯蔵」小林正明241(3)中間貯蔵施設への輸送開始に向けて242コラム06つながり藤塚哲朗243218

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219219コラム07中間貯蔵施設に係る「当面5年間の見通し」の作成コラム07中間貯蔵施設に係る「当面5年間の見通し」の作成縄田正縄田正246246(4)中間貯蔵施設の整備(4)中間貯蔵施設の整備244244コラム09富岡町と私コラム09富岡町と私川又孝太郎川又孝太郎256256(2)対策地域内廃棄物等の処理(2)対策地域内廃棄物等の処理253253(6)除去土壌等の減容化・再生利用に向けた取組(6)除去土壌等の減容化・再生利用に向けた取組248248(5)中間貯蔵施設への輸送の状況(5)中間貯蔵施設への輸送の状況247247①福島県内での指定廃棄物等の処理①福島県内での指定廃棄物等の処理257257(3)指定廃棄物等の処理(3)指定廃棄物等の処理257257(1)避難区域の変遷(1)避難区域の変遷2622627帰還困難区域における特定復興再生拠点区域の整備7帰還困難区域における特定復興再生拠点区域の整備262262コラム13かわまたの里山コラム13かわまたの里山杉浦紳之杉浦紳之269269(1)プロジェクトの概要(1)プロジェクトの概要266266(7)中間貯蔵施設への輸送に伴う仮置場の解消(7)中間貯蔵施設への輸送に伴う仮置場の解消251251コラム08復興事業に携わってコラム08復興事業に携わって長尾真人長尾真人250250②福島県外での指定廃棄物等の処理②福島県外での指定廃棄物等の処理259259コラム10汚染された廃棄物の熱処理技術研究の10年の歩みコラム10汚染された廃棄物の熱処理技術研究の10年の歩み大迫政浩大迫政浩258258(3)特定復興再生拠点区域外(3)特定復興再生拠点区域外264264(2)特定復興再生拠点区域(2)特定復興再生拠点区域263263コラム14「福島再生・未来志向プロジェクト」の立ち上げについてコラム14「福島再生・未来志向プロジェクト」の立ち上げについて峯岸律子峯岸律子272272(2)福島県との連携協力協定の締結(2)福島県との連携協力協定の締結270270(1)汚染廃棄物対策の概要(1)汚染廃棄物対策の概要2522526放射性物質に汚染された廃棄物の処理6放射性物質に汚染された廃棄物の処理252252③その他の汚染廃棄物③その他の汚染廃棄物261261コラム11コラム11事故由来放射性セシウムに汚染された廃棄物の埋立処分等への緊急対応と今後事故由来放射性セシウムに汚染された廃棄物の埋立処分等への緊急対応と今後遠藤和人遠藤和人2602608福島再生・未来志向プロジェクトの推進8福島再生・未来志向プロジェクトの推進266266コラム12国立環境研究所福島支部コラム12国立環境研究所福島支部-環境の知から地域を共に創る--環境の知から地域を共に創る-大原利眞大原利眞265265(3)未来に向けて(3)未来に向けて273273

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用語解220福島県の環境再生のために、射性物質汚染対処特措法の公布及ぼす影響を速やかに低減することが喫緊の課題となり「平成二十三年三月十一日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う原子力発電10年で取り組んできたこと。地震・津波除染2011年3月11日、マグニチュード9.0、震度6人や環境が放射線から受ける影響を減らす~7という、国内観測史上で最大規模の地震がために、放射性物質が付着したものを除去、発生しました。震源は三陸沖、深さ約24km。あるいは遮蔽物で覆うなどの対応を行います。これにより、岩手、宮城、福島県を中心と除去された土壌や廃棄物は、一時的な保管場所した太平洋沿岸である仮置場等において安全に保管します。を巨大な津波が襲いました。東京電力福島第一原子力発電所の事故この地震により発生した津波の影響により、東京電力福島第一原子力発電所で事故が発生しました。説環境省がこの除染で出た土壌や廃棄物一部放射性物質による環境の汚染が発生特定廃棄物の処理大気中に放射性物質が放出され、雨などで地表や建物、樹木などに降下することに特定廃棄物は仮置場等で適切に保管し、焼却等による減容化を行います。放射能濃度が10万Bq/kg以下のものは、既存の管理型処分施設で埋立て、より、汚染された土壌や廃棄物が発生しま10万Bq/kgを超えるものは中間貯蔵施設に搬入しした。ます。放射性物質による汚染が人の健康や生活環境に及ぼす影響を、すみやかに低減することが喫緊の課題となりました。■放射性物質汚染対処特措法東日本大震災に伴う原子力発電所の事故によって放出された放射性物質による環境の汚染が生じ、これによる人の健康又は生活環境に所の事故により放出された放射性物質による環境の汚染への対処に関する特別措置法」が公布された(2012年1月1日に全面施行)。放射性物質汚染対処特措法においては、除染特別地域と汚染状況重点調査地域が規定され、除染特別地域は、警戒区域又は計画的避難区域の指定を受けたことがある地域が指定されており、同地域では、国が除染の計画を策定し、除染事業を進めることとした。また、その地域の平均的な時間当たり0.23ミリシーベルト以上の地域を含む市町村を汚染状況重点調査地域に指定することとし、指定された市町村では、年間の追加被ばく線量が1ミリシーベルト以上となる区域について、除染実施計画を定め、除染を実施する区域を決定することとした。しゃへい放

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資料編2011年3月11日、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故により、未曾有の被害が発生しました。環境省では「放射性物質汚染対処特措法」に基づき、除染や汚染廃棄物の処理などを開始。2018年3月までに帰還困難区域を除くすべての地域で国及び市町村による除染作業が完了しました。避難指示も順次解除され、インフラ等も回復するなど、原子力災害からの復興が着実に進んでいます。みぞう中間貯蔵福島県内の除染によって発生した土壌や廃棄物は、中間貯蔵施設に輸送され、県外で最終処分されるまでの間、安全に管理・保管されます。再生利用・最終処分県外での最終処分に向けては、最終処分量の低減を図ることが重要です。このため、安全性の確保を前提としつつ、減容技術等の開発や、除去土壌の再生利用に関する実証事業などを実施しています。特定廃棄物とは以下の2種類を指します。■指定廃棄物放射能濃度が8,000Bq/kg超の廃棄物であって、環境大臣に指定されたもの。■対策地域内廃棄物汚染廃棄物対策地域※等で発生した、瓦礫(がれき)や住民の方が一時的に帰宅した際に発生する片付けごみなど。焼却灰、下水汚泥、浄水発生土、農林業系副産物※汚染廃棄物対策地域:楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村及び飯舘村の全域並びに田村市、南相馬市、川俣町及び川内村の区域のうち警戒区域及び計画的避難区域であった区域。リスクコミュニケーション/情報発信放射線健康不安対策に係るリスクコミュニケーションについて、専門家を派遣してセミナー・意見交換会などを実施しています。地域の皆様が安心して生活できるように、放射線や環境再生の進捗などの情報を積極的に発信しています。福島再生・未来志向プロジェクト環境再生の取組に加え、2018年8月から地域のニーズを踏まえ、「脱炭素」「資源循環」「自然共生」といった環境の視点から、地域の強みを創造・再発見する「福島再生・未来志向プロジェクト」に着手しています。■帰還困難区域長期間、具体的には事故後5年を経過してもなお、年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らないおそれのある、2011年12月26日時点で年間積算線量が50ミリシーベルト超の地域。■リスクコミュニケーション「リスクコミュニケーション」とは消費者、事業者、行政担当者などの関係者の間で情報や意見をお互いに交換しようというもの。環境省では、放射線への不安や地域の環境再生の状況などに対して、分かりやすい情報の提供や知る、聞く、学ぶなどの機会を提供。221

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福島県における東日本大震災の概況2011年3月11日14時46分。三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生しました。気象庁はこの地震を「平成23年東北地方太平洋沖地震」と命名。2011年4月1日に、この地震による災害と後述する東京電力福島第一原子力発電所の事故による災害を「東日本大震災」と呼ぶことに決定しました。▶東北地方太平洋沖地震の本震による震度分布図H23.03.1114:46発生地震名:平成23年東北地方太平洋沖地震発震時刻:2011年3月11日14時46分出典:福島県東北地方太平洋沖地震による被害概況▶震央位置と震度▶東日本大震災の被害状況人的被害死者:15,899名行方不明者:2,527名建築物被害全壊:121,992戸半壊:282,920戸出典:警察庁緊急災害警備本部「警察庁緊急災害警備本部平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震の警察活動と被害状況」令和2年12月10日▶東日本大震災における被害額の推計項目建築物等(住宅・宅地、店舗・事務所、工場、機械等)ライフライン施設(水道、ガス、電気、通信・放送施設)社会基盤施設(河川、道路、港湾、下水道、空港等)農林水産関係(農地・農業用施設、林野、水産関係施設等)その他(文教施設、保健医療・福祉関係施設、廃棄物処理施設、その他公共施設等)被害推計額約10兆4,000億円約1兆3,000億円約2兆2,000億円約1兆9,000億円約1兆1,000億円222発生場所(震源位置):三陸沖(北緯38度06.2分、東経142度51.6分、深さ24km)規模(マグニチュード):9.0(モーメントマグニチュード)出典:気象庁「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」総計約16兆9,000億円出典:内閣府(防災担当)「東日本大震災における被害額の推計について」平成23年6月24日

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資料編時間の経過とともに空間線量率は減少。継続的な除染効果も確認されています。事故直後と比べて空間線量率は着実に下降傾向にあります。▶80km圏内における空間線量率の分布マップ事故1ヶ月後(2011.04.29)事故102ヶ月後(2019.09.18)凡例地表面から1mの高さの空間線量率(μSv/h)19.0<9.5-19.03.8-9.51.9-3.81.0-1.90.5-1.00.2-0.50.1-0.2≦0.1測定結果が得られていない範囲※本マップには天然核種による空間線量率が含まれています。※事故1ヶ月のマップは現在と異なる手法によりマッピングされたもの。出典:原子力規制委員会「福島県及びその近隣県における航空機モニタリングの測定結果について」令和2年2月13日223

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1東京電力福島第一原子力発電所事故による地域への影響2011年3月11日に、マグニチュード9.0という日本周辺での観測史上最大の地震が発生し、それによって引き起こされた津波によって、東北地方じんだいの太平洋沿岸を中心に広範かつ甚大な被害が生じました。東京電力福島第一原子力発電所の事故(以下、「原発事故」という。)によって、環境中に放出された放射性物質は広範囲に拡散しました。また、原発事故は、社会的にも大きな影響を及ぼしました。同事故の発生以降、市町村は、国の指示に基づき、同原発から20km以内の地域を警戒区域に、事故発生から1年の期間内に積算線量が20ミリシーベルト(mSv)に達するおそれがある地域を計画的避難区域に設定しました。福島県全体の避難者数は、ピーク時には約16.5万人(2012年5月時点)となりました。また、警戒区域に位置していた自治体は、県内外に自治体機能を移しました。今もなお、多くの方が避難されています。224

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資料編2放射性物質に対する緊急対応(1)事故発生時の状況事故発生時、放射性物質による汚染が、人々が生活している避難指示区域外にまで広がっていることが明らかになったことにより、避難指示区域外でも放射性物質に対する緊急対応が必要となりました。しかしながら、原子力災害の拡大の防止及び復旧を図るための緊急事態応急対策や原子力災害事後対策で行うべきことは、「原子力災害対策特別措置法」(平成十一年法律第百五十六号)で定められていたものの、一般環境中に放出された放射性物質による汚染への対応をするための具体的な方法や分担などの実務的な枠組みの整備は不十分な状況でした。▶震災直後の東京電力福島第一原子力発電所出典:東京電力ホールディングス(2)モニタリングの実施国、福島県等の関係機関は、事故直後から放射性物質による汚染の状況を把握するために、屋外における放射線量のモニタリングを開始しました。これらの関係機関により進められてきた放射性物質のモニタリングについては、一元化して計画的に効率よく実施し、情報共225

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有、公開を行うため、原子力災害対策本部の下にモニタリング調整会議を設置し、2011年8月に「総合モニタリング計画」が策定されました。この総合モニタリング計画に基づいた各種モニタリングは、現在も継続して実施されています。(3)放射線防護と災害廃棄物の処理方針の策定モニタリングの結果を踏まえて、放射性物質による汚染に対し、早急に対策を行う必要がありました。まず、学校等の利用について文部科学省は、2011年4月19日に「福島県内の学校の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」を公表し、校庭・園庭で毎時3.8マイクロシーベルト(μSv)以上の空間線量率が測定された学校について、学校内外での屋外活動を制限することとしました。その後の状況を踏まえ、2011年8月26日に「福島県内の学校の校舎・校庭等の線量低減について」を公表し、学校において児童生徒等が受ける線量は原則年間1mSv以下とし、校庭・園庭の空間線量率は、児童生徒等の行動パターンを考慮し、毎時1μSv未満を目安とする方針としました。一般住民等の放射線防護の考え方については、原子力安全委員会は、2011年7月19日に「今後の避難解除、復興に向けた放射線防護に関する基本的な考え方について」を公表しました。また、目下の課題として、東日本大震災で生じた災害廃棄物を速やかに処理する必要がありました。しかし、災害廃棄物は放射性物質により汚染されたおそれがあったことから、2011年4月27日の原子力安全委員会の助言を受け、環境省は、2011年5月2日に「福島県内の災害廃棄物の当面の取扱い」を発表し、浜通り及び中通り(避難区域及び計画的避難区域を除く)の災害廃棄物の処分方法について、災害廃棄物安全評価検討会を立ち上げ、そこで検討を行うこととしました。その後、原子力安全委員会が2011年6月3日に「東京電力株式会社福島第一原子力発電所事故の影響を受けた廃棄物の処理処分等に関する安全確保の当面の考え方について」をまとめ、災害廃棄物安全評価検討会の検討を経て、環境省が2011年6月23日に「福島県内の災害廃棄物の処理の方針」を定めました。同方針では、放射性セシウム濃度が8,000ベクレル毎キログラム(Bq/kg)以下の焼却灰や不燃物については管理型最終処分場に埋立処分することが可能であり、8,000Bq/kg超の焼却灰については一時保管する等の方針を示しました。226

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資料編(4)除染活動の開始福島県内の市町村では、前述した「福島県内の学校の校舎・校庭等の利用判断における暫定的考え方について」を踏まえ、国の財政支援の下、校庭等の表土除去を実施することとしました。この頃は、まだ、「除染」という言葉が一般的ではなく、「線量低減活動」などの言葉が使用されていました。これらの取組は主に「学校」や「特定の家屋」といった、局所的な施設(「点」)に対する除染活動であり、十分な空間線量率低減効ことも認識され始めていきました。また、これまで、日本では、放射線やその人体に対する影響などに関する知識は、必ずしも広く共有されていませんでしたが、汚染の生じた地域の方々を中心に、放射線に関する知識や情報へのニーズが高まりました。これを受け、放射線の知識を有する学会や国、福島県などでは、放射線に関する知識や情報を得られるパンフレット等のツールを充実させていきました。果を得るためには、「面」での除染が必要である▶学校の除染(舗装面の高圧洗浄)227

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3放射性物質汚染対処特措法の概要(1)放射性物質汚染対処特措法の公布原発事故によって放出された放射性物質により、福島県を中心とした広範囲に環境汚染が生じました。人の健康や生活環境に及ぼす影響を速やかに低減するため、事故由来放射性物質によって汚染された廃棄物の処理や除染等を確実に行っていくことが喫緊の課題となりました。こうした状況を踏まえ、2011年8月に「平成二十三年三月十一日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う原子力発電所の事故により放出された放射性物質による環境の汚染への対処に関する特別措置法」(平成二十三年法律第百十号。以下、「放射性物質汚染対処特措法」という。)が公布され、同法に基づいて、国が除染や汚染廃棄物の処理等の環境再生を担うこととなりました。なお、放射性物質汚染対処特措法第44条の規定により、この法律に基づき講ぜられる措置は、「原子力損害の賠償に関する法律」(昭和三十六年法律第百四十七号)第3条第1項の規定により関係原子力事業者(東京電力)が賠償する責めに任ずべき損害に係るものとして、当該関係原子力事業者の負担の下に実施されるものとされています。228

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資料編法律案検討時をふりかえってCOLUMN012011年3月12日。原発事故のニュースを不安な気持ちで見ていた時は、まさか自分が、この事故に関わる仕事をするとは思いませんでした。当時、私は水・大気環境局総務課の係長でした。震災から2~3か月経ったころ、放射性物質に関する制度の検討チームに加わることになりました。当初10人程度のメンバーでしたが、少しずつ人が増え、執務室が大きくなり、体制が強化されていきました。放射性物質汚染対処特措法は、議員立法の法律です。衆議院法制局の方と一緒に、連日夜中まで法律案について議論しました。環境省はそれまで放射性物質を所管していなかったので、大学で専攻していたという職員に聞いたり、外国の制度を調べたり、必死に勉強しながらの作業となりました。法律案を検討するにあたって、大きな論点は、①誰が除染などをするのか、②どこを除染するか、③費用は誰が負担するのかだったと思います。私が携わった調整部分は主に①でした。除染は、原子力政策を推進してきた事業者や国が責任をもってやる必要がある一方、できるだけ早く、かつ地域の実情に合わせてきめ細やかに行うためには地方公共団体の協力が必要であると考えました。法律案検討時には、正直に言うとそこまで頭が回りませんでしたが、その後具体的な制度を作ったり、運用したりする際には、できるだけ自治体の方が現場で使いやすいものにしたいと思いました。特に規模の小さい自治体は環境部局の職員が少ないところもあります。他の復興事業も抱えながら自治体の方は本当に頑張ってくださったと思います。国が除染する部分(除染特別地域)については、どの省庁がやるか最後までもめました。結局法律案には「国」としか書かれず、後に閣議決定する「基本方針」で決めることとなりました。道路や農用地などそれぞれの土地を所管する省庁がやるのか、環境省が一括してやるのか、いずれも一長一短がありなかなか決まりませんでしたが、結局は他省から職員に来てもらった上で環境省が行うことになりました。私はこれまで色々な業務に携わらせていただきました。今の時代からみればなぜこうなっているの?と思うことも、当時担当した職員に聞くと、その時の科学的知見や社会・経済・政治情勢などを踏まえて一つ一つ積み重なってきた制度であることがわかります。今回の特措法も、今後評価がされていくことになると思いますが、正解がわからない中で色々と議論し模索して、そんな積み重ねの一つに加われたことは、とてもやりがいのある仕事でした。また、環境省職員をはじめ様々な関係者にお世話になったことは私の大きな財産となりました。ありがとうございました。いちいりえ一井里映2009年9月1日~2011年6月30日環境省水・大気環境局総務課企画係長2011年7月1日~2011年10月30日環境省大臣官房総務課課長補佐229

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(2)放射性物質汚染対処特措法に基づく除染対象地域の規定放射性物質汚染対処特措法では、除染の対象地域を「除染特別地域」と「汚染状況重点調査地域」として規定しています。除染特別地域とは、基本的に警戒区域又は計画的避難区域の指定を受けたことがある地域が指定されており、同地域では、環境省が除染実施計また、地域の空間放射線量が毎時0.23μSv以上の地域がある市町村については、当該市町村の意見を聴いた上で、汚染状況重点調査地域を指定しています。指定された市町村は、除染実施計画を定めて除染の実施区域を決定し、除染を行うこととなりました。画を定め、除染事業を進めることとしています。(3)放射性物質汚染対処特措法に基づく基本方針2011年11月に閣議決定された放射性物質汚染対処特措法に基づく基本方針(以下、「基本方針」という。)において、環境汚染の状況についての監視、測定や事故由来放射性物質により汚染された廃棄物の処理、除染などの考え方をとりまとめました。除染については、人の健康のこととしています。これまで、避難指示等が出ている除染特別地域の除染の実施主体は、単に「国」とされていましたが、基本方針の政府内における調整の結果、「関係省庁からの人材面も含めた協力を得ながら、環境省が行う」ことになりました。保護の観点から必要な地域を優先的に実施する230

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資料編除染事業の初期を振り返ってCOLUMN02みぞう私は未曾有の原子力事故災害の約2ヶ月後に、環境省内で発足した放射性物質に汚染された環境に係る何らかの法制度を検討するチームに入り、その後福島環境再生事務所長を務めさせて頂いた1年2ヶ月を含め、約3年間福島等における放射性物質の処理の仕事に携わりました。東電福島第一原発事故に起因する放射性物質の広域な拡散は、広い範囲で環境を汚染し、緊急な避難はもとより、放射性物質の影響及びそれへの不安で、多数の方の甚大な影響をもたらしました。家族を失い、ふるさとを離れざるを余儀なくされ、生業を奪われ、家族や地域の人間関係が分断され、多くの方が大変な苦労を余儀なくされました。法の検討段階でこのことに具体的なイメージをもっていなかった私は、現実に深く接するたびに影響の大きさを痛感しました。現在は、多くの人の努力と郷土への愛で、災害からの復興は進んだと思います。一方で、未だ避難が続く人々、一変してしまった生活や生業を取り返すことはできない人々がまだまだいらっしゃることに改めて影響の大きさを考えざるを得ません。さて、法制度と実施体制を整えるに当たって、大規模な汚染と生活への深刻な影響を考えれば、国の取組方針は、大規模かつ迅速に行うことを第一とせざるを得ませんでした。また、基礎自治体を中心とする災害対策の枠組に合わせ、また、国の限界もあることから、市町村に除染の計画策定・実施をお願いする役割分担とせざるを得ませんでした。理不尽な被害に遭われた方々からは、国が責任を持って元に戻すべき、丁寧にやるべき、急いでやるべきとの切実なお声をたくさんいただきました。現場の職員は自ら被災されたかたも多く、できるだけ丁寧にお応えしようとしましたが、組織も経験も仕組みも限られる中、大規模かつ迅速に空間線量を下げることを優先した結果、このような当然ともいえるお声にお応えしていくことなはかなかできませんでした。現在の復興にいたるには、国の取組における限界をご理解頂いたり、あるいは飲み込んで下さったり、さらには国の取組に欠けるところを補って下さる多くの人のご努力ご苦労があったからこそと思いますし、引き続き、多くの皆さんのご理解とご協力をいただけることを願っています。影響の大きさ、除染事業や復興の難しさ、多くの人の心に与えた影響を思うおおむらたくとき、このような事故を未然に防止することが何より重要と強く思います。大村卓それでも日本に原発の運転が必要であるなら、広範な汚染リスクと除染の難福島環境再生事務所所長(2012年1月~2013年6月)しさを覚悟して、十分な備えが必要ですが、私たちにその覚悟と備えはあるの含め除染関係に2011年6月から2013年6月まで従事。だろうかと考えています。現在、公益財団法人地球環境戦略研究機関(IGES)シニアフェロー231

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4除染事業の実施(1)土壌等の除染等の基本的考え方基本方針においては、土壌等の除染等の措置については、まずは人の健康の保護の観点から必要な地域の中でも特に成人に比べて放射線の影響を受けやすい子どもの生活環境については優先的に実施することが重要としています。自然被ばく線量及び医療被ばく線量を除いた被ばく線量(以下、「追加被ばく線量」という。)が年間20mSv以上である地域については、当該地域を段階的かつ迅速に縮小することを目指すものです。ただし、線量が特に高い地域については、長期的な取組が必要になることに留意が必要としています。追加被ばく線量が年間20mSv未満である地域については、次の目標を示しています。具体▶環境中の放射性物質による被ばく線量を下げるための方法232

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資料編的には、(ア)長期的な目標として追加被ばく線量が年間1mSv以下となること。(イ)2013年8月末までに、一般公衆の年間追加被ばく線量を2011年8月末と比べて、放射性物質の物理的減年8月末までに、子どもの年間追加被ばく線量が2011年8月末と比べて、放射性物質の物理的減衰等を含めて約60%減少した状態を実現すること。の3点です。衰等を含めて約50%減少した状態を実現すること。(ウ)子どもが安心して生活できる環境を取り戻すことが重要であり、学校、公園など子どもの生活環境を優先的に除染することによって、2013▶事故由来放射性物質による放射線量の減衰233

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ふくしまのつちはとわに浄らかCOLUMN03福島に赴いた2012年夏に詠んだ歌があります。「うつしよにすさぶる神のおりたちぬふるさとのつちはとわにきよらか」(事故で大地に放射性物質が降りました。先祖から大事に育まれてきた農地の土はとうとく除染で元のとおり浄らかといえるよう全力を尽くしたい)。2017年春、除染が概ね終了し各地の避難指示解除を目前にした頃もう一首詠みました。はかな「ふるさとのきのうあしたは儚くにはるなつあきふゆまためぐりくる」(避難指示解除を迎えても過去未来が虚しくなった方々がたくさんいらっしゃいます。それでも季節が経過し時間とともに様々な事柄が巡っていく)。いずれも我流の拙い一担当者の心象です。忘れられない場面の一つに2017年初めの浪江町住民説明会があります。除染もほぼ終了し、町の今後を左右する避難指示解除への意見を当時の馬場有町長が聞くため全国に避難中の町民との説明会を各地で開きました。役場幹部、町議会、復興庁、内閣府支援チーム、経産省、環境省からは当方や担当者が同行しました。2月の大阪北御堂の説明会場に、若い男性(浪江の方ではありませんでした)が突然、こんな説明会は無駄だからやめなさいと飛び込んできました。放射性物質のこと、国や県、町の説明不足について怒号し、司会の制止も聞かずいつまでも話し続けました。どうなるかと見守っていると、会場にいた避難者の女性が立ち上がり、その男性に向かって話しかけました。「あなたは国や県、町のことをひどい、と言っている。でも、浪江の住民のことを一番ばかにしているのはあなたじゃないですか。浪江の人はまるで未開人のように、自分の言葉で話せない、自分の頭で考えられない、だから自分が代わりに話してあげよう、と。それは私たちを見下しているのじゃないですか。今日は町民と町長との大切な会です。浪江の人は、自分たちで考えることができるし、自分たちで判断します。自分の言葉で話すことができます。」たど説明会が再開されました。浪江町を含め福島の方々が辿ってきた苦しおざわせいじみや時間の重みを改めて思い知らされました。小沢晴司私事ながら退職後宮城県の大学に移りました。引き続き福島、東北の2012年夏~2020年夏福島除染推進チーム次長、復興に微力を尽くしたく、引き続きご指導を賜りますよう何卒宜しくお願福島環境再生本部調整官、同副本部長、同本部長い申し上げます。2020年夏退職後宮城大学教授、福島大学客員教授博士(環境科学)234

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資料編(2)除染の技術放射性物質汚染対処特措法に基づく面的な除染を効果的・効率的に進めるため、複数のモデル事業等を通じて除染の技術が確立されてきました。具体的には、農林水産省を中心とした農地土壌の除染技術に関する実証実験、内閣府が国立原子力研究開発機構(JAEA)に委託して実施した「除染モデル実証事業」及び「除染技術実証試験事業」、環境省が実施した「除染技術実証事業」並びに福島県が実施した「福島県面的除染モデル事業」及び「福島県除染技術実証事業」が行われてきました。これらの事業において、建物等の工作物の洗は浄、土壌の剥ぎ取り・天地返し・深耕等の具体的な除染手法に関する知見が集積され、この知見等を基に、「除染関係ガイドライン」を環境省が作成しました。除染関係ガイドラインは、その後の事業による経験も適宜フィードバックされ、改訂・拡充が行われています。(3)除染特別地域での除染(国直轄除染)環境省が直轄事業として除染を行う除染特別ならはまち地域は、楢葉町、富岡町、大熊町、双葉町、浪いいたてむら江町、葛尾村及び飯舘村の全域並びに田村市、かわまたまち南相馬市、川俣町、川内村で警戒区域又は計画的避難区域であった地域などが指定されました。まず、環境省では、自衛隊による拠点の除染に続き、2012年1月から、除染活動の拠点となる施設(役場、公民館等)、除染を行う地域にアクセスする道路、除染に必要な水等を供給するインフラ施設などを対象とした除染(以下「先行除染」、235

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という。)を実施しました。先行除染は、双葉町を除く10市町村で順次開始し、2014年1月まで実施しました。また、2012年3月には、重要なインフラであるじょうばん常磐自動車道の警戒区域内における除染に係る実証事業を開始しました。さらに、除染実施計画の参考とするため、2011年11月より、居住地を中心に詳細なモニタリングを行い、空間線量率分布図を作成しました。2012年4月には、田村市、楢葉町、川内村、南相馬市域内において、除染実施計画を策定し、同年7月には、田村市、楢葉町、川内村において、面的な除染事業を開始しました。他の特別除染地域の市町村においても、順次、除染実施計画を策定し、面的な除染事業を開始しました。ネコンから地元の建設業者等まで含め、数多くの民間事業者と除染作業員の方々に業務として参画してもらいました。道路や港湾など社会資本を作ることが本業である業界の方々にとって、形あるものが残らない除染作業には多くの苦労と戸惑いがあったとお聞きします。また、除染作業に従事した作業員の人数は、汚染状況重点調査地域での市町村除染への従事者も含めて、のべ3,000万人を超えています。こうした除染作業の実施により、空間線量の低減は自然の減衰を待つよりも約18年早くなったと評価されています。地元で被災された方々を含め、全国から多くの作業員の参画を得て、世界に例のない除染作業を実施したことが、多くの地域の避難指示解除につながっています。これらの事業の大規模化に伴い、大量の作業員の確保、大量の作業員に対する労働安全、除染作業教育による質の確保が課題となり、各除染事業者は、試行錯誤しながら、これらの課題に対して、対応していきました。環境省では、これらの知見を共有し、除染事業の仕様書などに反映して、ルール化を図りました。インフラが復旧していないことや降雪により冬期の作業が制限されたことなどに起因し、事業に遅れが生じるなど、多くの困難が伴いましたが、2017年3月までに帰還困難区域を除いて国直轄除染は完了しています。現在は、除染実施計画に基づき、フォローアップ除染を必要に応じて実施しています。こうした除染事業の実施にあたっては、大手ゼ236

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資料編チェルノブイリから未来の福島を考えるCOLUMN04私はよく、チェルノブイリのことを思い出します。2013年のゴールデンウイーク、当時除染を担当していた私は、井上副大臣(当時)らに随行してチェルノブイリ原子力発電所を訪ねました。そこは、事故から約30年近くが経過していたにもかかわらず、時が止まったままの空間が広がっていました。うっそう原発から30kmにある立入禁止ゲートを超えて鬱蒼とした森を抜けていく道すがら、住民がいなくなった建物や農家、村に野生が入り込んでいる風景が目に飛び込んできます。事故を起こし有名な石棺の姿そのものよりも、はるかに強く印象に残りました。なお、除染がほとんど行われていないにもかかわらず、意外なくらい放射線量が低いのも驚きでした(ちなみに、旅行中で最も放射線量が高かったのは、日本-ウクライナの飛行機)。それから7年後の2020年の春、私は中間貯蔵施設の担当として福島地方環境事務所に赴任しました。以前に担当していた除染事業はひととおり終了し、そこから発生した除染土などを載せたトラックが福島中をひっきりなしに走っています。のどかな田園であった中間貯蔵施設の区域も変貌しており、地元の方からは「あまりに大きく変わってしまったので、道に迷ってしまう」と言われてしまうほどです。環境再生の取組は大きく進捗していました。ただ、これまで私たちが行ってきた取組、特に私がいま担当している中間貯蔵施設についていえば、先祖伝来の土地をお借りして行わせていただいている一時的な姿でしかありません。当面はこの事業について目途をつけることが最優先ですが、それが終着点ではありません。単にマイナスからゼロに戻すのみならず、未来に貢献できる場、人と人とのつながりを大切する場を創造するお手伝いをしていきたいと考えています。たしかに、事故前と全く同じ姿に戻すことは難しいかもしれません。しかし、日本のみならず、世界に対して「福島は世界のどことも違うことをやっている」と胸を張って言える場は作れるはずです。そのときの姿は、決して、時が止まったままのチェルノブイリ原子力発電所の周辺地域と同じではありません。はせがわたかひろ長谷川敬洋2011年~2013年環境省水・大気環境局除染チーム直轄除染班(現職)環境省福島地方環境事務所中間貯蔵部調整官237

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(4)汚染状況重点調査地域での除染(市町村除染)汚染状況重点調査地域については、福島県を県で104市町村(人口約690万人、面積約24,000km2)が指定されました。これらの市町村では、自ら地域の環境中の放射性物質による汚染状況の調査を行い、調査結果に基づいて、除染の実施の要否について判断しなければなりません。除染を実施することとした市町村においては、その実施方針、実施区域などについて環境省との協議を経て、除染実施計画を策定していきました。一方、もともと放射性物質汚染対処特措法の施行前に除染計画を策定していた市町村では、法施行にあわ汚染状況重点調査地域では、住民に近い存在である市町村が除染事業を実施することで、地域住民の理解が得られやすい側面がありました。一方で、汚染の程度や影響を受ける人口が市町村ごとに異なり、自治体によっては、除染範囲や除染方法等について地域住民のご理解が得られないケースや、市町村の間で取組状況の差異が生じるケースが見られました。市町村による汚染重点調査地域での除染は、2018年3月に終了し、一部市町村では、汚染状況重点調査地域の指定も解除されています。せて法定計画に切り替えて対応しました。238

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資料編(5)除去土壌等の仮置場除染を進めるためには、除染により生じた除去土壌等を仮置きする場所が必要不可欠でした。こうした仮置場の確保は、地権者や地域住民のご理解を得て進めていく必要がありましたが、当初、明を行うとともに、現実的な解決策を地元とともに模索しました。こうした話し合いを経て、多くの地権者の方々より、復旧、復興に協力するという気持ちなどから土地をご提供いただくことになりました。仮置場とは何か、なぜ必要かということについて、共通理解が存在しませんでした。▶除去土壌等の仮置場住民等からは、仮置場の周囲の空間線量率が上昇したり、集積した除去土壌等が漏れて飛散したりするのではないかという安全性に対する不安の声が挙がっていました。また、仮置きの期間が長期化し処分場になってしまうのではないかという心配や、他の地域で発生した除去土壌等を保管することへの不安等も示されていました。環境省では、仮置場の必要性について丁寧に説239

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5中間貯蔵施設の整備と除去土壌等の輸送の状況(1)中間貯蔵施設の必要性、位置づけ福島県内では、除染等に伴い、大量の除去土壌等が発生しました。これらは、福島県の各地で仮置きされている状態であり、一刻も早くこうした状態を解消する必要がありました。そして、除染等で生じた除去土壌等については、最終処分するまでの間、安全に集中的に管理・保管するための中間貯蔵施設を福島県内に設置することが、除染の加速化や復興を進めていく上で必要不可欠となっていました。2015年2月に国と福島県及び大熊町・双葉町との間において締結した、中間貯蔵施設に係る安全協定において、国は「福島県民その他の国民の理解の下に、除去土壌等の再生利用の推進に努めるものとするが、再生利用先の確保が困難な場合は福島県外で最終処分を行う」旨、定められています。(2)中間貯蔵施設の受け入れの経緯国は、2011年10月に、仮置場や中間貯蔵施設の基本的な考え方として、「東京電力福島第一原子力発電所事故に伴う放射性物質による環境汚染の対処において必要な中間貯蔵施設等の基本的考え方」を策定・公表しています。この中で、中間貯蔵施設の設置に向けたロードマップを示し、2015年1月を目処に搬入を開始するよう最大限の努力を行うことを明らかにしました。2013年12月に、環境省では、福島県及び中間貯蔵施設の立地候補となった自治体に対して、中間貯蔵施設の設置等の案を提示して受け入れの要請を行いました。この案について、2014年2月に福島県知事より、中間貯蔵施設については、大熊町及び双葉町に集約することなどの見直しの申し入れを受け、慎重に検討した結果、同年3月に中間貯蔵施設を大熊町及び双葉町に集約するなどの回答を行いました。その後、同年5月から住民説明会(全16回)を開催し、そこでいただいたご意見等を踏まえて、政府の考え方の全体像を福島県、大熊町、双葉町に提示しました。同年9月に福島県知事より中間貯蔵施設の建設受け入れを容認する旨、及び大熊町長並びに双葉町長より地権者への説明を了承する旨の意向をそれぞれいただきました。これらは、大変重い決断の下で行われたことを決して忘れてはなりません。同時に県外最終処分の法制化等、施設への搬入の開始にあたって確認が必要な5項目が示されました。240

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資料編「第2章としての中間貯蔵」COLUMN05震災2年目、連日、国会のいろんな委員会に呼ばれ、なぜ除染が進まないかとお叱りを受けましたが、原因ははっきりしていました。①個人のお宅や田畑の除染について、県内、県外に避難しているご本人を捜し出して了解をとらなければならない。②除染した土や枝葉を一定期間保管しておく仮置場が必須だったが貸していただけない。一時的な仮置場と納得してもらうため中間貯蔵施設に見通しをつけなければ、除染も進まず、帰還も遅れてしまいます。プロセスとしては、第1章:除染、第2章:中間貯蔵ですが、これらは関連する同時進行の仕事でした。担当局長に就任後、初めて大熊町の渡辺前町長を訪問すると、初対面から大熊町や町民の立場、町の将来像に関する真正面からのお話があり、この方には正攻法以外ないと強く印象づけられました。会津若松の仮庁舎に度々お邪魔し、人を育てる町をつくりたいとのお考えに触れ、中間貯蔵や環境から始まる「知のネットワーク」構築に取組中です。普段は親父と話しているような気にさせられますくわが、除染を先行実施しての大川原の新役場庁舎の鍬入れ式、開庁式では、帰還したいと言っていた町民への約束が果たせた、との万感のご挨拶が忘れられません。この基本姿勢は、吉田現町長にも引き継がれていると思います。かな双葉町の井戸川前町長には、当初なかなか面会が叶わず、初対面の際に、原発事故の責任者は誰か、なぜ環境省が除染や中間貯蔵を担当するのか、さらに環境省が登場あいまいすることによって東電の責任が曖昧になるのではないか、など大変根源的な質問をいただきました。その場での議論もありましたが、重い問いかけと感じ、その後いただいた質問状には、局内で議論をしてしっかり回答させていただきました(当時の町のHPなどに掲載)。いざわ伊澤現町長は、論旨明快な指導者で、工業団地の造成、誘致など復興の推進に腕を振るわれています。中間貯蔵の北端のエリアとも近く、復こばやしまさあき興構想に何らか貢献できればと考えています。環境省から送った職員を小林正明みっちり育てていただいてきていることも感謝に堪えません。2012年~環境省水・大気環境局長中間貯蔵は、第3章:再生利用や最終処分に至って完結しますが、除2014年~環境省総合環境政策局長染に始まるこのプロセス全てが復興の礎ですので、ご縁のある人々とのつ(JESCO法改正)2016年~ながりを大切に、末永くお付き合いし福島復興の行く末を見届けていき環境事務次官たいと思っています。2017年~環境省顧問として福島に関与2018年~JESCO社長241

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地権者説明会(全12回)については、同年9月から10月にかけて開催し、説明会後は、個別訪問等による丁寧な説明を行うとともに、地権者の皆様のご理解の下で、物件調査等に着手しました。5項目に対応した取組のうち、同年11月には、「日本環境安全事業株式会社法」(平成十五年法律第四十四号)の一部の改正を行いました。この改正では、日本環境安全事業株式会社は社名を「中間貯蔵・環境安全事業株式会社」(JESCO)に変更し、有害物質の処分等に実績を持ち、その知見と経験を生かして国と一体となって事業を支援する組織として、最終処分までの間、国等の委託を受けて中間貯蔵に係る事業等を行うことになりました。また、同改正において、中間貯蔵施設に関する国の責務を規定し、「中間貯蔵開始後30年以内に、福島県外で最終処分を完了するために必要な措置を講ずる」ことを明文化しました。(3)中間貯蔵施設への輸送開始に向けてその後、建設予定地内に除去土壌等を一時的に保管する保管場の整備を進め、2015年3月から安全かつ確実に輸送を実施できることを確認するため、福島県内43市町村から約1,000m3程度ずつ試験輸送(パイロット輸送)を開始しました。パイロット輸送においては、事前に準備した安全対策等は、概ね想定どおりに機能しましたが、日々の輸送を実施する中で明らかになった課題や中間貯蔵施設環境安全委員会等におけるご指摘を踏まえ、関係機関との連携の下、道路補修等の交通安全対策、事故を想定した訓練の実施等の改善策を随時講じることで、安全かつ確実に輸送を実施しました。こうした内容を反映して、2016年度以降の輸送実施計画をとりまとめました。242

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資料編つながりCOLUMN062011年秋頃から2015年夏頃まで中間貯蔵施設の整備の担当をしておりました。地震の影響で従来の地図はもはや使用できない、地盤の状況調査は放射線の影響下で実施するのは初めてという状況で、航空写真等測量の実施と放射線下での地質調査の歩掛作成が最初の技術的一歩でした。環境省においては用地取得を含めた大規模な公共事業を実施した実績がなかったため、関係省庁・関係機関への様々な協力要請と人員・技術者の確保を継続的に行いました。2011年12月に双葉郡内への施設設置検討要請、2012年3月に楢葉町、大熊町、双葉町設置要請以降3町の議会全員協議会への説明等々を経て12月には福島県による調査受け入れ、その後2013年に現地でのボーリング調査等を開始しました。この前後で2013年1月には大熊町関係行政区の皆様への説明会、7月から8月にかけて双葉町の関係行政区・全町民の皆様への説明会を開催しました。現地調査のため対象区域内を隅々までくまなく歩き、被災状況や地形・土地利用状況・各種施設等を目に焼き付け、その結果としてつな施設の配置・構造の検討に繋げました。安全対策検討会・環境保全検討会を立ち上げて技術的検討を実施し2014年春頃に施設全体の範囲・構造・配置の青写真が出来上がりました。その後5月から6月にかけて大熊町・双葉町の皆様への事業説明会を開催しました。また、9月から10月にかけて地権者の皆様への説明会を開催し、12月から2015年1月にかけて大熊町・双葉町から中間貯蔵施設建設受け入が容認されました。その後2015年2月からストックヤード工事に着手し当初計画から2か月後の3月から土壌等の搬入を開始することができました。中間貯蔵施設事業スタートとしての調査から計画・設計・用地・工事の一連の工程をすべて担当することができたのは土木技術者としてはかけがえのない経験であったと思っています。さらに、住民の皆様方に対する調査・事業・用地等に関するすべての説明会で直接説明し、皆様からまさにぶつけられた大きな大きな問題を理解し、その上で、事業の必要性を説明していくことの大切さ困難さを心から感じました。ふじつかてつろう説明会で質問される方々の表情や質問内容、何回も何回もおうかがいした藤塚哲朗地権者の皆様の避難先のお宅でのお話等々忘れることはできません。大熊町・当時の役職環境省双葉町役場の皆様には大変お世話になりました。ただただ今は感謝の気持ち中間貯蔵施設チーム長中間貯蔵施設等整備事務所長でいっぱいです。高速道路パーキングでの昼食中に多くの地権者の方からお声をかけられたこともあります。今でも地権者・関係者の方から電話をいただいたりしています。重ねて感謝しかありません。243

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(4)中間貯蔵施設の整備中間貯蔵施設では、放射性物質汚染対処特措法等に基づき、福島県内の除染に伴い発生した放射性物質を含む土壌及び福島県内に保管されている10万Bq/kgを超える指定廃棄物等を最終処分するまでの間、安全に集中的に管理・保管することとしています。中間貯蔵施設整備に必要な用地は約1,600haを予定しており、2020年12月末までの契約済み面積は約1,205ha(全体の約7割超。民有地については、全体約1,270haに対し、約9割に当たる約1,157ha)に至りました。これは、大熊町・双葉町の多くの皆様が、大変重いご決断のもとで中間貯蔵施設の受け入れを容認され、大切な土地を提供してくださったということになります。用地取得にあたっては、地権者との信頼関係はもとより、中間貯蔵施設事業への理解が何よりも重要であると考えており、地権者への丁寧な説明を尽くしながら取り組んでいます。2016年2月には、パイロット輸送の検証を経て、2016年度から本格施設の整備に着手し、用地取得を加速化して施設を順次、拡張していくこと、2016年度から段階的に輸送量を増加していくこ244

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資料編となどを内容とする「平成28年度を中心とした中間貯蔵施設事業の方針」を公表しました。さらに同年3月には、中間貯蔵施設に係る「当面5年の見通し」を公表しました。同年11月から、受入・分別施設と土壌貯蔵施設等の整備を進めています。受入・分別施設では、福島県内各地にある仮置場等から中間貯蔵施設に搬入される除去土壌等を受け入れ、搬不燃物等の分別作業を行います。土壌貯蔵施設では、受入・分別施設で分別された土壌を放射能濃度やそのほかの特性に応じて安全に貯蔵します。2017年6月に除去土壌等の分別処理を開始し、同年10月には土壌貯蔵施設への分別した土壌の貯蔵を開始しました。現在、中間貯蔵施設における除去土壌と廃棄物の処理・貯蔵を行うための全ての施設が稼働しています。入車両からの荷下ろし、容器の破砕、可燃物・245

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中間貯蔵施設に係る「当面5年間の見通し」の作成COLUMN072011年3月11日の東日本大震災発災時は国土交通省の高速道路課長でした。各交通機関がマヒする中、東北道、常磐道は翌12日の午後には緊急車両の通行を確保するも同日の福島第一原発の水素爆発によって常磐道の一部区間を含む半径20kmが避難指示区域で立ち入り禁止となり、環境省の除染モデル事業を経た工事再開は1年後となりました。その後、2014年7月から東北地方整備局長に異動しましたが、東北全体の復興支援道路整備など周辺の社会資本の復旧復興は進捗するも福島県内の警戒区域内は3年以上の月日が流れても壊れた家屋や自動車が放置され、手をつけられないままでした。このように福島の復興に力不足を感じている中、2015年7月に福島の中間貯蔵施設整備を担当する環境省技術統括官に着任しました。県内の膨大な除去土壌等を大熊・双葉両町内の面積約1,600haに一時集約する作業は用地買収の予定が大幅に遅れ2015年3月に町有地を借地してパイロット輸送を開始するに留まっていました。課題は登記記録人数にして2,360人の用地買収を進めることでしたが、まずは目標設定が不可欠と判断しました。このため既に事業説明を聞いて頂いた方々の御意向ちゅうちょを3段階に分け、進捗に最大最小の幅を持たせた目標を設定し、躊躇する部下を説得して「当面5年間の見通し」を2016年3月に公表しました。最大の目標でも2020年オリンピック開催までの集約は無理という内容でしたので関係者の叱責を受ける覚悟で根回しを行ったことを思い出します。事業実施にあたっては国土交通省の力を借りました。例えば用地調査は放射線対策を含め作業は膨大、かつ地権者は全国に避難されています。このため、この業務への参加業者を全国の地元の地方整備局の実績として認める通達の発出等、多くの支援を頂きました。担当職員は、環境省に加えて国土交通省、高速道路会社等からの有能な出向者も奮闘しました。さらに歴代の大臣、副大臣、政務官には現地に何度も足を運んで頂きました。この結果、多くの地権者の方々のご理解、苦渋の決断を得て用地面積は最大目標を上回るペースで進捗し、2020年現在、公有地を含めて9割以上を確保、2021年度末までに帰還困難区域を除き概ね搬入完了予定となっています。関係者の皆様に敬意を表するとともに、今後は土壌のなわたただし再生利用と2045年までの県外最終処分に向けて、さらなる政府一体の縄田正取組みが必要と考えています。2015年7月~2017年7月環境省技術統括官2017年7月~2018年7月環境省環境再生・資源循環局長246

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資料編(5)中間貯蔵施設への輸送の状況除去土壌等の中間貯蔵施設への搬入に際しては、草木類等の可燃物については可能な限り減容化(可燃物を焼却)した上で輸送を行うこととしています。輸送対象物量(帰還困難区域のものを除く)は約1,400万m3と推計されており、車両の集中防止、平準化の対策を実施しています。2021年度末までに、福島県内に仮置きされている除去土壌等(帰還困難区域のものを除く)の概ね搬入完了を目指し、引き続き、安全第一を旨として輸送を実施します。2020年12月には、輸送対象物量の7割を超える1,000万m3の輸送を実施しました。▶除去土壌等の輸送また、より安全かつ安定した輸送を目的として、大熊インターチェンジ、常磐双葉インターチェンジからの工事用道路や待避所、高速道路の休憩施設、輸送車両待機場所の整備といった道路交通対策に加え、運転者研修等の交通安全対策、輸送出発時間の調整など特定の時期・時間帯での247

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(6)除去土壌等の減容化・再生利用に向けた取組除去土壌等の県外最終処分に向けては、最終処分量の低減を図ることが重要です。基本方針においては、除去土壌については、技術の進展を踏まえつつ、保管又は処分の際に可能な限り減容化を図るとともに、減容化の結果分離されたもの等、汚染の程度が低い除去土壌について、安全性を確保しつつ、再生利用等を検討する必要があることが示されており、再生利用先の創出等に関し、関係省庁が連携して取組を進め、政府一体となって除去土壌等の減容・再生利用等に取り組むこととなっています。このため、県外最終処分に向けた技術開発等の取組に関する中長期的な方針として、2016年4月に「中間貯蔵除去土壌等の減容・再生利用技術開発戦略」及び「工程表」をとりまとめ、2019年3月に見直しを行いました。また、2016年6月には、放射線に関する安全性の確保を大生資材化し、適切な管理の下での利用を実現するための「再生資材化した除去土壌の安全な利用に係る基本的考え方について」を公表しました。現在、これらに沿って、福島県南相馬市及び飯舘村の実証事業を通じて、再生利用の安全性等の確認を進めています。これまでに実証事業で得られた結果からは、事業開始時から空間線量率等に大きな変動はなく、盛土を通過した浸透水の放射能濃度はすべて検出下限値未満となっています。また、飯舘村の実証事業では、2020年度より農地の造成工事に着手するとともに、食用作物等の栽培実験を実施し、生育性・安全性を確認しています。2020年12月現在、食用作物の放射性セシウム濃度の測定結果は、0.1~2.3Bq/kgであり、一般食品の基準値である100Bq/kgを大きく下回りました。前提に、減容処理等を行った上で除去土壌を再▶再生利用実証事業の様子再生資材を利用した除去土壌の再生資材化試験盛土上での作物の試験盛土上での野菜の試験盛土の様子(異物除去)の様子植え付けの様子(飯舘村)栽培実験(飯舘村)(南相馬市)(飯舘村)248

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資料編▶中間貯蔵除去土壌等の減容・再生利用技術開発戦略・工程表の概要249

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復興事業に携わってCOLUMN08東日本大震災が起きた当時は会計課で予算執行を担当していました。新年度を迎えると、災害廃棄物処理事業費補助金の処理に始まり、福島事務所の設置や復興特別会計の創設等に伴う事務手続き等、忙しない1年となりました。翌年度からは環境省が新たに行うこととなった除染・中間貯蔵施設事業を所掌していた水・大気環境局の予算・決算担当として、その後、2年間予算編成や執行などの業務に携わりました。2014年4月からは、当時の日本環境安全事業株式会社の中間貯蔵事業準備室に出向し、中間貯蔵事業を行うための調査を実施していましたが、法改正に伴い会社は中間貯蔵・環境安全事業株式会社と名前を変え、法律の施行日である2014年12月24日に中間貯蔵管理センターが福島県いわき市に開所し、ここから21ヶ月総務の担当としていわき市で勤務しました。私が着任した当時、まだ国道6号線は帰還困難区域で分断されて開通しておらず、楢葉町や富岡町などの沿岸地域も津波の被害を受けた状態のままで、現地に入ってなんとも言えない気持ちになった事を今も思い出します。む中間貯蔵管理センターは開所したものの、剥き出しの壁と床に机とPCが有るだけで、まずは執務室にするための環境や体制の整備をすることから始めました。JESCOは環境省が実施する中間貯蔵事業を支援するため、施設整備に向けた工事監督補助や発注支援、除去土壌等を福島県内の仮置場から中間貯蔵施設へ搬入するための輸送車両の管理を行うための輸送統合管理システムの開発とその運用、施設周辺等の環境モニタリングの実施等、多岐にわたる業務を担うことを求められていました。このため、当初十数名から始まった人員は加速度的に増えていきましたが、それに対応するための環境整備や福島県内の拠点設置等を行いました。上司である総務課長には、福島県庁を退職された、楢葉町出身の方に来て頂きました。課長は楢葉に家を新築直後に被災され、いわきに避難されていたのですが、そういう大変な状況で中間貯蔵事業に携わって頂きました。震災まで福島に縁もなく、土地勘のない場所で困っている中、色々とご指導・ご助言ながおまさと頂き、多岐にわたる業務を実施することが出来、本当に感謝しております。長尾真人当職は2016年10月付で異動しましたが、中間貯蔵管理センターはいわき2014年4月~12月日本環境安全事業㈱市の他、福島市・郡山市・南相馬市・会津若松市に支所を開設し、中間貯蔵中間貯蔵事業準備室2014年12月~2016年9月施設事業を支える組織づくりの一助となれたのではと思っています。中間貯蔵・環境安全事業㈱中間貯蔵管理センター総務課課長代理250

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資料編(7)中間貯蔵施設への輸送に伴う仮置場の解消中間貯蔵施設等への除去土壌等の搬入により、福島県内の仮置場のうち約7割が解消され、仮置場数は国管理で117カ所(2020年10月末時点)、市町村管理で320カ所(2020年9月末所の原状回復を完了し、2021年度は、280カ所程度の原状回復完了を目指しています。原状回復後は、地権者等による営農再開等が進められているところです。時点)となっています。2020年度までに194カ▶仮置場の原状回復の実施例中間貯蔵施設等への搬出・仮置場の原状回復地権者等による営農再開仮置場での保管原状回復完了写真提供:二本松市251

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6放射性物質に汚染された廃棄物の処理(1)汚染廃棄物対策の概要原発事故により、環境中に放出された放射性物質に汚染された廃棄物の処理も深刻な問題となりました。通常、災害廃棄物や産業廃棄物は自治体や排出事業者の責務において処理するものですが、東日本の各地において、処理の見込みのない汚染廃棄物が滞留していたため、一定の要件を満たす汚染廃棄物については、放射性物質汚染対処特措法に基づき、国が処理を行うこととなりました。放射性物質汚染対処特措法では、国が収集、▶福島県における除去土壌等及び特定廃棄物の処理フロー252

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資料編運搬、保管及び処分に責任を負う事故由来の放射性物質に汚染された廃棄物を「特定廃棄物」と位置づけ、「対策地域内廃棄物」と「指定廃棄種類で構成されています。このうち、「対策地域内廃棄物」とは、福島県内の警戒区域等(国が、その地域内にある廃棄物の収集・運搬・保管及び処分を実施する必要があると指定した地域(以下「汚染廃棄物対策地域」という。))における廃棄物のことを指し、津波がれき、被災家屋等の解体に伴う廃棄物、家の片付けごみ等です。「指定廃棄物」とは、汚染廃棄物対策地域内外に関わらず、福島県外も含めて、一定の濃度(事故由来放射性物質であるセシウム134とセシウム137の放射能濃度の合計が8,000Bq/kg)を超え、環境大臣の指定を受けた廃棄物のことを指し、焼却灰や下水汚泥、農林業系廃棄物等が指定されています。いずれも国が責任を持って処理を行うこととされており、これら放射性物質に汚染された廃棄物の処理が安全に行われるよう、遵守すべき処理基準も法令等で定められています。(2)対策地域内廃棄物等の処理対策地域内廃棄物が存する「汚染廃棄物対策地域」には、福島県浜通り地域の11市町村にまたがる旧警戒区域に相当する地域が定められています。「除染特別地域」と同じ区域です。2012年へ搬入しています。東日本大震災では、半壊以上の被害を受けた家屋を、所有者の申請に基づき、災害廃棄物として解体処理を行っています。また、福島県においては、避難指示の長期化により荒廃6月には、対策地域内廃棄物を適正に処理するため「対策地域内廃棄物処理計画」が策定されて▶浪江町仮設焼却施設おり、帰還困難区域を除いた地域の災害廃棄物等の処理の方針が定められています。災害廃棄物等の処理にあたって、最初に必要となるのは、仮置き場の確保です。これまでに、地域住民のご理解と市町村との緊密な連携によって、各市町村で仮置場を設置し、現在では、2020年11月末までに291万㌧の災害廃棄物等を仮置場253

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した家屋も半壊認定の対象となります。2020年11▶特定廃棄物の埋立処分施設(富岡町)月末までに対策地域内で約16,100棟の家屋等を解体しました。仮置場に搬入した災害廃棄物等は、可燃物であれば仮設焼却施設で焼却し、減容化を図っています。仮設焼却施設は、計9市町村で延べ11施設を設置し、2020年12月末現在6施設が稼働中となっていますが、5施設では、既に減容化処理を完了し、施設の解体撤去も順次進められています。仮設焼却施設において減容化処理を行う場合は、排ガス中の放射能濃度、敷地内・敷地周辺における空間線量率のモニタリングを行い、安全に減容化できていることを確認し、その結果を公表しています。また、コンクリートがらなどの不燃物についても、再生利用可能なものは再生利用を行っており、廃棄物の減容化に努めています。福島県内の特定廃棄物(対策地域内廃棄物及び指定廃棄物)については、10万Bq/kg以下の焼却灰や不燃物は既存の管理型処分場において埋立処分を行い、10万Bq/kgを超えるものは中間貯蔵施設に搬入し、県外最終処分まで保管することとされています。特定廃棄物の埋立を行っている既存の管理型処分場(旧フクシマエコテッククリーンセンター)については、2015年12月に福島県、富岡町及び楢葉町から当該処分場の活用を容認いただき、2016年4月に当該処分場を国有化しました。同年6月には、環境省と福島県町の間で安全協定を締結し、必要な準備工事を行った上で、2017年11月から当該処分▶被災家屋の解体の様子場への廃棄物の搬入を開始しています。2020年12月末現在で、搬入目標の約5割に相当する158,934袋の搬入を完了しています。また、埋立処分事業の受け入れにあたって、安全・安心の観点から情報発信や地域振興策の実施が地元から寄せられたことを踏まえて、2018年8月に特定廃棄物埋立情報館「リプルンふくしま」を開館し、特定廃棄物の埋立処分事業に関する情報発信や放射線に関する学習の機会の提供に努めています。254

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資料編▶対策地域区域内における仮設焼却施設の設置状況(2021年1月末現在)▶災害廃棄物等の処理量255

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富岡町と私COLUMN09私は現在環境再生事業担当参事官ですが、6年前には放射性物質に汚染された廃棄物の担当でした。最重要事項は福島県内の指定廃棄物の最終処分場として、既存の産廃処分場であるエコテックの活用を地元の皆様にご理解いただくことでした。実はエコテックが立地する富岡町とは義理の母親が7歳まで住んでいたというご縁があります。被災者でもあり、ご縁のある富岡町の方々にさらなる負担をお掛けすることに申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、同時に廃棄物の問題を解決できないことには復興が進まないことも分かっていました。富岡町の全員協議会や住民説明会では厳しいお言葉を数多くいただきましたが、福島の復興のために必要という思いの下、ご理解いただけるよう、安全・安心確保のための対策を充実し、国の責任を明確にするため施設を国有化することも決めました。私は2015年9月にドイツの日本大使館に出向しましたが、その年の12月パリで開催されていた歴史的な気候変動の国際会議COP21の期間中に宮本町長の受け入れ表明をニュースで見て複雑な想いでいたことを思い出します。本編に登場している大和田剛さんは、エコテックが立地する太田行政区の当時の区長でした。苦渋の選択を迫られる中で、地元の将来を常に考える方でした。富岡町のシンボルである桜をモチーフにして、子供も含め多くの人が集まれる場所にしたいと楽しげな広場のイラストを見せていただいたことが記憶うっそうに残っています。それが今の情報発信施設であるリプルンふくしまのベースになっています。当時は鬱蒼と草木が生い茂っていたリプルンの裏手の道なき道をそのイラストを片手にご案内いただいたこともありました。夏の暑い盛りでした。本編に出ているエコテックの搬入路やセメント固形化施設が立地する楢葉町の松本町長や当時の担当課長の青木教育長、富岡町の当時の課長の横須賀幸一さん、県中県南支所の遠藤景子さんにも大変お世話になりました。ドイツから帰国後、5年ぶりに富岡町や楢葉町を訪問させていただくと道半ばながらも力強く復興が進んでいることを感じます。現在は除染で出た土の再生利用の実証事業で飯舘村の方々にもお世話になっています。長泥地区の営農再開を目指して活動されている前区長のしぎはらよしとも鴫原良友さんの長泥を再生したいという熱い気持ちに応えていかねばと強く思います。これからは参事官としての職責を果たすことはもちろん、ドイツ赴任時代から培った再生可能エネルギーの知見や人脈を使って福島の復興に貢献していきたいと思います。かわまた川こうたろう又孝太郎2014年7月〜2015年9月環境省大臣官房廃棄物・リサイクル対策部指定廃棄物担当参事官室室長256

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資料編(3)指定廃棄物等の処理2020年9月末時点で、10都県において、焼却灰や下水汚泥、農林業系副産物(稲わら、堆肥等)等の廃棄物計約32万㌧が環境大臣による指定を受けています。これらの指定廃棄物は、基本方針において、「当該指定廃棄物が排出された都道府場所における保管は、国による処理方針が確立するまでの間、負担をお願いしている措置であることから、保管者の負担軽減も含めた取組が必要です。▶指定廃棄物の例県内において行う」こととされています。指定廃棄物は、国に引き渡されるまでの間、各都県のごみ焼却施設や下水道処理施設、農地等において、各施設の管理者等が環境省のガイドラ焼却灰農林業系副産物(稲わら)農林業系副産物(たい肥)インに沿って、遮水シート等で厳重に覆って飛散、流出を防ぐとともに、空間線量率を測定して周辺への影響がないことを確認するなどにより、適切に一時保管されています。ただし、こうした一時保管浄水発生土下水汚泥❶福島県内での指定廃棄物等の処理福島県内の指定廃棄物については、特定廃棄物の一部として、その処理方法が確立しており、10万Bq/kg以下のものは既存の管理型処分場に搬入・埋立処分し、10万Bq/kgを超えるものは中間貯蔵施設に搬入しています。福島県内の事業者、市町村等の申請等に基づく指定廃棄物は2020年9月末時点、全体で1,707件、291,382㌧あり、そのうち、822件、115,635㌧は焼却処理、埋立処分等により適正に処理しました。農林業系廃棄物や下水汚泥等の可燃性の指定廃棄物については、搬入の前に焼却等の処理によって処分量を削減し、性状の安定化を図る減容化事業を地元の協力と理解を得ながら進めています。これまでに、3件の減容化処理事業について焼却処理等を完了しました。また、指定廃棄物以外にも放射性物質に汚染され、農林業用の循環資源としては利用できなくなった稲わらや牧草等が農林業系廃棄物となって存在します。これらの農林業系廃棄物の処理について、市町村を越えた広域処理を進めており、飯舘村の仮設焼却炉での広域処理を皮切りに各地で実施し、2020年度では、田村市・川内村において、県中・県南等の24市町村の農林業系廃棄物を焼却処理する事業、安達市村の農林業系廃棄物等を焼却処理する事業が行われています。257

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汚染された廃棄物の熱処理技術研究の10年の歩みCOLUMN10放射性セシウムに汚染された廃棄物の焼却等の熱処理は、住民にとって大きな不安を感じる対象です。東日本地域を中心に放射性セシウムの汚染が認められた地域では、生活ごみに放射性セシウムが混入し、焼却処理における住民の方々の不安は大きなものでした。そのような背景から、国立環境研究所では緊急的な調査研究に着手しました。まず、妥当性のある測定調査手法の暫定マニュアルを2011年7月にまとめました。それに基づき施設での実態調査を進め、排ガス中の濃度が十分に低いレベルであること、バグフィルターにより高効率に除去できることを実証し、環境省による調査とも連携してデータ蓄積を図りました。それらの知見をもとに、「災害廃棄物安全評価検討会」における集中的な議論、検証がなされ、2011年12月に発出されたガイドライン策定や翌年から本格施行された特措法の処理基準策定に繋がりました。わが国は1990年代からダイオキシン問題を経験し、主な排出源であったごみ焼却施設では排ガス処理機能の高度化を図ってきました。結果的に、その対応が放射性セシウム対策に極めて効果的に機能しました。当方らは放射性セシウムの挙動解明の研究にも積極的に取り組み、処理過程での化学形態の推定から、放射性セシウムが主に塩化セシウムの形態をとっていること、塩化セシウムは冷却後に固体粒子で存在しダイオキシンに比較してけた違いに除去しやすいこと、また、バグフィルターではサブミクロンよりしゅうじんもさらに小さい微粒子でも極めて高い集塵効率が得られることを実証しました。これらの成果は、福島における除染廃棄物等の仮設減容化処理施設の整備等に繋がり、環境省が自信をもって住民の方々に安全性を説明する際の根拠になったものと考えています。さらに、中間貯蔵施設における灰減容化のための溶融処理プロセスの高度化にも当方らの研究が活かされており、廃棄物処理分野で長年にわたり培われてきた熱処理技術が放射線管理の技術と融合して、被災地復興に貢献してきたことを実感しています。しかし、廃棄物焼却処理への嫌悪感、原爆経験国であるわが国の国民の特有な放射線リスク認知、正誤見境ない情報が氾濫する情報化社会の中で、粘り強くコミュニケーションを図り、意思決定していくことには大変な苦労があったと思います。住民説明会で糾弾されたり、マスコミに批判されたり、精神的にタフな対応を迫られる場面も多くありましたが、使命感をもつ仲間と共に、揺るがない科学的な基盤をつくっていくことに常に真摯であれたことが、この10年の支えであったと、今は感慨深く思い返しているところです。おおさこまさひろ大迫政浩当時の役職2011年4月~独立行政法人国立環境研究所資源循環・廃棄物研究センターセンター長258

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資料編❷福島県外での指定廃棄物等の処理福島県以外の都県においては、指定廃棄物の処理の体制は確立できておらず、現在は、各都県の実情を踏まえた取組を進めています。環境省では、特に指定廃棄物の量の多い、宮城県、栃木県、千葉県、茨城県、群馬県の5県について、有識者会議を開催し、指定廃棄物を長期保管する長期管理施設の安全性を適切に確保するための対策や候補地の選定手順等について、科学的・技術的な観点からの検討を実施し、2013年10月に長期管理施設の候補地を各県で選定するためのベースとなる案をとりまとめました。その後、それぞれの県における市町村長会議の開催を通じて長期管理施設の安全性や候補地の選定手法等に関する共通理解の醸成に努めた結果、宮城県、栃木県及び千葉県においては、各県の実情を反映した選定手法が確定しました。これらの選定方法に基づき、環境省は、宮城県においては2014年1月に3か所、栃木県においては2014年7月に1か所、千葉県においては2015年4月に1か所、詳細調査を行う候補地を公表しました。詳細調査候補地の公表後には、それぞれの県において、地元のご理解を得るべく取り組んできたところですが、いずれの県においても、ご理解が得られず、詳細調査の実施には至っておりません。その一方で、各県ごとの課題に応じた段階的な対応も進めています。宮城県においては、県の主導のもと各市町が8,000Bq/kg以下の農林業系廃棄物の処理に取り組むこととされ、環境省はこれを財政的・技術的に支援しています。その一環として、2018年3月から4圏域(石巻、黒川、仙南、大崎)で汚染廃棄物の試験焼却が順次開始され、2019年7月までに終了しました。2020年12月末時点で、石巻圏域では本焼却が終了し、仙南圏域及び大崎圏域では本焼却を実施しています。なお、仙南圏域では、令和元年東日本台風による災害廃棄物の処理を優先するため本焼却を中断しています。栃木県においては、指定廃棄物を保管する農家の負担軽減を図るため、2018年11月、指定廃棄物を一時保管している農家が所在する市町の首長に参加いただく会議を開催し、国から栃木県及び保管市町に対し、市町単位での暫定的な減容化・集約化の方針を提案し、合意が得られました。また、2020年6月には、暫定保管場所の選定の考え方を取りまとめるとともに、可能な限り速やかに暫定保管場所の選定が行われるよう、県や各市町と連携して取り組むことを確認しました。千葉県においては、2016年7月に全国で初めて8,000Bq/kg以下に減衰した指定廃棄物の指定を解除しました。茨城県においては2016年2月、群馬県においては同年12月に、「現地保管継続・段階的処理」の方針を決定しました。この方針を踏まえ、必要に応じて保管場所の補修や強化等を実施しつつ、8,000Bq/kg以下となったものについては、段階的に既存の処分場等で処理することを目指しています。259

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事故由来放射性セシウムに汚染された廃棄物の埋立処分等への緊急対応と今後COLUMN11事故当時と言うべきか発災当時と言うべきか悩ましいが、いずれにしても当時は、福島はもとより、岩手や宮城、茨城、千葉における圧倒的な広範囲、圧倒的な物量の災害廃棄物への対応に追われていました。震災で亡くなられた多くの犠牲者を目の当たりにして精神的に厳しくなりつつも、実父が発災1ヶ月前に他界した現実から目を背けるかのように体力の続く限りできることは全てやる、という思いで奔走していたことを思い出します。放射性セシウムに汚染された廃棄物の埋立処分という未知の課題に対応するため、東日本各地を巡回した現況調査、調査後から終電までの時間で対応した廃棄物関係ガイドラインの作成、浸出水に出てしまった放射性セシウムの現場対応、北関東での指定廃棄物埋立処分に係る住民説明、一関市での指定廃棄物固型化実証と住民説明など、当時、人数の少なかった環境省と一体となった活動をしてきました。岩手や宮城からの災害廃棄物広域処理での放射性セシウム問題に対応するため、きずな遠い大阪などでも焼却や埋立処分の課題に取り組み、「絆」が形骸化していくことも体感しました。福島県の廃棄物処理については汚染された下水汚泥焼却灰が最初の対応でした。この対応で、埋立処分場内での放射性セシウム挙動予測モデルの基本形が作られました。富岡町の特定廃棄物埋立処分では要綱の作成や町の全員協議会にも参加し、日々湧いて出る多くの技術的課題に対応していました。平常時の廃棄物研究はコストやエネルギーバランスを考えながら段階的に着地点を見付けるプロセスを経ますが、緊急時の技術選択は、かなり安全側の設計になってしまうことを痛感した次第です。事故から数年間に対応した技術選択は自信をもって大丈夫といえますが、過度な設計であった部分も否定できません。これは、原子力災害廃棄物に対して全く準備(研究)してこなかったことが一因と考えています。その反省を込め、今後は原子力災害廃棄物対応を災害環境学という形で取りまとめていく所存です。茨城から福島に移り住み、人と食べ物、気候(ちょっと寒いですが)の多様さ、そして何より観光資源の豊かさに驚いています。次のステップは浜通りの再生・創生です。県外最終処分に向けた技術開発研究や、中間貯蔵施設の敷地の利活用、一般廃棄物処理など地域協働を意識しながら、これからも福島の地で研究を進めていきます。えんどうかずと遠藤和人2011年3月11日時点独立行政法人国立環境研究所資源循環・廃棄物研究センター廃棄物適正処理・処分研究室主任研究員2018年~国立研究開発法人国立環境研究所福島支部汚染廃棄物管理研究室室長260

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資料編▶指定廃棄物の数量(2020年9月30日時点)❸その他の汚染廃棄物8,000Bq/kg以下の廃棄物については、放射性物質汚染対処特措法ではなく、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」(昭和四十五年法律百三十七号)に基づき、通常の一般廃棄物又は産業廃棄物として処理されています。指定廃棄物のうち8,000Bq/kgを下回ったものは、保管者からの申し出等により、指定解除が可能となっており、指定解除後の廃棄物の処理については、国がその処分費用を全額補助することができます。また、8,000Bq/kg以下の廃棄物のうち、放射性物質汚染対処特措法に定める特定一般廃棄物、特定産業廃棄物に該当する廃棄物については、モニタリングの実施等が同法により義務づけられています。261

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7帰還困難区域における特定復興再生拠点区域の整備(1)避難区域の変遷原発事故により、原子炉の損傷や放射性物質の放出、拡散による住民の生命、身体の危険を回避するため、政府は、事故直後より、避難指示を発出しました。2011年4月には、避難指示区域である警戒区域(東京電力福島第一原子力発電所から20km圏)とその外側の計画的避難地域が設けられ、1年後の2012年3月に、これらの区域をその放射線量に応じて、帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域に3区分しました。帰還困難区域とは、年間積算線量が50mSvを超える地域であり、5年が経過しても、20mSvを下回らないと見込まれた地域であり、その立ち入りは厳しく制限されています。居住制限区域は、数年のうちの避難指示解除を目指す地域であり、年間積算線量が20~50mSvの地域、避難指示解除準備区域とは年間積算線量が20mSv以下の地域であり、早期の避難指示解除を目指す地域と区分されました。2014年春に田村みやこじ市の都路地区の避難指示が解除されたのを初めとして、2020年3月に双葉町中野地区等が解除されて、全ての居住制限区域と避難指示解除準備区域が解除されています。▶避難区域の概念図262経済産業省の資料をもとに作成

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資料編(2)特定復興再生拠点区域帰還困難区域では、将来にわたって居住を制限する区域とし、原子力災害対策本部において、バリケードなど物理的な防護措置を実施し、立ち入りを厳しく制限してきました。この帰還困難区域について、地元からの要望などを受けて、「帰還困難区域の取扱いに関する考え方」(平成28年8月31日原子力災害対策本部・復興推進会議)において、同区域の中に、線量の低下状況も踏まえて5年を目途に避難指示を解除し、居住を可能とすることを目指す特定復興再生拠点区域を整備するという基本方針が示されました。これを受け、2017年5月に改正された「福島復興再生特別措置法」(平成二十四年法律第二十五号)により、将来にわたって居住を制限するとされてきた帰還困難区域内に、避難指示を解除し、居住を可能とする「特定復興再生拠点区域」を定めることが可能となりました。特定復興再生拠点区域における避難指示解除の要件としては、2018年12月に原子力災害対策本部決定により、①空間線量率で推定された年間積算線量が20mSv以下になることが確実であること、②電気、ガス、上下水道、主要交通網、復興再生計画について総理大臣の認定を受けることにより、帰還困難区域の特定復興再生拠点区域における家屋等の解体・除染とインフラ整備等とを一体的に進めることになります。環境省では、現在双葉町、大熊町、浪江町、富岡町、飯舘村及び葛尾村の全ての特定復興再生拠点区域において総理大臣の認定を受けた各特定復興再生拠点区域復興再生計画に基づき、家屋等の解体・除染を実施しています。また、2020年3月のJR常磐線の全線開通にあわせて各特定復興再生拠点区域のうち、夜ノ森、大野、双葉の各駅周辺の一部区域では、避難指示の先行解除が行われました。現在は、拠点区域の全域解除に向けて、集中的に家屋解体・除染の取組を推進しています。なお、家屋等の解体により生じた特定廃棄物の処理については、可能な限り減容化した後、双葉地方広域市町村圏組合の管理型処分場(クリーンセンターふたば)を活用して埋立処分を行うこととし、2019年8月に環境省、同組合及び福島県の間で基本協定を締結しました。現在、埋立処分に向けて準備を進めています。通信など日常生活に必須なインフラや医療・介護・郵便などの生活関連サービスがおおむね復旧すること、子どもの生活環境を中心とする除染作業が十分に進捗すること、③県、市町村、住民との十分な協議、の3要件が示されています。各市町村が策定する特定復興再生拠点区域263

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▶特定復興再生拠点区域の状況出典:各市町村の特定復興再生拠点区域復興再生計画に基づき作成(3)特定復興再生拠点区域外「帰還困難区域の取扱いに関する考え方」(平成28年8月31日原子力災害対策本部・復興推進会議)では、特定復興再生拠点区域を整備するという基本方針を示すとともに、特定復興再生拠点区域外の帰還困難区域(以下「拠点区域外」、という。)についても、「たとえ長い年月を要するとしても、将来的に帰還困難区域の全てを避難指示解除し、復興・再生に責任を持って取り組むとの決意」を示しました。その後、拠点区域外については、「『復興・創生期間』後における東日本大震災からの復興の基本方針」(令和元年12月20日閣議決定)において、「それぞれの地域の実情や、土地活用の2020年12月には、原子力災害対策本部において「特定復興再生拠点区域外の土地活用に向けた避難指示解除について」が決定され、拠点区域外の土地活用に向けた避難指示解除の仕組みも創設されています。帰還困難区域の復興・再生に向けた意向は自治体ごとに異なり、帰還・居住に向けた避難指示解除という従前からの強い意向については、別途の対応が必要となります。本年で震災から10年を迎えることも踏まえ、個別に各自治体の課題、要望等を丁寧に伺いながら、拠点区域外の避難指示解除に向けた方針の検討を加速化させていきます。意向や動向等の現状分析、地方公共団体の要望等を踏まえ、避難指示の解除に向け、今後の政策の方向性について検討を進める」との方針を示しました。264

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資料編国立環境研究所福島支部-環境の知から地域を共に創る-COLUMN12東日本大震災は、私が所属している国立環境研究所(NIES)の研究に、そして、私自身に大きな影響をもたらしました。NIESでは震災直後から、地震、津波、そして福島第一原子力発電所事故による環境影響とその回復、被災地の復興に関する調査研究に取組みました。2016年には福島県三春町の環境創造センター内に福島支部を開設し、そこを現地拠点として全所的に新たな環境研究「災害環境研究」を進めてきました。個人的にも、震災後、NIESの災害環境研究をまとめる役割を担い、福島支部の立上げに従事して三春町に赴任するという変化がありました。環境創造センターは、放射性物質により汚染された環境を早急に回復し、将来にわたり安心して暮らせる環境を創造することを目的として福島県が設置した施設です。三春施設の研究棟にはNIESと日本原子力研究開発機構(JAEA)が入居し、福島県と三位一体となって環境回復・創造研究を進めることになりました。開所前には、性格やミッションが異なる3機関が一緒に仕事できるのかといった心配や、どのように協力すれば被災地に貢献できるのかといった課題がありました。このため2013年中頃から3機関で頻繁に議論し、約2年間かけて「中長期取組方針」を作成した上、2016年の開所を迎えました。現在、それから約5年間が経過しましたが、JAEAは原子力研究機関、NIESは環境研究機関、福島県は行政機関として各々の特徴を活かして3機関が協力し、他の関係機関とも連携して調査研究を進めています。また、センター交流棟でのイベントなどにも一緒に取り組み、相互の信頼関係を醸成してきました。このような蓄積をもとに、2017年春に帰還困難区域で発生した大規模山林火災や2019年10月の台風19号水害時に3機関が協力して、放射性物質の環境影響の把握や災害廃棄物への対応に取組みました。被災地の復興を進めるためには、様々な関係者が協働して地域づくりに取組むことが重要です。研究面では世界最先端の研究の前に、地域と協働した地道な研究こそが必要です。NIES福島支部は、地域協働をさらに強め、環境省の「福島再生・未来志向プロジェクト」や関係機関とも連携して、地域環境の再生・管理と地域資源を活かした環境創生に貢献する研究を進める予定です。「環境の知から地域を共に創る」ことを旗印に、被災地の環境復興を地道に支援し続けます。おおはらとしまさ大原利眞2011年度~国立環境研究所地域環境研究センター長2014年度~同研究所フェロー(福島支部準備室総括)2016年度~福島支部勤務265

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8福島再生・未来志向プロジェクトの推進(1)プロジェクトの概要2018年8月、環境省では、それまでの環境再生の取組に加えて、脱炭素・資源循環・自然共生など得意とする環境施策の分野においても福島の復興に貢献するため、「福島再生・未来志向プロジェクト」に着手しました。このプロジェクトは、地域のニーズを踏まえながら、福島復興の新たなステージに向けた環境施策の取組を推進し、環境の視点から地域の強みを創造・再発見しようとするものであり、大きく4分野の政策をパッケージ化しています。一点目は、脱炭素分野の取組であり、浜通りの自治体等が目指す脱炭素のまちづくりに対する支援を行っています。2018年度より、エネルギー特別会計予算を用いて、「脱炭素『まち・くらし創生』FS事業」により、特定復興再生拠点を有する自治体の区域をフィールドとした民間事業等についてのFS(フィジビリティ・スタディー)事業を支援してきました。2021年度からは、FSに加えて、具体的な事業への補助にも着手する予定です。また、原子力災害の被災地である浜通りの自治体では、脱炭素型社会を目指す動きが加速しています。大熊町は2020年2月に、浪江町が3月にゼロカーボンシティ宣言を行いました。環境省では、中間貯蔵施設を有する大熊町・双葉町との共催により官民連携でのオープンイノベーションの場として「大熊・双葉環境まちづくりミーティング」を開催した他、浪江町でも勉強会を開催するなど、ゼロカーボンを目指す被災地自治体に対して技術的な支援も行っています。二点目は、資源循環分野での取組です。「福島イノベーション・コースト構想」(2015年)における環境・リサイクル分野における取組の一つとして、官民連携による不燃性廃棄物の再資源化施設の導入に向けて、2018年度予算により補助事業を創設しました。本補助を受けた施設は、2020年10月に大熊町において特定復興再生拠点から生じる不燃性廃棄物の再資源化施設として稼働を開始し、拠点の整備事業に大きく貢献しています。将来的には先端リサイクル産業の拠点として発展していくことが期待されています。三点目は、自然共生分野の取組であり、福島県の国立・国定公園等の自然を生かして交流人口の拡大を目指すグリーン復興の推進です。2019年4月に福島県と環境省は共同で「ふくしまグリーン復興構想」を策定しました。同構想に基づき、国立・国定公園の魅力向上のため、ビジターセンターの改修やビューポイントの整備が進められています。ただみやないづまた、只見柳津県立自然公園に指定されている只えちごさんざんただみ見川沿岸等を越後三山只見国定公園に編入し、一体的な利活用を推進することで、只見地域の振266

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興を図ることとしています。さらに、これらの国立・国定公園を核とした広域周遊を推進するため、ロングトレイルの整備等も計画されています。2020年11月には、同構想を推進するため、福島県知事を会長として、「ふくしまグリーン復興構想推進協議会」が、福島県、環境省、関係省庁・市町村や関係団体の参画により発足しています。四点目は、情報発信とリスクコミュニケーションの分野であり、地域活性化への支援を目的として様々な取組を行っています。特定廃棄物埋立処分施設の情報発信施設である「リプルンふくしま」を整備し、特定廃棄物埋立処分事業と放射線に関する学習の場を提供しています。また、ソフト面でも、首都圏等の大学生を招聘して地元の方々との稲作の協働作業や地域のお祭りに参加してもらい、風評払拭に向けた情報発信を行ってもらうなど様々な取組を行ってきています。また、放射線健康不安対策に係るリスクコミュニケーションについては、2014年度にいわき市に「放射線リスクコミュニケーション相談員支援センター」を開設し、避難指示が出された12市町村を中心とした福島県全域において、住民を支える放射線相談員や自治体職員等の活動を支援していくため、研修会等開催や専門家の現地派遣等を行っています。2019年6月に初めて開催した福島再生・未来志向プロジェクトのシンポジウムでは、福島の現状について正しい情報を県内外に発信していくことが重要な課題として指摘されました。福島の風評払拭に効果ある情報発信・広報を行っていくことは、福島再生・未来志向プロジェクトの重要な役割の一つです。こうした観点から、福島再生・未来志向プロジェクトの取組の紹介だけでなく、環境再生事業を紹介するパンフレット製作、現地の見学ツアー、シンポジウム開催等の取組を進めています。▶放射線の基礎知識などを体験しながら学べる情報発信施設「リプルンふくしま」268

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資料編かわまたの里山COLUMN13放射線リスクコミュニケーション相談員支援センターの運営という委託業務を事故後4年目の2014年度から継続して受託しています。主たる業務は、避難指示が出された12市町村を中心に、自治体職員の方々や、住民からの放射線不安等の様々な生活上の問題に対応する相談員等に対して支援を行っています。具体的には、住民からの放射線に関する相談に対するアドバイス、相談員や自治体職員の研修会、住民セミナーや車座意見交換会の開催、専門家の派遣や広報資料の作成支援などを行っています。数ある支援メニューの中で、実働支援と呼んでいるものがあり、本コラムで紹介させていただきます。かわまたまち川俣町は標高1,000m弱の山々に囲まれ、里山文化があります。子供たちが学校行事として必めがみやまはなづかやまず登る女神山(599m)、富士山が見える北限の花塚山(918m)、朝の連続テレビ小説「エール」こせきゆうじたてのやまの古関裕而とゆかりの深い舘ノ山(322m)など魅力的な山がたくさんあります。事故後山開きは控えられていましたが、復興の一助として事故後7年目に「かわまたの里山」という小冊子を改訂出版することとなりました。道案内や見どころに加え、心配なく登っていただけるよう登山道の放射線量も掲載したいというご相談を受け、10ほどある山すべてに山の案内人の方々と登り、放射線量を一緒に測らせていただきました。山の案内人の方々たちご自身で事故直後から測られていたデータとも突き合わせて、経年変化を見させていただきました。また、2、3年経った経年変化も専門家にぜひ測ってもらいたいということで、2回、3回と登った山もあります。登山道は基本的には除染が実施されていませんので、線量の低減は物理的な減衰に従ったものになるはずです。しかしながら、どの山も理論値よりも2割ほど多く線量の低減が見られました。これは山の案内人の方々をはじめ多くの方が里山を愛し、登山道の整備をされていることが結果として除染したのと同じ効果をもたらし、里山の復活に役立っていると考えています。本コラムを書くにあたり思い出されるのは、山頂から見渡せる川俣の美しい町並みもそうですが、一緒に登りながらいろいろなお話をさせていただいた山の案内人の方々の優しいお顔、そして山に対する愛情などが印象深く思い出されます。仕事を通じてでしたが、その温かさに触れる機会を頂いたことを感謝し、本稿を終わりにさせていただきます。すぎうらのぶゆき杉浦紳之放射線リスクコミュニケーション相談員支援センター職員269

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▶大学生による稲刈りボランティア▶福島県外での風評払拭のための取組(2)福島県との連携協力協定の締結2020年8月、環境省は福島県と「福島の復興に向けた未来志向の環境施策推進に関する連携協力協定」を締結しました。「環境から挑む福島の復興、そして希望ある未来へ」を副題とする本協定は、「福島再生・未来志向プロジェクト」を県との協働による取組に発展させたものであり、同時に、環境省や福島県以外にも多くの主体の参画を促すことを狙いとするものです。環境省が都道府県とこうした包括的な環境施策に関する協定を締結ています。協定の期間は、第二期復興・創生期間である2025年度末までとしていますが、その間に、本協定に基づく取組を一つでも多く具体化・実現し、福島の復興と風評払拭に寄与していくことを目指しています。また、こうした取組は、第五次環境基本計画が掲げる「地域循環共生圏」の実践でもあり、2050年カーボンニュートラルに向けた先進モデルの形成にも寄与するものと考えています。したのは初めてのことであり、福島の復興に対する環境省の決意を表したものでもあります。▶連携協力協定締結式の様子本協定は、①ふくしまグリーン復興構想等の推進、②復興と共に進める地球温暖化対策、③ポスト・コロナ社会を先取りした環境施策の推進を3本柱とし、④本協定の効果的な実施に関する共通的事項とあわせて大きく4テーマの項目を定めた協定です。協定締結後の2020年秋以降、本協定に基づき、福島県との協働による取組は加速し270

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資料編資料編271271これまでの取組協定の概要●福島県は、震災直後より避難者の生活支援・帰還に向けた環境整備・国内外の風評払拭を実施●環境省は、除染・特定廃棄物処理による環境再生の取組に加えて、地域の強みを創造・再発見する「福島再生・未来志向プロジェクト」を実施基本的な考え方●ふくしまグリーン復興、福島県の再生可能エネルギー先駆けの地を目指した取組等、環境面での福島の特長を活かした施策を福島県と環境省が連携して展開●ウイズ・コロナ、ポスト・コロナ社会を意識して取組むことで、新しい日常生活、新しい地域のあり方を福島から発信第二期復興・創生期間において福島県と環境省が更なる連携自然資源活用により交流人口の拡大を目指す「ふくしまグリーン復興構想」の推進に向け、関係自治体・団体等による推進体制を整備するとともに、●国立公園・国定公園の魅力向上●只ただみやないづ見柳津県立自然公園の国定公園の編入●猪いなわしろこ苗代湖の環境安全など、広域周遊の仕組みづくりや、環境保全の取組を推進する。ふくしまグリーン復興構想等の着実な推進ポスト・コロナ社会への対応の視点から、自立・分散型・ネットワーク型の社会の形成を視野に入れ、●国立公園等におけるワーケーションの促進●復興に貢献する再生可能エネルギーの地産地消の推進●廃棄物の発生抑制、循環的な利用に関する取組●災害にも強い資源循環スキームの整備促進など、幅広い分野の環境施策において、レジリエント(強きょうじん靭)な社会のモデルとなる取組の推進する。ポスト・コロナ社会を先取りした環境施策の推進浜通り地域をはじめ福島の復興を加速させるため、県内における●省エネルギー対策●再生可能エネルギーの一層の普及促進●福島県産水素の利活用これらの取組を通じた未来志向のまちづくりなど地球温暖化対策に実効ある取組を推進する。復興と共に進める地球温暖化対策の推進広く県民や企業、市町村等の積極的な参画を促すため、●シンポジウム等の開催●優良な取組の推奨制度の創設などの取組を行うとともに、本協定に基づく取組を通じ、福島の復興の姿を広く県内外に発信するなど、浜通り地域をはじめ福島県の風評払拭に努める。本協定の効果的な実施に関する共通的事項▶「福島の復興に向けた未来志向の環境施策推進に関する連携協力協定~環境から挑む福島の復興、そして希望ある未来へ~」(2020年8月、環境省、福島県)

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「福島再生・未来志向プロジェクト」の立ち上げについてCOLUMN142017年4月、常磐線がまだ復旧しておらず、復興の最前線となる浜通りには、いわき駅から車で現場入り、はじめて目にする帰還困難区域、被災した建物、沿岸の津波の爪痕に、重大な任務だと実感しました。程なく「未来志向」を担当することになりました。当時、行政機能を避難先に移している自治体もあり、職員の方々も避難生活が続く中、行政運営と復興事業で、そのご苦労は計り知れず「未来志向」を切り出すのが時期尚早に思えました。現場に足を運ぶ度、町の方々のお話を聞く度「浜通りの未来像」とは何か、模索の日々が続きました。一方、省内では「未来志向プロジェクトチーム」の立ち上げ、関係課室一丸となって政策立案や予算の調整を進めつつも、「ビジョンなきプロジェクト」になるのではと、不安もありました。あぜ2018年春、除染を終えた田畑の畦に水仙の花が、家屋解体を終えた庭には主を待つように春の花が咲き誇り、その美しさに目を奪われました。役場で、この話をすると「除染、草刈りをしても、人が帰らないと、また荒れる。ご先祖様の土地が荒れるのは忍びない、何か方策がないものか」との職員の方々の言葉に、はっと気づかされました。未来を描くには、今をどうするか、地域が抱える目の前の課題に向き合い、そのせきかすみ先にようやく未来を見出すことができる、霞が関の仕事は「大きなビジョンを描き、計画、実行」が常、しかし「未来志向プロジェクト」は浜通りの方々と共に考え未来を見出す、そこからスタートをしてもいいのではと思うようになりました。地域の課題について、環境の視点から解決を模索する中で1つ1つ事業が動き出し、浜通りをはじめ福島県内にも展開する事業となりました。個別事業が縦糸ならば、横糸となる情報発信やリスクコミュニケーション、地域活性化事業は、より一層重要なものとなり、自治体をはじめ様々な方々の関わりのもと「福島再生・未来志向プロジェクト」が今の形として進んでいくことになりました。震災・事故から10年、復興の進捗によって、描かれる未来は地域によってそれぞれ異なり、また、コロナ禍の社会変化に描く未来が変わるかもしれません。状況の変化に柔軟に対応し、未来に向けて関係の方々と共に悩み、考え、歩みを強く進めること、それは環境行政の在り方そのもの。福島での多くの出会い、様々な方々の言葉を通じ、それを形にしていくことを学ばせていただいた3年間となりました。みねぎし峯当時の役職りつこ岸律子環境省環境再生・資源循環局特定廃棄物対策担当参事官室併任福島地方環境事務所総務部復興担当調整官272

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資料編(3)未来に向けて復興を目的とする国や自治体の各種計画の他にばんだいあさひ▶ワーケーションの聖地を目指す磐梯朝日国立公園も、福島復興再生特別措置法に基づく「福島イノベーション・コースト構想」や「福島新エネ社会構想」(福島新エネ社会構想実現会議、2016年7月)「福、島県再生可能エネルギー推進ビジョン(改訂版)」(福島県、2012年3月)など、未来に向けた数多くのビジョンが示されています。また、ゼロカーボンシティを町づくりのビジョンとする市町村も増えてきています。復興を超えて、その先の環境を視野にいれた取組が各所で始まっています。環境省は、除去土壌等の搬入開始後30年以内の県外最終処分が義務づけられている中間貯蔵施設の管理や跡地の整備、特定廃棄物埋立処分施設の管理などで、長期にわたり、地域の将来に責任を有する主体として福島の地に関わり続けることになります。一般的に、未来と言えば30年後は一つの目安。環境省は地域の方々とともに福島の未来の姿を共に見る立場にあり、共に未来を創っていく役割を担う地域の一員でもありたいと考えます。環境再生の取り組みに加えて、地域の方々との対話を通じ地元のニーズを踏まえ、環境施策の分野においても福島の希望ある未来に向けて貢献していく。そうした想いをもって、「福島再生・未来志向プロジェクト」に取り組んでいきます。▶大熊・双葉環境まちづくりミーティング273

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東日本大震災・福島第一原子力発電所事故から10年の節目を迎えるにあたり、福島の“今”を伝えたいと考え、本書を刊行することといたしました。この10年間、様々な立場で環境再生に関わった方や地域の復興に取り組まれてきた方など、計100人(組)のお話を収録しています。福島に対して、事故直後の印象を有している方には復興に向けた様々な取組を知って“風評”の解消に役立て、事故の記憶が薄れてきている方には困難に直面された方々の記憶を共有することで“風化”の防止に役立てていただきたいと考えました。巻末には、環境省で取り組んできた環境再生事業に関する資料編を、当時の担当職員らのコラムを添えて収録しています。福島の復興は、まだ道半ばです。引き続き、環境再生事業を安全かつ着実に進めていくとともに、中間貯蔵施設に保管する除去土壌等を搬入開始から30年後となる2045年までに福島県外で最終処分するという約束の達成に向けて取り組まなければなりません。環境再生事業のため苦渋の決断でご協力をいただいた住民の方々の思い、まだ避難指示が解除されずご自宅に戻れない方々の思い、そして、本書で取り上げきれなかった多くの方々の思いにも心を寄せて、今後も誠心誠意取り組んでいく。100人(組)の方々のお話を収録した本書は、この決意を新たにするものともなりました。本誌の企画には、(株)福島民報社に多大なるご協力をいただきました。着手が昨秋からとなり、多くの関係者の方々にご無理をお願いしました。本書の発刊に関わっていただいた全ての皆様にこの場をお借りして御礼申し上げます。2021年1月275

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福島環境再生100人の記憶2021年3月11日初版発行[編著・発行者]環境省環境再生・資源循環局東京都千代田区霞が関1-2-2電話番号:03-3581-3351(代表)[協力]福島民報社、株式会社コトバ[印刷・製本]株式会社民報印刷落丁・乱丁がありましたらお取り替えいたします。本書を無断で複写・複製することは、著作権法上の例外を除き、禁じられています。ISBN978-4-904834-58-9

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